第十茶番 特務隊、出る
朝日が建物の隙間から差し込み、眠っていた街がゆっくりと動き始めていた。
通勤用の車両が道路を行き交い、停留所には人が集まっていく。商店の看板が次々と灯り、公共端末には今日の交通情報が流れ始める。
それらを動かしているものは、人々の生活にあまりにも深く溶け込んでいた。
――感情素子。
人が笑う。怒る。悲しむ。誰かを想う。
感情生命体が感情を抱くことで生まれた感情素子は、人体に備わる感情素子回路によって捕捉され、エネルギーへと変換される。その一部は社会供給網へ送られ、交通、通信、照明をはじめとする都市機能を支えていた。
人が感情を持つ限り、街は動く。
それが、この時代の当たり前だった。
感情保安庁警察部特務隊の詰所でも、いつも通りの朝が始まっている。
「おはようございます、筆頭」
「おう」
ヒロ・アシハラは隊員たちへ片手を上げ、そのまま自分の机へ向かった。
昨夜はほぼ徹夜。そして夜明け前から筋力鍛錬。
にもかかわらず、その足取りには疲労の欠片もない。
「筆頭、昨日の報告書です」
「そこに置いてくれ」
「あと、決裁待ちが十二件」
「……」
ヒロの足が止まった。
「筆頭?」
「先に昼飯にしないか?」
「まだ朝です」
「そうか……」
戦場では決して退かない男も、書類の山には若干弱い。
そんな穏やかな朝を切り裂いたのは、詰所内へ流れた一本の通信だった。
『南区にて軽度堕転者発生。現在、守備隊が対応中』
何人かの隊員が顔を上げる。
だが、誰も動かなかった。
軽度の堕転者であれば、現場へ出ている守備隊で十分に対応できる。
ヒロも通信端末へ一度目を向けただけで、机に置かれた書類へ視線を戻した。
「平和が一番だ」
「軽度とはいえ堕転者ですよ?」
「守備の連中がいる。大丈夫だろ」
そう言って、一枚目の報告書を手に取る。
その直後だった。
『緊急。南区の対象、重度へ移行』
ヒロの手が止まる。
続けて、通信が入った。
『周辺住民に感覚共鳴を確認。異常化が複数名へ伝播しています』
詰所の空気が変わった。
『一般市民への被害拡大。守備隊は救助、看護及び避難誘導へ移行。戦闘要員が不足しています』
『特務隊へ出動を要請』
「行くぞ」
椅子を引く音が一斉に重なった。
隊員たちは装備庫へ向かい、それぞれの刀剣と携行装備を手に取っていく。その中央でヒロは壁へ立て掛けられていた大太刀を掴み、背負った。
祢々切丸。
全長二メートルを超える大太刀を携え、ヒロは誰よりも先に詰所を出た。
◇
南区へ到着した時には、既に街の様相が変わっていた。
道路には救護車両が並び、守備隊員たちが負傷者を次々と安全区域へ運んでいる。泣きじゃくる子供を抱き上げる者、傷口を押さえながら担架を運ぶ者、避難する市民を誘導する者。その向こうでは、別の隊員たちが堕転者を食い止めていた。
守備隊は戦うだけの部隊ではない。市民の救助も、看護も、避難誘導も担う。
だからこそ、被害が広がるほど戦闘へ割ける人員は減っていく。
そして、その穴を埋めるために呼ばれた者たちがいた。
感情保安庁警察部――特務隊。
通常部隊だけでは処理できなくなった脅威へ踏み込み、戦闘そのものを引き受ける。
「筆頭!」
守備隊員が駆け寄ってきた。
「発生源は一名です! 当初は軽度でしたが、突然重度へ移行。その直後から感覚共鳴が始まりました!」
ヒロが前方を見る。
道路の中央に、一人の男が立っていた。
身体を大きく震わせ、苦しそうに頭を抱えている。その周囲では異常が伝播した数名が暴れ、守備隊員へ襲いかかっていた。
「市民は?」
「避難中です!」
「分かった。救助を優先してくれ」
「しかし――」
「こっちは俺たちがやる」
ヒロはそれだけ告げ、祢々切丸の柄へ手を掛けた。
「特務隊、抜刀!」
刀が鞘を走る音が重なる。
一人の隊員が、迫ってきた堕転者へ踏み込んだ。振り下ろした刀が肩口を捉え、相手の身体が大きく揺らぐ。
だが、止まらない。
「くそっ……!」
堕転者とは、単に理性を失って暴れている人間ではない。
人間の身体には、生まれながらに感情素子回路が存在する。喜びも、怒りも、悲しみも、誰かを守りたいという願いさえも、その回路によって感情素子エネルギーへ変換される。
そして堕転とは、その回路が異常化した状態だった。
肉体だけを傷つけても、異常化した回路そのものを止めなければ終わらない。
「もう一度だ!」
隊員が刀を握り直す。
感情保安庁の刀剣には、使用者の感情素子回路から送られるエネルギーを受け取るための感情素子チップが組み込まれている。
ただ斬るための刃ではない。
異常化した感情素子回路へ干渉し、その働きを止めるための武装だった。
隊員が再び踏み込み、刃を走らせる。
今度は違った。
堕転者の身体が大きく仰け反り、そのまま膝から崩れ落ちる。
「次!」
特務隊員たちが散開する。
一方、ヒロは誰よりも前へ出ていた。
目指すのは、発生源となった重度個体。
男が吼え、道路を蹴った。
その突進を正面から見据えながら、ヒロは背中の祢々切丸を抜き放つ。
巨大な刀身が朝日を弾いた。
構える。
足を置き、腰を落とす。
前話までなら、夜明けの訓練施設で何度も繰り返していた動きだった。
だが今、ヒロの後ろにいるのは木刀を眺める隊員一人ではない。
負傷した市民がいる。
救助に走る守備隊員がいる。
逃げ遅れた者を守るため、必死に踏み止まっている者たちがいる。
だから、ヒロは退かない。
重度堕転者が腕を振り上げる。
ヒロの足が地面を踏み込んだ。
足から生まれた力が腰を通り、背中から肩、腕へと伝わり、最後に祢々切丸へ集約される。二メートルを超える大太刀とは思えない速度で刃が走り、迫っていた腕を弾き上げた。
――国津流。
巨大な刀を腕力だけで振り回す剣術ではない。足運びから始まる全身の連動によって、己の力を一つ残らず切っ先へ届ける。
重度個体が体勢を崩す。
ヒロは既に次の一歩を踏み込んでいた。
横薙ぎを躱した相手へ刃を返し、身体を入れ替えながら斬り上げる。相手が後退すれば、その距離を祢々切丸の長大な間合いが呑み込み、反撃へ転じようとした瞬間には次の刃が進路を塞いだ。
「すげぇ……」
後方の隊員が思わず漏らす。
大きいから強いのではない。
速いからでもない。
一つ一つの動きが、次の一撃へ途切れることなく繋がっている。
毎朝、何百回、何千回と繰り返してきた動作が、今は人を守るための一振りになっていた。
やがて重度個体の動きが鈍る。
「筆頭! 今です!」
「あぁ」
ヒロが祢々切丸を構え直した。
決着。
誰もがそう思った。
ところが――。
カチン。
祢々切丸が鞘へ収まった。
「……はい?」
隊員の口から、間の抜けた声が出る。
「筆頭!?」
ヒロは首を回し、肩を二度ほど上下させた。
「なんでしまったんですか!?」
「こっちの方が早い」
「何がです!?」
答える代わりに、ヒロは走った。
重度個体が腕を振るう。
頭を下げて潜り込み、懐へ。
右拳。
ドゴッ!!
重い衝撃音とともに、重度個体の身体が浮いた。
「ちょっ――筆頭!!」
着地するより早くヒロが距離を詰め、腹部へ左拳を叩き込む。身体が折れたところへ肩からぶつかり、そのまま地面へ叩き倒した。
「待ってください! 普通の打撃じゃ感情素子回路に干渉できません!」
「そうなのか?」
「さっき説明したでしょう!?」
「聞いてない」
「でしょうね!!」
重度個体が起き上がる。
ヒロは拳を握った。
もう一発。
ドンッ!!
今度こそ、男の身体が地面へ沈む。
そして――動かなくなった。
「……」
隊員が固まる。
周囲にいた特務隊員も、守備隊員も、一瞬だけ言葉を失っていた。
やがて端末を確認していた一人が、恐る恐る顔を上げる。
「……異常反応、停止」
「え?」
「感情素子回路……正常域へ戻っています」
全員の視線が、ヒロの拳へ集まった。
「筆頭!?」
「なんだ」
「なんで感情素子チップのついてない拳で倒せるんですか!?」
ヒロも自分の拳を見た。
少し考える。
「知らん」
「知らん!?」
「だが」
ヒロは拳を開いて閉じた。
「刀より戦いやすいのは事実だ」
「そこじゃないです!!」
ちなみに。
これは、筋肉がすごいという話ではない。
本来、感情素子を受信する機構を持たない生身の拳では、異常化した感情素子回路へ干渉することなどできない。どれだけ鍛えようが、どれだけ拳が硬かろうが、それとこれとは別の話である。
できないはずなのだ。
それでもヒロ・アシハラは殴り、そして実際に異常化した回路を止めてしまった。
本人は理由を知らない。
周囲にも分からない。
この時点で既に、ヒロ・アシハラという男は、この世界の常識から僅かにはみ出していた。
とはいえ。
このまま素手の方が強いという結論に至られては困る。
刀を否定することは、浪漫を否定することと同義である。何より、刀を中心に回っている本物語そのものを根底から否定しかねない。
ヒロ・アシハラ。
大変申し訳ないが、今後とも祢々切丸を使っていただきたい。
◇
騒ぎが収まった頃には、太陽はすっかり高く昇っていた。
特務隊による戦闘が終わると、ヒロはすぐには現場を離れなかった。負傷した隊員の状態を確認し、守備隊とともに取り残された市民がいないかを見て回り、最後の救護車両が出ていくまでその場に残った。
「筆頭。全員、搬送完了です」
「あぁ」
ようやくヒロが歩き出す。
「腹減ったな」
「さっきまで重度堕転者を殴ってた人の第一声ですか、それ」
「腹は減るだろ」
「まあ……減りますけど」
少し歩いたところで、ヒロが振り返った。
救護車両が遠ざかり、封鎖解除の準備が始まっている。まだ傷跡は残っているものの、街には少しずつ人の声が戻り始めていた。
「平和が一番だ」
今度は、誰も突っ込まなかった。
◇
その日の夕方。
「筆頭、飲みに行きません?」
「行かん」
「即答ですか」
「ジムに行く」
「朝も行ってましたよね?」
「あぁ」
「今日、戦いましたよね?」
「あぁ」
「しかも最後、素手でしたよね?」
「あぁ」
「……もういいです」
隊員は諦めたように息を吐いた。
「あ、そういやジムといえば」
「なんだ」
「最近、変な女がいるらしいですよ」
ヒロが足を止める。
「変な女?」
「海神界から来た人らしいんですけどね。毎日のように来て、とんでもない重量で鍛えてるとか」
「そうか」
驚くでもなく、興味を示すでもなく。
ヒロは歩き出した。
「腹減った」
「そっちですか」
この時のヒロ・アシハラは、まだ知らない。
その噂の女が、自分の人生を大きく変えることを。
そして、その女の側もまた――。
自分の人生を変えることになる筋肉男が、すぐそこまで迫っているとは知らなかった。




