第二十七茶番 答えは狂迅丸の中に
数秒の沈黙のあと、ヒロは小さく息を吐いた。
「……そうか」
もう、迷いを引きずる声ではなかった。
自分の答えには辿り着いた。
あとは、行くだけだった。
「陽主様」
ユウカが声を掛ける。振り向いたヒロへ、一通の封筒が差し出された。
「これを」
「これは?」
受け取った封筒の表には、感情保安庁の紋章が印刷されている。
「感情保安庁採用試験募集要項です」
「……今、渡すのか」
「今だからです」
ユウカは微笑んだ。
ヒロがカヨナへ何を伝えるのか。それはもう、彼自身に任せるしかない。
自分は一度、理論で説得しようとした。因果律から始まり、丁寧に原因と結果を積み上げた。その結果、何故か筋トレへ着地した。
世界最高峰の頭脳をもってしても、カヨナ・ワダツミという女性を理論だけで動かすことは難しかったらしい。
ならば、もう余計なことは言わない。入るか、入らないか。最後に決めるのはカヨナ自身だ。
だからユウカは、彼女が自分で選ぶために必要なものだけを渡すことにした。
それが、彼女なりに辿り着いた答えだった。
「それと、こちらは私からのお手紙です」
もう一通、白い封筒が差し出された。先ほどの募集要項とは違い、こちらには何の印字もない。ユウカはそれを両手で、大切そうに持っていた。
ヒロの目が細くなる。
嫌な予感がした。
「何故お前が」
「保険です」
「何のだ」
「保険です」
「答えになっていない」
ユウカは、にっこりと微笑むだけだった。
そこへ横から、ホシの低い声が飛ぶ。
「余計なことを書くな」
「失礼ですね」
「お前の場合、余計なことを書く可能性が高い」
「お兄ちゃん」
「職場だ。その呼び方はやめろ」
「まだ何も言っておりません」
「言う前に止めた」
ユウカの頬が、ほんの少しだけ膨らんだ。
ヒロは白い封筒へ視線を落とす。
「中身は?」
「秘密です」
「読むぞ」
「駄目です。カヨナさんへのお手紙ですから」
「なら俺を経由するな」
「うふふ」
「誤魔化すな」
それ以上聞いても無駄だった。
ヒロは諦め、二通の封筒を懐へ入れる。すると今度は、ホシが前へ出て、何も言わず一枚の黒いカードを差し出した。
「使え」
「これは」
「ブラックカードだ」
「見れば分かる」
「利用制限はない」
ヒロはカードを見て、それからホシを見る。
「お前のか」
「あぁ」
「いいのか」
「急ぐんだろ」
それだけだった。
励ますわけでもない。行けと急かすわけでもない。この先に何があるのか分からないなら、考え得る障害を一つ、先に潰しておく。
合理的だった。
どこまでもホシらしい。
「後で返せ。利用明細も確認する」
「細かいな」
「当然だ」
「助かる」
「あぁ。それと、本当に返せ」
「何故二回言った」
「お前だからだ」
「……」
信頼されているのか、されていないのか。よく分からなかった。
そして最後に、ゆかりが親指で背後を指した。
「乗りな」
「何にだ」
「見りゃ分かる」
ヒロが窓の外を見る。
そこには、一台の大型ダンプが停まっていた。
いや、〝停まっている〟という表現が、果たして正しいのか。
巨大な車体は、ただそこに存在しているだけで夕闇の景色を盛大に侵食していた。金色と紫色が入り乱れた車体の側面には燃え上がる炎。至る所には素戔嗚を思わせる装飾が施され、バンパーにも、キャビンにも、荷台にも、隙あらば電飾。
そして車体側面には、巨大な文字が堂々と刻まれていた。
『狂迅丸』
「……」
ヒロは、しばらく黙った。
遠くで蝉が一匹だけ鳴いた。おそらく、夏の終わりを惜しんでいたのだろう。少なくとも、目の前の大型ダンプに対する感想ではない。
「相変わらず良い趣味だ」
「ギャハハハハ! 最高だろォ!?」
「褒めてはいない」
「照れんな!」
「照れていない」
「八百馬力だぞ!」
「聞いていない」
「最大積載量十一トン!」
「だから聞いていない」
「排気音も最高だ!」
「それは整備しろ」
「ギャハハハハ!」
ヒロは額を押さえたが、その口元はほんの少しだけ笑っていた。
先ほどまで、あれほど怖かった。間違えることが。カヨナに会えないことが。
その恐怖が消えたわけではない。それでも、今は三人がいる。
理屈を尽くしたユウカは、もう説得することをやめ、カヨナが自分で選ぶための募集要項と手紙を渡した。合理を貫くホシは何も聞かず、ヒロが進むためのカードを貸した。
そして野生の女は――。
狂った大型ダンプを用意した。
誰一人として「絶対に連れ戻せ」とは言わない。それでも三人とも、ヒロが彼女のもとへ行くことだけは、当たり前のように信じていた。
ヒロは三人を見る。
ユウカ。ホシ。ゆかり。
この連中とは長い付き合いになる。馬鹿なこともした。喧嘩もした。そして、命を預けたこともある。
だからこそ、長い言葉など必要なかった。
「お前達、すまないな」
ユウカは、いつもの柔らかな微笑みを返した。
「お気になさらず」
「カードは返せよ」
「まだ言うのか」
そして、ゆかりが声を張り上げた。
「嬢ちゃんを泣かすなよォ!」
ヒロの表情が僅かに変わった。
カヨナを泣かせない。そんな約束ができるほど、ヒロは器用な男ではない。これから何を伝えればいいのかさえ、まだ全部決まってはいなかった。
ただ、一つだけ決めている。
――お前と一緒に戦いたい。
それを嘘をつかず、飾らず、自分の言葉で伝える。その先を決めるのは、カヨナだ。
ヒロは静かに頷くと、腰に差した姫鶴一文字へ手を添えた。
カヨナのために持ってきた刀。それは勧誘の道具ではない。彼女の力を認めた証であり、自分が共に戦いたいと願った、その気持ちを携えていくためのものだった。
ヒロは狂迅丸へ向かって歩き出す。
「スバルゥ! やっぱ、おめぇも来い!」
背後から飛んできたゆかりの声に、ホシの眉間へ嫌な予感が刻まれた。
「断る」
「来い!」
「何故だ」
「なんとなくだ!」
「最も嫌いな理由だ」
「ギャハハハハ!」
ホシは狂迅丸を見た。
次に、ゆかり。
そして、ヒロ。
もう一度、狂迅丸。
金と紫の巨体は、炎と素戔嗚と電飾をこれでもかと背負っている。
嫌な予感しかしない。
ホシは深く、長いため息を吐いた。
「嫌な予感がする……が」
結局、その足は重々しく二人のあとへ続いていった。
「何かございましたら、無線をくださいませ」
ユウカの声が三人の背中へ届く。
振り返る者はいなかった。
ヒロとゆかりとホシ。そして狂迅丸。
これから一人の女性を追いかける集団には、どう考えても見えなかった。むしろ、何か別の事件を起こしに行くようにしか見えない。
それでも、ユウカは微笑んでいた。
やがて巨大なエンジンが目を覚ます。夜を震わせるような重低音が響き、車体を覆う電飾が一斉に灯った。
金と紫の巨体が、訪れたばかりの闇の中へ鮮烈に浮かび上がる。
ユウカは一人、その光景を見つめていた。
夏の日は、もう沈んでいる。昼間の熱を残していた空気も、少しずつ夜のものへ変わっていた。
夕方よりも、ほんの少しだけ冷たくなった風が吹く。一人残ったユウカの髪を優しく揺らし、遠ざかっていく三人を見つめる彼女の横を、静かに通り過ぎていった。
ヒロは、太陽。
カヨナは、ひまわり。
そして、自分は月。
太陽が沈めば夜が来る。夜が来れば月が昇る。けれど、夜が永遠に続くことはない。
月は、太陽の代わりにはなれない。
それでも、太陽が見えない時間に、誰かの足元をほんの少しだけ照らすことはできる。
それでいい。
ユウカは、遠ざかっていく狂迅丸を見つめた。
「これからも、太陽は必ず昇りますから」
誰に聞かせるでもなく呟いた言葉を、夏の夜風が拾った。
答える者はいない。
言葉はそのまま風の音へ溶け、灯り始めた街の向こうへ流れていく。
狂迅丸は港へ向かう。
太陽を乗せて。
そして、その先にいる――一輪のひまわりのもとへ。




