第二十五茶番 このまま見送れるのか
翌日。
特務隊詰所、筆頭室。
午後。
開け放たれた窓の手前には、大蒜の臭いが漂い、その向こう側では、蝉が鳴いていた。
夏の日差しの差し込む室内には、ヒロ、ユウカ、ホシ、大蒜臭の元であるゆかりの四人。
机の上には紅茶、コーヒー、プロテイン。
そして、なぜか食べかけのチャーシュー。
最後のひとつについては、誰の持ち物なのか確認する必要もない。
ヒロは腕を組み、三人を見回した。
「報告を聞こう」
最初に口を開いたのはユウカだった。
カヨナは自由奔放で、行動原理の多くを感覚に委ねている。予測から外れる言動も多く、理論で説得するには非常に扱いづらい相手だったらしい。
因果律そして筋トレ。
思い出したのか、ユウカの眉がほんの僅かに動いた。
「ですが、とても良い方です」
その評価には迷いがなかった。
「あぁ」
ホシも頷く。
「馬鹿だ」
「そうか」
「褒めていない」
「分かっている」
「なら何故、そうかで済ませる」
「面倒だからだ」
ユウカが口元を押さえた。
「ですが、お兄ちゃんもカヨナさんを認めていましたよね?」
「実力は認めている」
「人柄は?」
「悪くない」
「良い人ということですね」
「勝手に変換するな」
「うふふ」
珍しく、兄妹の意見はほとんど一致していた。
ヒロは小さく頷き、最後の一人へ顔を向ける。
「お前は」
ゆかりはチャーシューを齧った。
「ラーメン食った」
「そうか」
ホシの眉間に皺が寄る。
「そうかじゃない」
「あとチャーシューも食った」
「それは聞いておりません」
「美味かったぞ」
「報告をしろ」
「した」
「していない」
「ギャハハハハ!」
豪快な笑い声が筆頭室を揺らす。
ホシは額を押さえ、ユウカは紅茶を飲み、ヒロはプロテインを口に運んだ。
誰も、これ以上まともな報告が出てくるとは思っていなかった。
ひとしきり笑ったあと、ゆかりは椅子へ深く身体を預け、残っていたチャーシューを口へ放り込む。
「まぁ、嬢ちゃんな」
「あぁ」
「面白ぇ。良い奴だ」
短い言葉だった。
だが、ゆかりが誰かをそう評することは多くない。
「でもよ」
笑いが消えた。
「近いうち、どっか行くらしい」
その瞬間、窓の外の蝉の声が、妙に近く聞こえた。
筆頭室から会話が消える。
「あぁ。俺にもそう話していた」
ホシが答え、ユウカも静かに頷いた。
「私にもです」
ヒロだけが何も言わなかった。
旅をする。
それは最初から聞いていた。
この街へ来たのも、このジムへ顔を出すようになったのも、カヨナにとっては長い旅の途中に過ぎない。
いずれ、また別の土地へ行く。
分かっていた。
そのはずだった。
「だからよ」
ゆかりがヒロを見る。
「筋肉」
「何だ」
「お前が行け」
沈黙が落ちた。
今度は誰も、それを急かさなかった。
「あぁ」
ホシが静かに同意し、ユウカも頷く。
「私も、それがよろしいと思います」
ヒロは三人を見た。
「何故だ」
ほとんど同時に、三人の顔へ同じものが浮かんだ。
――分かっていない。
ホシが深いため息を吐く。
「俺は合理的な選択肢を提示しただけだ。決めるのは本人だ」
「私も理論で説得を試みました。ですが……」
ユウカは僅かに視線を逸らした。
「筋トレに着地しました」
「そうか」
「そこはもう少し疑問を持ってください」
ゆかりが鼻で笑う。
「あーしは飯食っただけだ」
「お前は何をしに行ったんだ」
「嬢ちゃんと飯食いに」
「そうか」
「だから納得すんなって言ってんだろ!」
ホシの声が飛び、一瞬だけ、いつもの筆頭室へ戻る。
だが、ゆかりはすぐに真っ直ぐヒロを見た。
「最初に嬢ちゃんを見つけたのは、お前だろ」
ヒロの目が僅かに動く。
「一緒に戦いてぇと思ったのも、お前だ。特務隊に欲しいって言い出したのも、お前だ」
ゆかりは机へ肘をつき、ヒロを指差した。
「だったら、お前が自分で言え」
「……何をだ」
「知らねぇよ」
「お前が言いてぇことだ」
即答だった。
ヒロは黙った。
特務隊にはカヨナの力が必要だ。
あの剣技なら、堕転者との戦闘でも即戦力になる。あれほどの実力者を遊ばせておく理由はない。
どれも正しい。
だが、それだけなら。
どうして自分は、ここまであの女に構う。
最初に見た時は、妙な女だと思った。
筋肉の話をして、飯を食って、喧嘩もした。助け、助けられ、一緒に戦い、何度も振り回された。
くだらないことばかりだったはずなのに、気づけば、その隣にカヨナがいる光景を自然に思い描いている自分がいた。
ヒロは目を閉じた。
浮かんだのは、瓦礫の中で刀を握り、一人で立ち上がったカヨナの背中だった。
強かった。
だが、強いから欲しいのではない。
命令されたから戦ったわけではない。
誰かに認められるためでもない。
目の前に、守るべきものがあった。
だから、あの女は立った。
その姿を見た時、自分はどう思った。
答えは、もう出ていた。
――。
ヒロが目を開ける。
「……そうか」
「何がだ」
ホシが眉を寄せる。
「分かった」
ヒロは立ち上がった。
「俺が行く」
ユウカが静かに微笑み、ゆかりの口元が吊り上がる。
ホシだけは黙ったまま、ヒロを見ていた。
ヒロは筆頭室の奥へ歩いていく。
三人は何も聞かなかった。
数分後。
戻ってきたヒロの手には、一本の刀があった。
紫色の鞘。
光を受け、静かな艶を帯びる美しい拵え。
姫鶴一文字。
ユウカの表情が変わる。
「それを渡すのですか?」
「あぁ」
ホシの目が細くなる。
「本気だな」
ヒロは姫鶴一文字へ視線を落とした。
「元々、その時がきたら託すつもりだった」
ただ、今は少し違う。
入隊させるために渡すのではない。
待遇や安定を並べて、気持ちを変えさせるつもりもない。
特務隊に入れ。
そう言いたいわけではなかった。
ヒロの手が、紫色の鞘を握る。
自分が伝えたいことは、もっと単純だった。
――カヨナに背中を預けたい。
それだけでいい。
理屈も、合理性もいらない。
それが、ヒロ・アシハラという男の、今の正直な答えだった。
姫鶴一文字を腰へ差す。
「行ってくる」
「いってらっしゃいませ」
ユウカが微笑む。
ホシは腕を組んだ。
「逃がすな」
「何をだ」
「本人に聞け」
「意味が分からん」
そして、ゆかりがニヤニヤしながら口を開いた。
「筋肉」
「何だ」
「黙って告れ」
「何をだ」
「ギャハハハハ!」
「何なんだ、お前は」
「何でもねぇ!」
笑い声を背中に受けながら、ヒロは扉を開いた。
廊下へ出る。
扉が閉まる。
その足取りに、もう迷いはなかった。
カヨナを説得しに行くのではない。
引き止めに行くのでもない。
自分がどう思っているのか。
それを、自分の言葉で伝えに行く。
そのあとで何を選ぶのかは、カヨナが決めればいい。
旅を続けるのか。
ここに残るのか。
それは彼女の人生だ。
だから、その前に。
自分も、自分の答えを伝えなければならない。
俺はカヨナに背中を預けたい。
だから、このまま見送ることはできない。
――その言葉を届けるために。
ヒロは、カヨナのもとへ向かった。
第二章 へんなひと・完




