第二十六茶番 臆病風にふかれて
沈む日を 慕ひし花の 暮れぬれば
月影たより 日はかへり来ぬ
沈みゆく太陽を、ずっと慕っていた一輪の花。
やがて夕暮れが訪れ、すべてが終わろうとしたそのとき
月の光をよすがとして
沈んだはずの太陽は、花のもとへ帰ってきた。
その日の夕方。
いつものジム。いつもの時間。
夏の日は長い。夕方と呼ぶにはまだ明るく、大きな窓から差し込む西日が、磨かれた床の上へ長い影を落としていた。外では蝉が鳴いている。昼間ほどの勢いはない。それでも、過ぎていく夏の一日を惜しむように、途切れては鳴き、また途切れては鳴いていた。
ヒロは静かに入口をくぐった。
トレーニング器具の駆動音。重り同士がぶつかる乾いた音。誰かの荒い呼吸。冷房の風に混じって漂う、汗と金属の匂い。
何一つ、変わっていない。
いつものように室内へ視線を巡らせ、そのまま何気なく、いつもの場所へ目を向ける。
「……」
足が止まった。そこに、カヨナの姿はなかった。
別に珍しいことではない。毎日必ず同じ時刻に来ると約束したわけでもなければ、用事がある日も、少し遅れる日だってある。
だからヒロは、いつものように身体を動かし始めた。
一時間が過ぎた。
セットを終え、汗を拭い、何気なく入口を見る。入ってきたのは仕事帰りらしい男だった。再び身体を動かし、重りを持ち上げる。
二時間が過ぎた。
今度は学生らしい若者が入ってきた。その後にも顔馴染みの利用者が何人かやってきたが、見慣れた黒いポニーテールだけは一度も現れなかった。
それでもヒロは、いつもと変わらずトレーニングを続けた。ただ、セットの合間になると入口を見る。重りを持ち上げ、また見る。そんなことを繰り返しているうちに、大きな窓から差し込む光の色が変わっていた。
白く強かった夏の日差しは橙色を帯び、昼間から鳴き続けていた蝉の声も少しずつ遠くなっていく。一日は待ってくれない。ヒロが何を思っていようと、夏の太陽はいつもと同じように沈んでいく。
腕時計へ目を落とす。いつもの時間は、もう過ぎていた。
今日だけ、いつもと違う。それだけのことだった。
それだけのはずなのに、胸の奥には小さな棘でも刺さったような感覚が残っている。理由は分からない。いや、まだその理由を考えようとはしていなかった。
カヨナ・ワダツミは今日、ジムへ来なかった。
その事実だけが、いつもと同じはずの景色を、ほんの少しだけ違うものに見せていた。
◇
数刻後。
利用者の姿もすっかり少なくなり、先ほどまで絶え間なく響いていた重りの音も、今では忘れた頃に聞こえてくる程度になっていた。
ヒロはジムの入口付近に立っていた。いつもの時間はとうに過ぎ、いつもの場所にも、もう誰もいない。
人が一人いないだけで、ここはこんなにも広かっただろうか。
カヨナがいれば声がする。笑う。訳の分からないことを言う。筋肉を見て、飯の話をして、勝手に周囲の空気まで賑やかにしてしまう。
今日は、それがない。だからだろうか。夕暮れのジムが、妙に静かだった。
ヒロは窓の外へ目を向けた。西の空を燃やしていた夕焼けは、いつの間にか鮮やかさを失い始めている。橙から茜へ、茜から紫へ。幾つもの色を重ねながら、やがて群青の夜へ溶けていく。
街には灯りが一つ、また一つと増えていた。昼間には見えなかった光が、沈んでいく太陽と入れ替わるように灯っていく。
その時、遠くから港の汽笛が聞こえた。低く、長く、夏の夜へ尾を引くように響くその音に、ヒロの眉が僅かに動いた。
「港か……」
小さく呟いたが、すぐに別の可能性が浮かぶ。
「空港か……」
そこで思考が止まった。
どちらなのか、判断できない。自分でも妙だった。
任務なら、限られた情報から可能性を絞る。戦闘なら、相手の動きを見て次の一手を決める。どれほど状況が悪くても、最後には必ず決断する。判断が遅れれば人が死ぬ。だからヒロは迷わない。迷っている暇などなかった。
それが、ヒロ・アシハラという男だった。
そのはずなのに。
「……何故だ」
腕を組む。港か、空港か。たった二つだ。選べばいい。外れたなら、もう一方へ行けばいい。いつもの自分なら、そう考えて動いている。
それだけの話なのに、今日は足が動かなかった。
「なぜ……彼女のことになると、判断ができない」
答えは返ってこない。窓の向こうでは、また一つ街に灯りが増えた。迷っている間にも、時間だけは正しい方向へ進み続けている。
それが妙に怖かった。
港を選んで、そこにカヨナがいなかったら。空港を選んで、その間に港から旅立ってしまったら。今日ジムへ来なかったことが、昨日までとは違う何かの始まりだったら。
もし――。
二度と、会えなかったら。
胸の奥に刺さっていた小さな棘が、ようやく形を持った。
正しい答えを選びたい。間違えたくない。
だから――選べない。
任務では間違えることを恐れず、戦場では命を懸けて決断する男が、たった一人の女の行き先を前にして、間違えることを恐れていた。
その時だった。
「筋肉ォ!! 間違うのが怖ぇから、判断できねぇんだろォ!?」
聞き慣れた声が、静かに積もっていた迷いを一息で吹き飛ばした。
ヒロが振り返る。ゆかりだった。いつもの豪快な笑顔を浮かべ、その後ろにはホシとユウカが並んでいる。
「ギャハハハハ!」
夏の夜を迎えようとしていたジムに、ゆかりの笑い声が響いた。
ヒロは何も言わなかった。否定できない。図星だった。
ゆかりはニヤニヤしながら近づいてくる。
「珍しいじゃねぇか」
「何がだ」
「おめぇが間違うの怖がるなんてよ。筋肉のくせに」
「筋肉は関係ない」
「ギャハハハハ!」
豪快な笑い声が、胸の中で行き場を失っていた迷いを少しだけ軽くした。
そこへ、ホシが腕を組んだまま口を開く。
「結論から言う。空港ではない」
「根拠は」
「荷物が少ない。旅慣れている。移動費も節約する」
余計な感情を挟まず、ホシは事実だけを積み上げていく。
「なら港だ」
「私も同意見です。それに、本日十九時発。海神界方面へ向かう客船が一隻あります」
ユウカの言葉に、ヒロの表情が変わる。
「船名は」
「ゾンネン・ブルーメ号です」
その名を聞いた瞬間、記憶が夏の夕暮れよりも鮮やかに浮かび上がった。
以前、カヨナが話していた。海が好きだと。船旅が好きだと。まだ見ぬ土地の話をする彼女は、いつも楽しそうだった。黒い瞳を輝かせ、知らない景色を思い浮かべて笑っていた。
旅をする女の顔だった。
「……そうか。彼女は……そういう奴だったな」
ようやく点と点が繋がった。港だ。今度こそ、そう思えた。
「あ゛ぁん? 違ぇぞ、筋肉」
「何?」
「嬢ちゃんはよぉ、素直になれねぇんだよ。でも、筋肉には分かってほしい。そういう面倒臭ぇ奴だ」
いつもの笑顔が、ほんの少しだけ消えていた。
ゆかりはカヨナと飯を食った。牛肉ジャーキーを分け合い、くだらない話をして、ラーメンを食べて、一緒に笑った。難しい話など何一つしていない。だからこそ、理屈でも合理でも拾えない何かが見えたのかもしれない。
悪意はなかった。むしろ、その声音はひどく優しかった。
「あー見えて、本当は追いかけてほしいんだろ」
ヒロの目が僅かに揺れた。
――追いかけてほしい。
その言葉が、胸の奥へ落ちる。昨日までなら理解できなかったかもしれない。だが今なら、少しだけ分かる。
自分も同じだったから。
今日も、いつもの時間に、いつもの場所へ。カヨナに来てほしかった。だから一時間、二時間と待った。それでも来ない女を、ヒロは何時間も待っていた。
あれは、ただ相手を待っていたのではない。今日も昨日と同じであってほしかったのだ。
けれど、いつも通りは何もしなくても続いていくものではない。
ゆかりが親指で港の方角を示した。
「だからよ。嬢ちゃんは、おめぇが必ず取る行動の先にいるはずだ」
遠くから、もう一度汽笛が響いた。低い音が、夜の入口へ長く伸びていく。
誰もすぐには口を開かなかった。沈黙が四人の間を静かに通り抜けていく。けれど、その沈黙はもう、ヒロの足に絡みつくものではなかった。
ヒロは港の方角を見る。空にはもう夕陽はない。夏の夜が街を包み始めている。
今日という日は、もうすぐ終わる。だが、まだ終わってはいない。
カヨナは、そこにいる。
理屈ではない。確かな根拠もない。それでも今度は、そう思えた。
「……そうか」
小さく息を吐き、腰に差した姫鶴一文字へ手を添える。
迷っていた時間は取り戻せない。沈んだ太陽も戻ってはこない。なら、今から追いかければいい。
間違っていたら、その時はまた走ればいい。
大切なのは、最初から正しい道を選ぶことではない。
会いたい人のところへ向かうことだった。
ヒロは港を見る。
もう、間違えることは怖くなかった。




