第十一茶番 めぐりあい筋肉
感情保安庁訓練施設。
その一角に併設された公営ジムの女子更衣室で、一人の女性が鏡の前に立っていた。
「ふぅ……」
小さく息を吐き、長い黒髪へ何度か指を通してから、両手でまとめて高い位置へ結び上げる。
黒髪のポニーテール。
鏡の中には、柔らかな笑顔を浮かべた女性がいた。
彼女の名は、カヨナ・ワダツミ。
海神界から葦原界へやって来た、旅の途中の女性だった。
「今日も混んでますねぇ」
隣のロッカーを使っていた女性に声を掛けられ、カヨナも人懐っこい笑みを返す。
「人気なんですね」
「安いですから」
「あぁ、なるほどです」
旅を始めてから知ったことだが、葦原界の物価は思っていたよりも高い。宿代、食事代、交通費。一つ一つは大した額でなくとも、毎日積み重なれば財布は着実に軽くなっていく。
その点、この公営ジムはありがたかった。
「それに設備もいいですし」
「ですね」
カヨナの笑顔が、ほんの少しだけ明るくなる。
筋力鍛錬は好きだった。
身体を動かすことも、汗を流すことも、海神近衛兵団にいた頃から生活の一部だった。
ただ、今はもう一つ理由がある。
次の一回だけを考え、呼吸を整え、力を込める。もう一回、さらにもう一回と身体を動かしている間だけは、それだけで頭の中を満たすことができた。
記憶のことも。
自分の過去のことも。
思い出そうとしても、どうしても手の届かない場所にある何かも。
答えの出ないものを、ほんのひとときだけ忘れられる。
「よしっ」
鏡の前で立ち上がった頃には、いつもの笑顔に戻っていた。
「今日はデッドリフトからやろっと」
◇
数分後。
ジム内に、妙なざわめきが広がり始めていた。
原因はもちろん、カヨナである。
「え……?」
「あの人、何キロ引く気だ?」
本人は周囲の声など気にも留めず、バーベルへ黙々とプレートを追加していく。重い金属音が響くたびに重量は増し、それに比例するように男性利用者たちの顔が険しくなっていった。
「いやいや……」
「盛りすぎだろ」
ようやく視線に気づいたカヨナが顔を上げる。
「大丈夫ですよ」
誰も尋ねていない。
それでも安心させるように、にこりと笑ってからバーの前へ立った。
足の位置を決め、深く息を吸う。腰を落として背中を固め、床を踏みしめた瞬間、尋常ではない重量のバーベルが静かに浮き上がった。
「…………」
ジムから音が消えた。
カヨナは姿勢を崩すことなく身体を伸ばし切り、その重量を最後まで制御しながら床へ戻す。
ガシャン!!
「ふぅ……」
額の汗をタオルで拭い、何事もなかったように次の種目へ。
カヨナは知らない。
今、自分が何人もの男性利用者の自信をまとめて粉砕したことを。
「よいしょっと」
続いてチンニング。
反動を使うことなく、身体が軽々と持ち上がる。上半身は一本の軸を保ったまま、一定の呼吸と速度で上下を繰り返していた。
「速ぇ……」
「フォーム綺麗すぎるだろ……」
兵士として長い年月をかけて身体へ染み込ませた動きは、本人が意識せずとも隠しようがない。
そして、その動きを見ている男がいた。
つい先ほどまで堕転者と戦い、仲間から「最近ジムに変な女がいる」と聞かされても、
「そうか」
「腹減った」
で済ませた男。
ヒロ・アシハラである。
ただし。
ヒロが見ていたのは、彼女の顔でも身体でもない。
フォームだった。
何度か動きを確認したヒロの眉が僅かに動く。そのまま迷うことなく、カヨナへ近づいていった。
「少し失礼する」
「え?」
カヨナが振り返る。
やたらと大きな男が立っていた。
鍛え上げられた身体。太い腕。どう見ても普通ではない筋肉量。
その大男が、カヨナの腰辺りを指差す。
「前傾が少し強い」
「……はい?」
「このままだと首を痛める」
カヨナは目を丸くした。
初対面。
いきなり近づいてきた大男。
そして、首について語り始めた。
数秒考え、一つの答えへ辿り着く。
「あぁ……」
なるほど。
そういうことか。
「大胆なナンパですね」
「違う」
即答だった。
「アタシ、そういうの嫌いです」
「ここジムですから」
「……」
「……」
どうやら会話が噛み合っていない。
ヒロは少し考えた末、改めて説明することにした。
「ナンパではない」
ほとんど同じだった。
「そういう人ほど、そう言うんです」
「違う」
「あっ、そうですか」
会話終了。
カヨナは口元だけに可愛らしい笑みを浮かべた。
「失礼しますねー」
声は柔らかい。
笑顔も柔らかい。
目だけが、まったく笑っていなかった。
そのまま別の場所へ移動していくカヨナを、ヒロは不思議そうに見送った。
「……?」
男は首を心配した。
女はナンパだと思った。
太陽とひまわり。
その始まりは――最悪の第一印象だった。
普通ならば、ここで終わる。
だが。
この二人の場合、そうはならなかった。
◇
しばらくして、カヨナは床へ座り、脚を大きく開いて柔軟を始めていた。そのまま上体を倒していき、何の抵抗も感じさせないまま床へぺたりと身体をつける。
周囲の男性利用者たちが、揃って黙った。
やけに前屈みになった者。
なぜかベンチから立ち上がらなくなった者。
挙げ句の果てには、不自然な姿勢のまま移動を始める者までいる。
理由については、深く触れないでおこう。
男性諸君は皆、極めて紳士的である。
たぶん。
「これはマズい」
少し離れた場所から眺めていたヒロが額を押さえた。
隣にいた隊員が首を傾げる。
「何がです?」
「このギャラリーだ。彼女にも良くない」
声だけは真剣だった。
「どうするんです?」
ヒロは腕を組み、考えた。
そして一つの結論へ辿り着く。
「疲れさせて、早く帰ってもらうしかない」
「……はい?」
「勝負を挑もう」
隊員は黙った。
女性へ視線が集まっている。
ならば、本人へ伝えるなり、周囲へ注意するなりすればいい。
しかしヒロ・アシハラという男は、
女性に良くない。
だから疲れさせる。
早く帰ってもらう。
そのために筋トレ勝負をする。
という結論へ、何の迷いもなく到達した。
「発想がおかしい」
「そうか?」
本人だけは大真面目だった。
その時、別の隊員が端末を片手に駆け寄ってくる。
「筆頭! 見て下さいよ! さっきの人のデッドリフト、撮っちゃいました!」
ヒロの表情が変わった。
「キサマ」
「ヒッ!?」
低い声に、隊員の顔が引きつる。
「す、すいません! やっぱ撮影は駄目ですよね!? すぐ消します!」
「それを早く言わないか!!」
「はい?」
「報・連・相は基本だ! ばかもの!」
「え?」
「後で俺に送ってくれ!」
「は?」
全員の予想していた方向と違った。
「姿勢が崩れている証拠になる」
「そこですか!?」
そこだった。
◇
数分後。
ヒロは再びカヨナの前に立っていた。
その姿を見た瞬間、カヨナの眉が僅かに動く。
――また来た。
非常に分かりやすかった。
「先ほどは失礼なことをしてしまった」
ヒロが少し距離を取って頭を下げる。
「許してくれ」
カヨナは少しだけ目を丸くした。
「……分かってもらえればいいんです」
先ほどよりは自然な笑みが戻る。
ヒロも頷いた。
「キミは、かなりの筋力を持っている」
「ありがとうございます」
素直に褒められたのが嬉しかったのか、カヨナの表情が少し明るくなった。
「だから――」
ヒロが一拍置く。
「俺とビッグ3の勝負をしてほしい」
「…………」
遠くで隊員が天井を見上げた。
やっぱり、そっちだった。
ところが。
「えっ!?」
カヨナの黒い瞳が輝いた。
「いいですよーっ!」
先ほどまで残っていた警戒心が、一瞬にして消えていく。
「アタシ、そういうのは大好きです!」
笑った。
形だけ整えた愛想笑いではない。
黒い瞳を細め、口元を大きく綻ばせた、心の底から楽しそうな笑顔だった。
ヒロは、その顔を見る。
ふと。
太陽の花が咲く。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
明るく、眩しく、ただ真っ直ぐに太陽を向いて咲く花。
なぜそう思ったのか、ヒロ自身にも分からない。
「そうか」
短く答え、ヒロも僅かに笑った。
こうして。
二人は互いの名前すら知らないまま、ビッグ3の勝負を始めた。
◇
最初はベンチプレス。
「百キロでいいだろう」
「いいですよー」
カヨナがベンチへ横になり、肩甲骨を寄せて足を床へ据える。バーを握ってラックから外し、胸元まで下ろして押し上げた。
一回。
二回。
動きは淀みなく続き、十回。
「おぉー!」
周囲から歓声が上がる。
続いてヒロも十回。
こちらも余裕だった。
「次」
「次ですね」
二人とも即答。
「いや待て」
見物していた隊員が口を挟む。
「百キロはアップなのか?」
「アップだな」
「アップですね」
「怖ぇよ」
百二十。
百四十。
百六十。
百八十。
二百。
重量が増えても、二人とも失敗する気配がない。
それどころか、楽しそうだった。
鉄の塊が重くなるほど、二人の顔から余計なものが消えていく。
周囲の視線も。
立場も。
互いの名前すら、今はどうでもいい。
目の前の相手が挙げる。
なら、自分も挙げる。
ただ、それだけだった。
「ふふっ」
カヨナが不意に笑った。
「何がおかしい」
「久しぶりなんです」
「何がだ」
「こんなに楽しい筋トレ」
ヒロも少し笑った。
「そうか」
ほんの少し前まで、大胆なナンパ男と、それを追い払った女だった。
何者なのか。
どこから来たのか。
何をしてきたのか。
そんなことは、まだ何も知らない。
それでも鉄の塊を挟んで向かい合っている今だけは、不思議なほど話が合った。
「なら、まだ行けるな」
「もちろんです」
二百二十。
二百四十。
二百六十。
もはや周囲は意味が分からなくなっていた。
「なぁ」
「なんだ」
「あれ、人間か?」
「知らん」
「俺も知らん」
さらに二百八十。
三百。
三百二十。
いつの間にか、ジム中が二人の勝負を見ていた。
「おおおおお!!」
「いけー!!」
「負けるなー!!」
歓声が膨れ上がる中、ヒロが笑う。
「手が震えているな。そろそろ終わりか?」
カヨナの眉が、ぴくりと動いた。
「あらら?」
わざとらしく首を傾げる。
「そちらこそ、お顔が真っ赤ですよ?」
「……」
口元には、とびきり可愛らしい笑み。
そして――。
「かませ犬さん?」
「だまれ」
ギャラリーが爆発した。
「やれー!!」
「もっと言えー!!」
「煽れ煽れー!!」
もはや筋力勝負ではない。
祭りだった。
三百四十。
三百五十。
三百六十。
二人が挙げるたびに歓声が膨れ上がり、ジムの熱気は天井知らずに上がっていく。
そして。
別のものが、底をついた。
青ざめた職員が二人のもとへ駆け寄ってくる。
「ウェイトが足りません!」
「…………」
「…………」
ヒロとカヨナが同時に職員を見た。
公営ジム。
開設以来初めての事態であった。




