第六茶番 待っていた人たち
特務隊の筆頭室には、湯呑みから立ちのぼる細い湯気と、紙をめくる音だけがあった。
カヨナは来客用の長椅子に腰掛け、両手で湯呑みを包んでいる。
向かいではヒロが机に座り、書類へ目を落としていた。
静かだった。
驚くほどに。
つい先ほどまで、十年ぶりの再会に泣いて、叫んで、抱きついていたとは思えないほど、二人の間には何もない時間が流れている。
「……」
カヨナがちらりとヒロを見る。
ヒロは書類を読んでいる。
――ように見える。
けれど、さっきから同じ一枚をずっと眺めていた。
カヨナは湯呑みへ視線を戻す。
何を話せばいいのか、分からなかった。
思い出したことはたくさんある。
聞きたいことも、きっと山ほどある。
自分がいなくなってからの十年間。
ヒロがどうしていたのか。
皆はどうしていたのか。
自分をどれだけ探したのか。
それなのに、言葉にしようとすると喉の奥で引っ掛かってしまう。
ヒロも同じなのだろう。
書類は、まだ同じ頁だった。
「……ふふ」
カヨナの口元から、小さな笑いが漏れた。
「なんだ」
「いえ」
首を横に振る。
不思議だった。
何も話していないのに、居心地が悪くない。
むしろ。
こんなふうに同じ部屋にいて、互いに別のことをしている時間を、ずっと昔にも過ごしていたような気がする。
十年という空白がある。
そのはずなのに。
身体のどこかは、ちゃんと覚えている。
カヨナは湯呑みを机へ置いた。
「ヒロ」
「ん?」
ヒロがようやく書類から目を上げる。
カヨナは一度だけ視線を落とし、それから、少し困ったように笑った。
「本当に……帰ってきて良かったんですか?」
ヒロは答えなかった。
ほんの一瞬。
何を聞かれたのか分からない、とでも言いたげにカヨナを見つめる。
そして。
「当たり前だ」
それだけだった。
迷いもない。
考える時間さえ必要としていなかった。
カヨナの肩から、ふっと力が抜けた。
「……はい」
小さく笑う。
それで十分だった。
そのとき。
廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
ヒロの顔が露骨に曇る。
「来てしまった」
「誰ですか?」
カヨナが首を傾げる。
「カヨナの親友だ」
「私の?」
「あぁ」
ヒロはそこで言葉を切り、何かを諦めたように小さく息を吐いた。
「そして、俺の天敵だ」
「天敵?」
ガラリ。
筆頭室の扉が開いた。
入ってきたのは、大量の報告書を両腕に抱えた一人の女性だった。
月光を溶かしたような紫色の長髪が背中へ流れ、白を基調とした長衣がその身体を包んでいる。書類の山を抱えてなお崩れない立ち姿には気品があり、穏やかな表情の奥からは隠しようのない知性が滲んでいた。
ユウカ・ツクヨミ。
「陽主様ぁ」
その姿を見た瞬間、ヒロはさらに嫌そうな顔になった。
「なんだ」
「逃げないでください」
「まだ逃げてない」
「今から逃げようとしましたよね?」
「気のせいだ」
即答。
ユウカは呆れたように目を細め、抱えている報告書へちらりと視線を落とした。
「全く。私は陽主様の秘書ではありませんのに」
「そうか」
「そうです」
どうやら、何度も繰り返してきたやり取りらしい。
そして。
ユウカの視線が、来客用の長椅子へ流れた。
カヨナを見る。
「……また女性を連れ込んだのでしょうか」
「!?」
ヒロの肩が跳ねた。
「ちょっ、待て!」
「うふふ」
ユウカが口元へ手を添える。
本気で疑っているわけではない。
明らかに遊んでいる。
「また、そういう勘違いされることを……。ここには、お前とゆかり、カヨナ以外はほとんど入らない」
「そうですか」
楽しげに笑いながら、ユウカはもう一度カヨナを見た。
そして。
止まった。
紫色の瞳が大きく見開かれる。
笑みが消えた。
呼吸さえ忘れたように、ただカヨナを見つめている。
「……?」
カヨナが首を傾げた。
その瞬間。
バサバサッ――。
ユウカの腕から大量の報告書が落ちた。
床一面へ紙が散らばる。
けれど、ユウカは拾おうともしなかった。
「カヨナ……さん?」
掠れた声だった。
「はい?」
カヨナが答える。
それだけで。
ユウカの表情が崩れた。
「本当に……」
一歩ずつその距離が縮まる。
「本当に、生きていらしたんですか……?」
カヨナは答えられなかった。
ユウカが駆け寄ってくる。
そのまま。
ぎゅっと。
強く抱き締められた。
「……っ」
突然のことに、カヨナの身体が僅かに強張る。
けれど。
耳元で聞こえた声の方が、ずっと震えていた。
「じゅ…十年ですよ……?」
「え?」
「十年です……」
腕に、さらに力が入る。
「私……もう二度と会えないと思っていました」
カヨナは何も言えなかった。
自分にとって失われていた十年間。
その時間を、この人は覚えている。
待っていた。
苦しんでいた。
そんなことを言葉にされなくても、今、自分を抱き締めている腕だけで十分に伝わってきた。
カヨナは少し戸惑いながらも、ゆっくりとユウカの背中へ腕を回した。
「ご、ごめんなさい」
「何故謝るんですか……」
ユウカが身体を離す。
紫色の瞳には涙が溜まっていた。
それでも。
笑っていた。
ユウカの指先が、そこに本当にいることを確かめるように、カヨナの腕をそっと握る。
「生きていてくださって」
声が、また震えた。
「本当に良かったです」
「……はい」
カヨナも笑った。
胸の奥が、ほんのりと温かい。
すべての記憶が順番通り戻っているわけではない。
それでも。
この人が、自分にとって大切な人だったことだけは分かった。
そのときだった。
「ワダツミ……」
低い声が扉の方から聞こえた。
「……?」
カヨナが振り返る。
そこに立っていたのは、長身の男だった。
黒い外套。
鋭い眼光。
片手にはコーヒーカップ。
ただ立っているだけなのに、周囲の空気まで張り詰めて見える。
鞘から抜かれる直前の刀。
そんな男だった。
「お兄ちゃん!」
ユウカが声を上げる。
「騒ぐな」
「騒ぎます! 十年ですよ!?」
「知っている」
男はそれだけ答えて、静かにコーヒーへ口を付けた。
「……」
温度差が凄い。
カヨナは思わず目をぱちぱちさせる。
けれど。
男の視線は、ずっと自分へ向いていた。
目が合う。
その顔にも、その声にも、覚えがある。
ヒロとも。
ユウカとも違う。
優しく笑い掛けられた記憶ではない。
もっと無愛想で。
もっと不器用で。
けれど、いつも少し離れたところから見ていたような。
そんな懐かしさだった。
しばらく。
誰も何も言わない。
やがて、男が口を開いた。
「生きていたか」
短い一言。
カヨナの胸が、少しだけ熱くなる。
男はコーヒーカップを持ったまま、続けた。
「帰ってきたなら」
「今度は消えるな」
「……」
カヨナは一瞬、目を丸くした。
けれど。
すぐに、少し垂れた目を柔らかく細める。
「はい」
昔と変わらない、人懐っこい笑顔だった。
男の鋭い瞳も、ほんの僅かに細くなる。
「そうか」
コーヒーカップから立ちのぼる湯気がふわりと揺れ、帰ってきたカヨナを静かに迎えるように、二人の間を温かく漂っていた。




