第二十二茶番 因果律の始点
公安本部地下五階。
地上の蝉時雨など届かない研究区画では、朝から膨大な数字が流れていた。
壁面いっぱいに浮かぶのは、葦原界各地から送られてきた感情素子の観測情報。放出量、出力、捕捉率、送信効率――人の感情を文明の力へ変える以上、その流れもまた、電気や水と同じように観測され、管理されなければならない。
その一角で、一人の研究員が端末を睨んでいた。
「主任。第七区域の感情素子供給量が低下しています」
呼ばれた女が振り返る。
ユウカ・ツクヨミ。
差し出された端末へ視線を落とし、指先で数度画面を送る。
「供給量ではありませんね」
「え?」
「ここです」
細い指が、一つの数値を示した。
「供給元の出力は正常です。低下しているのは途中から。送信効率を再計算してください」
研究員が慌てて端末を操作する。
数秒。
目を見開いた。
「……一致しました」
「輸送路の中継設備を優先して調べてください。交換が必要なら保全部へ連絡を」
「はい!」
研究員が駆けていく。
ユウカはもう見ていなかった。
次の資料を開いている。
感情素子から分かるのは、あくまでその状態と挙動だ。どれほど精密に解析しても、人の思考や記憶まで覗けるわけではない。
だからこそ。
ユウカの指が止まった。
画面には、一人の女の資料。
カヨナ・ワダツミ。
先日の堕転者事案。
異常化した感情素子回路を前にして、彼女は既存の解析とは異なる形で、その感情の揺らぎを感じ取ったような反応を見せている。
加えて、戦闘結果にも既存理論では説明しきれない点が残っていた。
「……面白いですね」
研究者の顔になった。
そのとき。
「ユウカ」
聞き慣れた声に、表情がふっと緩む。
「お兄ちゃん」
入ってきたホシが机を見る。
一冊の分厚い帳面が置かれていた。
『陽主様観察日誌 第十七巻』
「……十七巻まで何を書いた」
ユウカは無言で帳面を伏せた。
「見ないでください」
「見ていない。表紙が主張している」
「プライバシーです」
「表紙は公開情報だ」
兄妹はしばし見つめ合う。
やがてユウカが、カヨナの資料へ視線を戻した。
「昨日の件ですね」
「ああ」
「少々不思議な方ではありますが……」
資料を閉じる。
柔らかく笑った。
「きちんとお話しすれば、分かっていただけると思います」
ホシは妹を見た。
何か言おうとして。
やめた。
◇
数時間後。
ユウカはジムにいた。
目的の人物は、すぐに見つかった。
床へ座り、両脚を左右へ大きく開いている。
百八十度。
いや。
それ以上。
「……人間の股関節は、そこまで開くものでしたか?」
「開きますよ?」
カヨナは当然のように答え、上体を起こした。
「あっ! 筋肉さんと一緒にいた人!」
「覚えていてくださったんですね」
ユウカが微笑む。
「改めまして。感情保安庁公安本部特務隊支部、支部長。兼、公安科学技術研究所、主任研究員。階級は一等保安監――弐。ユウカ・ツクヨミです」
淀みなく言い切った。
カヨナは目をぱちぱちさせながら、目の前の女性を改めて眺める。
「……念仏みたいな長さの肩書ですね」
「ええ。私も途中で、どこまで言ったか分からなくなることがあります」
にこり。
もちろん、そんなわけはない。
「っていうか、その歳でその肩書はズルしてません?」
「してません」
即答だった。
◇
休憩スペース。
ユウカの前には紅茶。
カヨナの前にはプロテイン。
それだけで、二人の生き方がおおよそ見える気がする。
「特務隊へ来るつもりは、本当にないんですか?」
「はい」
カヨナはプロテインを一口飲んだ。
「アタシ、まだ旅したいんです」
「旅、ですか」
「いろんな場所を見て、いろんなもの食べて、知らない人と会って。そういうの、楽しいじゃないですか」
実に単純な答えだった。
だが、単純であることと、間違っていることは同じではない。
ユウカは紅茶を置く。
「では、少し考え方を変えてみましょうか。因果律というものをご存じですか?」
「いんがりつ?」
「簡単に言えば、物事には原因があり、その結果として次の出来事が生まれるという考え方です」
「ほうほう」
「あなたは旅をして、この葦原界へ来ました」
「はい」
「そこで、このジムを見つけた」
「はい」
「陽主様と出会った」
「筋肉さんですね」
「……陽主様です」
少しだけ間があった。
「そして堕転者と戦い、今こうして私とも話している」
カヨナが頷く。
「つまり、旅とは場所を移動することだけではありません。新しい場所へ入り、知らなかった人と出会い、今まで経験しなかったものを知ることでもある」
「なるほど……」
カヨナの顔が真剣になった。
ユウカは続ける。
「これらはすべて、あなたが旅に出たことから連なった因果です。ならば、特務隊へ入ることもまた、その先に続く新しい旅の一つになり得るのではありませんか?」
沈黙。
カヨナが考えている。
真剣に。
深く。
ユウカは確信した。
届いた。
世界最高峰の頭脳が組み上げた因果は、一本の線となって彼女の中へ――。
「あっ!」
カヨナが顔を上げた。
「分かりました!」
ユウカが微笑む。
「そうでしょう?」
「アタシ、旅に出たのも強くなりたかったからで、ここに来たのもジムを見つけたからで、筋肉さんと会ったのも筋トレしてたからですよね?」
「……ええ」
雲行きが怪しい。
「堕転者と戦ったのも、そのあとですよね?」
「え、ええ」
カヨナの顔がぱっと輝いた。
「じゃあ――」
嫌な予感がした。
「全部、筋トレから始まったんですね!」
世界最高峰の頭脳が止まった。
「これからも筋トレしてれば、また面白いことが起きそうです!」
「…………」
理論は間違っていない。
因果関係も理解している。
むしろ。
きれいに始点まで遡っている。
だから困る。
「では……」
ユウカは立て直した。
まだ手はある。
「特務隊へ入れば、陽主様とも毎日のように顔を合わせることになりますよ?」
「筋肉さんと?」
「ええ。陽主様と」
カヨナが腕を組んだ。
考える。
ユウカは待った。
「うーん……」
「毎日だと、お腹いっぱいかな」
「…………」
本日二度目。
世界最高峰の頭脳が止まった。
やがてカヨナが吹き出した。
ユウカも耐えきれず、口元を押さえる。
「ふふっ……」
「なんで笑うんですか!」
「いえ。あなた、本当に面白い方ですね」
勧誘には失敗した。
だが。
ユウカ・ツクヨミは少しだけ、カヨナ・ワダツミという人間を好きになった。
◇
その夜。
特務隊筆頭室。
ユウカは机へ突っ伏していた。
「……理論が通じません」
ホシが答える。
「違う」
ユウカが顔だけを上げる。
「何がですか」
「通じていた」
「……」
「あいつは、お前の話を理解した。その上で筋トレを選んだ」
「…………」
反論できない。
理屈が通じなかったのではない。
むしろ、通じてしまったのである。
世界最高峰の頭脳が示した因果を、カヨナはきちんと辿った。
ただ一つ。
ユウカより、少しだけ遠くまで遡っただけだ。
そして――。
カヨナ・ワダツミにとって。
因果律の始点は、筋トレだった。
ホシが椅子から立ち上がった。
「次は俺が行く」
ユウカは頬を机につけたまま、兄を見上げる。
「お気をつけて」
「何にだ」
「分かりません」
だからこそ。
お気をつけて。




