第十二茶番 限界を超えしもの
「ウェイトが足りません!」
職員の叫びが、熱気に包まれていたジムを一瞬で静まり返らせた。
つい先ほどまで飛び交っていた歓声が消える。
ヒロがプレートを見る。
カヨナも見る。
そして、二人は顔を見合わせた。
「今すぐ買ってこい!!」
「は?」
職員の口が開いた。
「ウェイトだ!!」
「いや、それは分かりますけど!」
「請求は公安本部特務隊支部、ユウカ・ツクヨミ宛だ!!」
「無茶苦茶だ!!」
ギャラリーが爆笑した。
何の相談もなく、公安本部へ突然ウェイト代の請求書を送りつけようとしている。
しかも本人は至って真面目である。
「何なんですか、あなた!」
カヨナも堪えきれず、腹を抱えて笑った。
「勝負だからな」
「真面目ですか!?」
「真面目だ」
即答。
その返事が余計におかしかったらしい。カヨナは肩を震わせ、しばらく笑いが止まらなかった。
不思議な男だった。
最初に声を掛けられた時は、正直なところ面倒な人だと思った。
だが筋肉の話になると、この男は恐ろしいほど真っ直ぐだった。
余計な詮索もしない。
駆け引きもしない。
相手が挙げれば、自分も挙げる。
ただ、それだけ。
カヨナには、その単純さが妙に心地よかった。
「じゃあ、これで最後ですかね」
職員が残されたプレートを集める。
総重量。
三百六十七キロ。
「中途半端ですね」
「全部載せたらそうなったんだ!」
「なるほどです」
納得するところではない。
先攻はヒロ。
ベンチへ横になると、肩甲骨を寄せ、両足を床へ据える。バーを握った瞬間、それまで笑っていた顔から余計なものが消えた。
ラックアップ。
三百六十七キロという重量が、両腕へ一気にのしかかる。
ゆっくりと胸元まで下ろす。
止まる。
ギャラリーから息を呑む音が漏れた。
「ふんっ!」
押す。
腕が震え、顔が赤く染まる。それでもバーは少しずつ上がっていった。
あと少し。
肘が伸びる。
「おおおおおおお!!」
歓声が爆発した。
成功。
ヒロの口元が僅かに上がる。
カヨナも目を輝かせていた。
その時だった。
ミシッ。
小さな音。
歓声に紛れれば聞き逃してしまいそうなほどだった。
ヒロが目だけを動かす。
ミシシッ。
今度は、はっきり聞こえた。
「ん?」
次の瞬間。
ドゴォォォォォン!!
「ぬおぉぉぉぉぉ!?」
ベンチ台が崩壊した。
三百六十七キロのウェイト。
ベンチ。
そしてヒロ。
全てがまとめて視界から消えた。
「筆頭ぉぉぉぉ!!」
「死んだぁぁぁ!!」
悲鳴が上がる。
舞い上がった埃の向こうには、崩れたベンチ台とプレートの山しか見えない。
カヨナの笑顔も消えた。
「……え?」
誰も動けなかった。
数秒。
瓦礫は動かない。
さらに数秒。
ガラッ。
瓦礫の隙間から、拳が一本突き出した。
「生きてるぞ」
「生きてたぁぁぁ!!」
再び歓声が上がった。
もはや何に対して歓声を上げているのか、誰にも分からない。
「ぷっ……」
別の音がした。
カヨナだった。
口元を押さえ、必死に耐えている。
だが。
無理だった。
「あはははははーっ!」
腹を抱えて笑い始める。
目尻には涙まで浮かんでいた。
初対面の男が三百六十七キロを持ち上げ、その直後にベンチ台ごと消えた。
そのうえ瓦礫から拳だけ出して、
「生きてるぞ」
である。
笑うなという方が無理だった。
瓦礫が動き、ヒロが何事もなかったように起き上がる。衣服についた埃を払いながら、まだ笑っているカヨナを見た。
「引き分けだな」
「そう……ですね……っ」
どうにか呼吸を整えながら、カヨナが頷く。
一拍。
視線が重なった。
「「次。」」
「まだやるの!?」
ギャラリー全員の声が重なった。
やる。
少なくとも二人の中では、ベンチプレス台が一基、尊い犠牲になった程度で勝負を終える理由にはならないらしい。
二人は何事もなかったかのように歩き出した。
次なる戦場。
デッドリフト台へ。
◇
カヨナがバーの前へ立つ。
足幅を整え、腰を落として両手を伸ばした。
さて。
読者諸氏。
私です。
地の文a.k.a.神の声です。
ここまで比較的静かに職務を遂行して参りましたが、少々申し上げたいことがございます。
私は神の視点。
故にこの物語を、正面からでも、側面からでも、上空からでも、必要とあらば背後からでも見届けることが可能です。
つまり。
今この瞬間のカヨナ嬢を、どの角度から観測することも――。
……失礼。
私は公平かつ中立な地の文。
職権を私的に利用するなど、あってはなりません。
皆様にお見せできないことを、心よりお詫び申し上げます。
では、物語へ戻りましょう。
何故か。
葦原紳士諸君の姿勢がおかしくなっていた。
中腰。
前屈み。
突然床へしゃがみ込む者。
先ほどまで何の問題もなかったはずの靴紐を、何度も結び直す者。
中にはストレッチを始めた者までいる。
「何やってるんだ、あいつら」
ヒロが首を傾げる。
「さぁ……」
隊員は目を逸らした。
なんとなく理由は察している。
だが説明する気はなかった。
先ほどこの男は、カヨナへ妙な視線が集まっていることを心配した結果、
疲れさせる。
早く帰ってもらう。
筋トレ勝負を挑む。
という常人には理解し難い結論へ辿り着いたばかりである。
ここで余計なことを教えれば、次に何を始めるか分かったものではない。
幸い。
当のカヨナ本人は、何一つ気づいていなかった。
彼女の視線にあるのは、ただ一つ。
バーベル。
「行きます」
カヨナは足の位置を確かめ、腰を落としてバーを握った。深く息を吸い、背中を固めると、床を踏み込むように全身へ力を込める。
二百キロ。
鉄の塊が、何の抵抗もないかのように浮いた。
「おぉぉぉ!!」
完全に引き切り、最後まで制御しながら床へ戻す。
カヨナがヒロを見る。
どうぞ。
言葉にしなくても、そう言っている顔だった。
「次は俺だな」
ヒロも二百キロを難なく引き切る。
「次」
「次ですね」
二百五十。
三百。
三百五十。
どちらも成功。
重量は増えていく。
それに比例して、周囲の理解だけが追いつかなくなっていった。
「何キロだ、今」
「知らん」
「車より重くないか?」
「知らん」
「人間って、あんなの持てるのか?」
「知らん」
もはや誰にも分からない。
分かる必要すらなくなっていた。
ただ一つ確かなのは、重量が増えるほど二人の機嫌まで良くなっていることだった。
「まだ行けますよー」
カヨナが楽しそうに笑う。
「当然だ」
ヒロも笑った。
「疲れてません?」
「疲れていない」
即答。
カヨナはヒロの顔をじっと見つめ、悪戯っぽく目を細めた。
「顔、真っ赤ですよ?」
「……」
「当て馬さんですね?」
ヒロの眉が動く。
「お前こそグリコーゲン不足だろ」
今度はカヨナの眉が動いた。
「筋肉が細くなったな」
「あはは」
「ははは」
笑いながら、さらにプレートを追加していく。
普通ならば、重量が増えるほど余裕はなくなる。
口数も減る。
笑う余裕など消えていく。
この二人は逆だった。
重くなればなるほど笑う。
相手が挙げれば、自分も挙げる。
自分が挙げれば、次は相手。
勝ちたい。
負けたくない。
だが、それ以上に。
――楽しい。
その感情だけは、二人の顔から隠しようがなかった。
四百キロ。
成功。
四百三十キロ。
成功。
四百六十キロ。
成功。
「うわぁぁぁぁ!!」
「何だあれ!?」
「怖ぇぇぇぇ!!」
とうとう歓声ですらなくなった。
悲鳴である。
隊員の一人だけは、少し違うものを見ていた。
破壊されたベンチプレス台。
一か所へ集められた大量のプレート。
異様な盛り上がりを見せる一般利用者。
そして、その中心で笑っている自分の上司。
脳裏に、一人の女性の顔が浮かぶ。
ユウカ・ツクヨミ。
「……絶対怒られる」
誰にも聞こえない声で呟いた。
その未来だけは、何故かはっきりと見えた。
そして。
再びカヨナの番が回る。
プレートが追加される。
総重量。
五百十キロ。
ギャラリーから、声が消えた。
先ほどまでの騒ぎが嘘のように静まり返る。
数字の意味など、もはや誰にも分からない。
ただ。
とんでもなく重い。
それだけは分かった。
「行きます」
カヨナはいつもと変わらない声で告げ、バーの前へ立った。
足の位置を整え、深く息を吸う。
一度吐く。
もう一度。
バーを握る。
腰を落とし、背中を固めた。
先ほどまで浮かんでいた笑顔が消える。
視線の先には、五百十キロの鉄だけがあった。
そして――。
引く。
「……っ!」
バーが、ゆっくりと床を離れた。
「おお……」
誰かの口から声が漏れる。
まだ歓声にはならない。
これまでとは明らかに違った。
腕へ。
背中へ。
脚へ。
五百十キロという重量が、容赦なく全身へ襲いかかる。
それでもカヨナは止まらない。
少しずつ。
確実に。
バーが上がっていく。
その時だった。
ヒロの表情が変わった。
「……?」
何かがおかしい。
カヨナではない。
フォームでもない。
バーベルでもない。
別の何か。
視線を下へ落とす。
カヨナの足元。
そのさらに下。
ミシッ。
小さな音。
ヒロの眉間に皺が寄った。
周囲は気づいていない。
ギャラリーも。
職員も。
カヨナ本人も。
ミシシッ。
今度は少し長い。
ヒロの顔から笑みが消えた。
床。
――まずい。
カヨナはまだ引いている。
五百十キロのバーベル。
カヨナ自身の体重。
そして、それら全てを受け止める床。
一点へ集中する負荷が、限界へ近づいていた。
ミシシシシ……。
嫌な音が響く。
だが。
「頑張れーー!!」
「あと少しーー!!」
「いけるぞーー!!」
歓声に掻き消される。
カヨナの視界には、もう目の前の重量しかない。
あと少し。
もう少し。
背中を起こす。
バーが上がる。
ヒロの視線だけが、カヨナではなく足元へ釘付けになっていた。
ミシッ。
一本の亀裂が走った。
「……!」
ヒロの目が見開かれる。
それでもカヨナは引く。
歯を食いしばり、脚へさらに力を込める。
バーが上がった。
完全に。
「いったぁぁぁぁ!!」
歓声が爆発した。
五百十キロ。
カヨナ・ワダツミは、限界を超えた。
そして。
床もまた。
限界を超えた。
ミシッ。
亀裂が広がる。
ミシシシシシシッ!!
今度は、はっきりと聞こえた。
ヒロが動いた。
「危ない!!」
「え?」
カヨナが顔を上げた。




