第二十三茶番 生き残れ
早朝。
感情保安庁警察部、遊撃隊訓練場。
三十キロの走り込みを終えた隊員たちが、地面に転がっていた。
仰向け。
うつ伏せ。
大の字。
姿勢に違いはあれど、顔に浮かんでいる感情はおおむね一致している。
もう走りたくない。
感情素子というものは、人の感情を文明の力へ変えてくれる。
残念ながら、疲労そのものを消してくれるわけではない。
その屍の群れの前で、一人だけ呼吸すら乱していない男がいた。
スバル・ホシ。
「休憩十分」
隊員たちの顔に希望が宿る。
「その後、基礎訓練へ移る」
希望が消えた。
「……筆頭」
「何だ」
「まだ三十キロ走ったばかりなんですが」
ホシが首を傾げる。
「だから休憩を入れた」
そういう問題ではない。
反論するだけの体力も残っていなかった。
そのとき、ホシの携帯端末が震えた。
画面へ視線を落とす。
表情が変わる。
「訓練中止」
転がっていた隊員たちが一斉に顔を上げた。
「市街第七区域で感情素子輸送路が破損。一部区画の供給効率が低下している」
都市の照明、空調、通信、交通設備。
人の感情から生まれた力を社会へ届ける輸送路は、目に見えないところで市民の暮らしを支えている。
壊れれば。
当然、生活が止まる。
端末の向こうから報告が続いた。
『緊急復旧を行えば、一時間程度で――』
「必要ない」
『しかし、このままでは――』
「第三輸送路から迂回供給できる。そちらへ切り替えろ」
ホシは表示された系統図を指先で拡大した。
「復旧班は通常手順で入れ。作業を急がせるな」
『復旧まで時間が掛かります』
「供給は代替できる」
「しかし、人間はできない」
『……了解しました』
通信が切れた。
ホシは端末をしまい、地面に転がる隊員たちを見る。
「聞いたな。戻るぞ」
「はい!」
先ほどまで死にかけていた集団が、一斉に立ち上がった。
現金なものである。
もっとも。
それも含めて、ホシは何も言わなかった。
必要なものを。
必要な順番で。
それだけだった。
◇
午後。
いつものジム。
ホシは目的の人物をすぐに見つけた。
カヨナ・ワダツミ。
トレーニングを終えたらしく、首へタオルを掛けて水を飲んでいる。
その周囲では、数人の男が明らかに筋肉とは別のものを見ていた。
ホシが足を止める。
「おい」
男たちが振り返った。
「鍛える気がないなら退け。邪魔だ」
蜘蛛の子を散らすように消えた。
カヨナが目を丸くする。
「あっ」
ホシを見る。
「お兄ちゃん」
ホシの足が止まった。
「誰のだ」
「ユウカさんの」
「……そういう意味か」
どうやら名前として認識されていたらしい。
「スバル・ホシだ」
「ホシさん!」
訂正は早かった。
二人は休憩スペースへ移った。
ホシは椅子へ腰掛けるなり、本題へ入る。
「先に言っておく」
「はい」
「俺は、お前の特務隊入りには反対だ」
「はい!」
元気よく返事をして。
三秒。
「……はい?」
遅れて届いた。
「じゃあ何しに来たんですか?」
「判断材料を渡しに来た」
「はんだんざいりょう」
「お前は旅を続けたい。そうだな」
「はい」
「ヒロは特務隊へ来いと言っている」
「筋肉さん、しつこいんですよ」
「知っている」
即答だった。
「あいつは言葉が足りない。説明も下手だ。思いついたら先に身体が動く」
「そうなんですよ!」
初めて意見が一致した。
「だが」
ホシは続ける。
「あいつは、本当に必要だと思った人間にしか声を掛けない」
カヨナの表情が、僅かに止まった。
「……そうなんですか?」
「ああ」
それ以上は言わない。
ホシはカヨナを勧誘しに来たわけではない。
「旅を続けるのも、お前の自由だ。特務隊へ入るのも自由だ」
真っ直ぐ見る。
「だが、選択するなら両方を知れ。知らない方を勝手に決めつけて、知っている方だけから選ぶな」
カヨナは黙って聞いている。
「その上で、自分で決めろ」
ユウカの時とは違った。
理論で新しい答えへ導こうとはしていない。
この男は最初から、答えをカヨナへ返している。
「ホシさんって、変な人ですね」
「お前に言われたくない」
「アタシ、普通ですよ?」
「それは無理がある」
即答だった。
カヨナが頬を膨らませる。
だが、ホシは笑わなかった。
「もう一つある」
空気が変わった。
「先日の堕転者戦だ」
カヨナの表情から笑みが消える。
「お前は強い。身体能力も高い。実戦経験もある」
「……はい」
「だが、ここは海じゃない」
カヨナの指が、膝の上で僅かに動いた。
「葦原界の市街地で堕転者と戦うなら、この土地の戦い方を覚えろ。感情素子回路が異常化した相手は、お前がこれまで戦ってきた人間とは違う」
先日の光景が蘇る。
突然現れた特殊個体。
死角から迫った一撃。
そして。
自分の前へ飛び込んできた、大きな背中。
「ヒロが来なければ、どうなっていた」
カヨナは答えなかった。
答えられなかった。
「才能も経験もある。それは認める」
ホシの声は変わらない。
責めてもいない。
脅してもいない。
ただ、起きた事実だけを置いていく。
「だが、それだけで何とかなると思うな」
カヨナが俯く。
「……アタシ、弱いですか?」
「違う。お前は知らないだけだ」
カヨナが顔を上げる。
「知らないなら覚えろ。足りないなら身につけろ。それだけだ」
旅を続けてもいい。
特務隊へ入らなくてもいい。
その選択と。
命を失うことは。
まったく別の話だった。
「お前が入るかどうかと、お前が死ぬかどうかは別だ」
ホシが立ち上がる。
「俺は、お前の入隊には反対だ」
カヨナを見た。
「だが、死ねとは言っていない」
そして。
「生き残れ」
それだけ告げて、ホシは歩き出した。
カヨナは呼び止めなかった。
◇
一人になった休憩スペースで、カヨナはしばらく椅子へ座っていた。
勧誘されたわけではない。
むしろ反対された。
なのに、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
知らないなら覚えろ。
足りないなら身につけろ。
生き残れ。
合理的で。
淡々としていて。
少しだけ腹が立つ。
けれど。
あの人は最初から最後まで、アタシの答えを一度も決めなかった。
そして、もう一つ。
――あいつは、本当に必要だと思った人間にしか声を掛けない。
何故か。
そちらの言葉まで残っている。
カヨナは頬杖をついた。
頭に浮かんだのは、昨日まで自分を追い回していた男。
しつこい。
変。
説明が下手。
筋肉。
ふわふわ筋肉。
「……必要、かぁ」
ぽつり。
口元が、ほんの少し緩んだ。
ユウカの因果律は、カヨナへ新しい考え方を教えた。
ホシの合理は、答えを教えなかった。
ただ。
選ぶ前に、見るべきものを一つ増やした。
特務隊へ入る理由は、まだない。
旅をやめる理由も、まだない。
それでも。
あの変な人たちのことを、もう少し知ってから決めてもいいのかもしれない。
そんな選択肢が。
カヨナの中に、初めて生まれた。




