第二十八茶番 次の太陽を探しに
ユウカの言葉を拾った夏の夜風は、誰に届けるでもなく街へ流れていった。
月の下を通り、灯り始めた街を抜け、やがて潮の匂いが混じる方角へ。
そして、少しだけ時を遡る。
その風がまだ夜の冷たさを纏わず、夏の熱を残していた頃。同じ風は、港の見える公園で一人の女性の黒いポニーテールを揺らしていた。
カヨナ・ワダツミ。
海沿いに広がるひまわり畑の中で、カヨナは沈みゆく太陽を見つめていた。昼間の強さを失った陽射しが水平線へ向かって長い光の道を作り、赤く、橙色に染まった光は波に崩されながら、それでも遠くまで海を照らしている。
風が吹くたびに花弁が揺れ、夏草が擦れ合う。その音に混じって、遠くから船の汽笛が聞こえた。
「ここでの太陽が沈む……か」
水平線へ近づいていく太陽を眺めながら、カヨナは目を細めた。
「また……新しい太陽に、出会えるかな……」
風が吹いた。ひまわりが一斉に揺れ、太陽の方角へ顔を向ける。
この街へ来て、まだそれほど長い時間が経ったわけではない。それなのに、随分とたくさんのことがあったように思えた。
ユウカ。
綺麗で、頭が良くて、何でも知っているようで、時々驚くほど変な人。因果律とかいう難しい話を一生懸命説明してくれた。正直、よく分からないところも多かったけれど、自分のことを考えてくれていたことだけは分かった。
ホシは最初、嫌な人だと思った。愛想はないし、言い方も冷たい。何でも合理的に考える。それでも最後には、自分のことは自分で決めろと言ってくれた。
知らないものを、知らないまま捨てるな。
あの言葉は今も胸に残っている。
そして、ゆかり。
牛肉ジャーキーを食べ、鵺だの蛟だのとくだらない話をして、腹いっぱいラーメンを食べた。たった一度、一緒に夕飯を食べただけなのに、ずっと昔から知っている人のように笑えた。
また会いたい。
ユウカにも。ホシにも。ゆかりにも。また話したいし、また笑いたい。どれだけ遠くへ行っても、きっと忘れない。
そして――。
「……筋肉さん」
その名前だけは、口にすると胸の奥が少し苦しくなった。
最初は、ただの変な人だった。筋肉のことばかり考えていて、何を考えているのか分からない。デリカシーもないし、自分勝手で、何度も腹が立った。
なのに、気がつけば探している。
ジムへ行けば姿を確かめ、声が聞こえれば振り返る。馬鹿なことを言えば呆れるくせに、彼が笑えば自分まで笑ってしまう。
理由なんて分からない。ユウカのように理屈で説明することも、ホシのように合理的に考えることもできなかった。
ただ、いると気になる。いないと、もっと気になる。
「……変なの」
小さく笑った。
今までたくさんの土地を巡り、たくさんの人と出会った。優しい人も、面白い人も、尊敬できる人もいた。
それでも、太陽みたいな人は初めてだった。
だからこそ、怖かった。
このままここにいたら、きっともっと楽しくなる。ユウカも、ホシも、ゆかりも、もっと大切になる。そしてヒロのことも、もっと離れたくなくなる。
そうなってしまったら、きっと旅立てない。
カヨナは沈んでいく太陽を見つめた。
旅に出たのは、誰かに命令されたからではない。自分で決めた。海神界を出て、知らない土地を歩き、知らない景色を見て、知らない人と出会う。自分の知らない世界を、自分の足で見てみたい。
それが旅を始めた理由だった。
なのに、一つの場所が心地よかったからと、ここで足を止めてしまっていいのだろうか。一人、気になる人ができたからと、自分で決めた道を変えてしまっていいのだろうか。
「……駄目だよね」
誰も答えない。
「アタシが決めたんだから」
旅を続けよう。次の土地へ行って、また知らない景色を見よう。知らない人に会おう。
そうすれば、きっとまた――。
「次の土地でも、きっと……新しい太陽に出会える」
太陽が水平線へ触れる。
言ってみた。胸が痛んだ。
「きっと、出会えるから……」
もう一度言っても、痛みは消えなかった。
カヨナは胸元を握る。
分かっている。同じ太陽など、二つとない。
次の土地へ行けば、また誰かに出会うだろう。楽しい時間もあるだろう。けれど、この場所で過ごした時間と同じものは、もう二度と来ない。
それでも、行かなければ。
ここにいれば、もっと大切になってしまう。大切になればなるほど、いつか失った時に、もっと苦しくなる。
だったら今なら、まだ綺麗な思い出のまま持っていける。またいつか、この街へ来ればいい。その時はまた会って、笑って、久しぶりと言えばいい。
その方が、きっと安全だ。失わなくて済む。
だから、行こう。
そう決めたはずだった。
◇
港へ向かう海沿いの道を、カヨナは一人で歩いていた。
肩には旅の荷物。一歩、また一歩と靴音を鳴らし、ちゃんと前へ進んでいる。
なのに、カヨナは振り返った。
誰もいない。
前を向いてまた歩く。しばらくして、もう一度振り返る。やはり誰もいない。
一度、二度。気がつけば、何度も同じことを繰り返していた。
「……何を期待してるんだろ」
自分でも分かっている。誰を探しているのか。
「ドラマじゃないんだから……」
苦笑して、また前を向く。
そんな都合よく来るはずがない。そもそも、自分が今日旅立つことさえヒロには伝えていないのだ。追いかけてくる理由なんて、どこにもない。
だから、これでいい。
そう思って歩き出したのに、また一度だけ振り返った。
夏の日は、もうほとんど沈んでいた。
◇
港には、巨大な客船が静かに停泊していた。
――ゾンネン・ブルーメ。
乗船手続きは、もう終わっている。あとは乗るだけ。
今までだって、何度もそうしてきた。一つの土地を離れ、船へ乗り、次の土地へ向かう。いつもと何も変わらないはずなのに、足が重かった。
カヨナはタラップを見上げる。
これを上れば船へ乗る。船が出れば、この街は遠ざかる。ユウカも、ホシも、ゆかりも。そして、ヒロも。
「でも……」
タラップへ足を掛ける。
一段。
そこで、足が止まった。
「もし……」
自分でも馬鹿なことを考えていると思う。来るはずがない。
それでも。
「ここで……彼が来てくれたら……」
鼓動が速くなる。
カヨナは、もう一度だけ港の入口を見た。
誰もいない。
分かっていた。これでいい。これで、いいはずだった。
なのに、ずっと口にしないようにしていた言葉が零れる。
「アタシ……」
認めてしまえば、旅立てなくなる。
それでも、もう止められなかった。
「彼のこと……」
「おーーい!!」
「――っ!」
カヨナは勢いよく振り返った。




