第五茶番 おかえり
「お前と俺は、よく正座させられた」
「……正座?」
「あぁ。ユウカにな」
その名前を聞いた瞬間、カヨナの頭の奥を何かが駆け抜けた。
正座。
説教。
ゲーム機。
暗闇の中で、断片的な光景が明滅する。
腰に手を当て、こちらを見下ろしている誰か。その前で、自分はもう一人の誰かと並んで正座していた。
何かを取り上げられた。
隣から、不満そうな男の声が聞こえる。
それがおかしくて――自分は笑った。
確かに、そこで笑っていた。
「……っ」
こめかみの奥が、ずきりと痛んだ。
あと少し。
ほんの少しだけ手を伸ばせば、霧の向こうにいる誰かへ届きそうなのに、触れようとするたび、その姿だけが遠ざかっていく。
「……誰?」
男は答えなかった。
ただ、二代目祢々切丸を静かに構える。
カヨナもこめかみから手を離した。
考えるのをやめ、ゆっくりと腰を落とす。
腰には姫鶴一文字。
右手を柄へ添え、親指で鍔を僅かに押し上げた。
カチリ。
鯉口を切る乾いた音が、夜の路地に響いた。
その音を境に、二人の間から余計なものが消えていく。
遠くに聞こえる繁華街の喧騒も、鴉たちも、砕け散った石壁も、土鍋を抱えて壁をぶち抜いてきた馬鹿げた騒動さえも、今はもう遠い。
残ったのは、一人の男と、一人の女。
そして、二振りの刀だけだった。
細い路地を夜風が吹き抜け、カヨナの長いポニーテールを揺らす。雲間から覗いた月が二人を淡く照らし、砕けた石畳の上へ長い影を落としていた。
男は大上段。
カヨナは居合。
互いに構えたまま動かない。
聞こえるのは、静かな呼吸と風の音だけ。
やがて。
男の足が、地を踏んだ。
「国津一刀流――」
巨躯が前へ出る。
「諸行無常!!」
二代目祢々切丸が振り下ろされた。
その巨体と刀身から生まれる圧倒的な質量。それでいて、重さなど存在しないかのような速さで長大な刃が夜を断ち、カヨナへ迫る。
だが、彼女もすでに動いていた。
柄を握り、腰を切る。鞘を後方へ引く動きと踏み込みが重なり、その身体すべてに導かれるように姫鶴一文字が走った。
「国津流居合術――暁」
月光が、刃の上を滑る。
「神速一閃ッ!!」
銀閃。
二つの斬撃が交差する。
その瞬間。
「カヨナはひまわりだ」
男が言った。
「――え」
あまりにも自然な声だった。
今、この瞬間に思いついた言葉ではない。
ずっと前から。
何度も、何度も。
そう思い続けてきた者の声だった。
そして。
カヨナの唇が動いた。
「ヒロは太陽……」
言葉が零れた。
考えていない。
思い出してもいない。
なのに、その続きを知っていた。
「……あ」
――ひまわり。
――太陽。
光が溢れた。
笑った。
怒られた。
戦った。
泣いた。
守られた。
くだらないことで一緒に笑って、並んで怒られて、背中を預けて戦って、ときには喧嘩をして。
振り返れば、いつだってそこにいた。
『かよ』
声が聞こえる。
『かよ!』
うるさいくらいに。
馬鹿みたいに真っ直ぐに。
何度も自分を呼んでくれた、その声。
その顔。
その人を――。
思い出した。
「――ッ!!」
カヨナは咄嗟に刃を逸らした。
神速で放たれた姫鶴一文字が男の身体を外れ、夜気を鋭く切り裂く。
同時に、二代目祢々切丸もカヨナの首へは向かっていなかった。
最初から狙っていたのは、ただ一つ。
シュッ――。
切っ先が頭の後ろを通り過ぎる。
ポニーテールを結んでいた一本の髪紐だけが、断ち切られた。
パサリ。
束ねるものを失った長い黒髪が肩へ、背中へと流れ落ちる。
夜風が、その髪を大きく広げた。
カヨナは動かなかった。
頬を撫でる自分の髪を感じながら、目の前の男を見つめていた。
今度は――知っている。
その顔を。
その声を。
その名前を。
「そう……」
一筋の涙が、頬を伝った。
「私は、ひまわり」
「カヨナ」
名前を呼ばれた。
それだけで、もう駄目だった。
「あなたが……ヒロが……」
視界が滲んでいく。
「私の太陽……」
一滴だった涙が、次々と頬を伝い始めた。
「うん……思い出した……」
震える声が、自分の耳にも届く。
目の前にいる男は、記憶の中より少し歳を取っていた。
知らない十年が、その顔には確かに刻まれている。
それでも。
間違えるはずがない。
「ほ……っ、本当に……」
震える手を持ち上げる。
触れたい。
けれど指先は、男の胸へ届く直前で止まった。
触れてしまえば、また消えてしまいそうだった。
「ヒロ……っ」
涙の向こうから、その顔を確かめる。
「ヒロ……?」
男は、ほんの少しだけ笑った。
「あぁ。俺だ」
昔と変わらない声だった。
「老けすぎて分からないか?」
カヨナは何度も首を振った。
「ううん……」
涙でぐしゃぐしゃになった顔に、笑顔が浮かぶ。
「本物だ……」
もう一度、確かめるように。
「本物のヒロだ……」
止まっていた指先が震えた。
次の瞬間。
カヨナは駆け出した。
「ただいまーーーー!!」
姫鶴一文字を握っていた手から力が抜ける。
もう、戦う必要なんてなかった。
勢いのままヒロの胸へ飛び込み、両腕をその大きな背中へ回す。
「遅くなっちゃったけど……ただいまーーー!! ヒローーー!!」
顔を胸へ押し付けた。
涙も、声も、もう止められない。
「会いたかった!!」
十年間、口にすることさえできなかった言葉が、ようやく声になる。
「会いたかったーーー!!!」
泣きながら、叫んだ。
ヒロは何も言わなかった。
どれだけ探したのかも。
どれだけ待ったのかも。
何ひとつ語らない。
ただ、飛び込んできたカヨナをその身体で受け止め、大きな手をほどけた黒髪へ置いた。
ゆっくりと。
昔と同じように、その頭を撫でる。
そして。
「おかえり」




