第二十茶番 アタシの人生
戦いが終わった街に、ようやく人の声が戻り始めていた。
遠くから近づいてきた救援車両が路上へ次々と停まり、感情保安庁の隊員たちが建物や路地へ散っていく。夜の街を照らす感情素子灯の下では、先ほどまで堕転者だった人々が一人、また一人と担架へ乗せられていた。
呼吸がある。
胸が上下している。
生きている。
屋上からその様子を見下ろしていたカヨナは、胸元へ手を当てた。
「……良かったぁ」
力が抜けた。
本当に。
誰も死ななかった。
「カヨナ」
「はい?」
隣に立っていたヒロが、街を見たまま口を開いた。
「さっき言っていたことだ」
「さっき?」
「堕転者が助けを求めている、と」
「あぁ……」
カヨナは少し考えた。
どう説明すればいいのだろう。
あれは声ではなかった。
耳で聞いたわけでもない。誰かの記憶を見たわけでも、その人が何を考えているのか分かったわけでもない。
「……声が聞こえたわけじゃないんです」
「うむ」
「何て言えばいいのかなぁ……」
夜風へ手を伸ばす。
指の間を、冷たい空気が抜けていった。
「海にいると、水の流れとか、温度とか……見えないものでも身体で分かる時があるんです」
ヒロは黙って聞いている。
「それと似てたのかも」
カヨナは自分の胸へ手を戻した。
「怖いとか……苦しいとか。悲しいとか」
少しだけ眉を下げる。
「帰りたい、みたいなのもあった気がする」
それを言葉として聞いたわけではない。
ただ、あの濁った感情の奥に、確かに人間がいた。
「だから……」
カヨナは救護されていく人々を見る。
「助けられるなら、助けたかったんです」
しばらく返事がなかった。
カヨナが横を見る。
ヒロは、こちらを見ていた。
「……何ですか?」
「いや」
「?」
「優しいんだな」
カヨナの目が少し開く。
「アタシが?」
「あぁ」
「そうかなぁ……」
ヒロは少し考えた。
それから、何の前触れもなく言った。
「お前は――ひまわりだな」
「……え?」
カヨナが瞬きをする。
「ひまわり?」
「あぁ」
「何で?」
「何となくだ」
「何となく!?」
聞いておいて、それはない。
けれど。
「……ひまわり」
もう一度、その言葉を口の中で転がした。
そして、ふっと笑う。
「アタシの一番好きなお花……」
「そうか」
「はい」
それだけだった。
夜風が二人の間を抜けていく。
カヨナはもう一度、街へ目を向けた。
口元には、まだ小さな笑みが残っていた。
◇
「お姉さぁぁぁぁぁん!!」
情緒は終わった。
「うわっ!?」
振り返れば。
いた。
ナンパ失敗男。
改め。
三人の戦士。
……と呼んで差し支えないかどうかは、今後の彼ら次第である。
「無事だったんだ!」
「良かったぁぁぁ!!」
「俺らも生きてるぅぅぅ!!」
「見れば分かるよ!」
三人とも満身創痍だった。
顔には痣。
服はボロボロ。
一人など額の『ナンパ失敗男』が半分残っている。
それでも元気だった。
「お姉さん!」
「ん?」
「約束、覚えてる!?」
「約束?」
「腕周り五十五センチ!!」
「あ」
覚えていた。
できれば忘れてほしかった。
三人は自分たちの腕を見る。
細い。
どう贔屓目に見ても五十五センチはない。
「俺ら、鍛えるよ!」
「絶対五十五センチにする!」
「待っててくれ!」
「えぇ……」
何かがおかしい方向へ動き始めている。
その様子を見ていたヒロが口を開いた。
「お前たち」
「は、はい!」
三人が一斉に姿勢を正した。
「さっきの動きは素人だな」
「ぐっ……」
「はい……」
「俺ら、喧嘩くらいしか……」
一人が頭を掻く。
「頭も良くねぇし……俺らじゃ、あんたらみたいにはなれないよ」
ヒロは首を傾げた。
「何故だ?」
「何故って……」
「俺ら馬鹿だし」
「馬鹿なら勉強すればいい」
「……え?」
あまりにも普通に返された。
ヒロは三人を見る。
「今できないことがあるなら、できるようになればいい。それだけだ」
三人が黙る。
「戦い方を知らないなら覚えろ。力が足りないなら鍛えろ。知識が足りないなら勉強しろ。できない理由を探している暇があるなら、一つでもできることを増やせ」
三人の顔から、少しずつ笑いが消えていった。
ヒロが踵を返す。
「特務隊で待っている」
「……!」
三人は、その背中を見た。
カヨナも見ていた。
誰も何も言わない。
ほんの少しだけ。
屋上に静かな時間が流れた。
ちなみに。
この三人。
後に本当に感情保安庁の採用試験を受ける。
一度目。
不合格。
二度目。
不合格。
それでも諦めず。
三度目。
ようやく合格。
そして本当に、特務隊の門をくぐることになる。
なお。
その頃の腕周り。
五十一センチ。
四センチ足りない。
人生というものは、なかなか思い通りにはいかない。
だが。
思い通りにならないからといって、歩いてきた道まで無駄になるわけではない。
彼らがそれを知るのは、もう少し先の茶番である。
◇
救護活動も一段落した頃。
カヨナは屋上の出口へ向かって歩いていた。
その隣を、ヒロが歩く。
女性服売場の制服で。
そういえば、ずっとこの格好だった。
今さらである。
「カヨナ」
「はい?」
「最後にもう一度だけ聞く」
足が止まる。
何を聞かれるのか。
分かっていた。
ヒロも立ち止まった。
「特務隊に来ないか?」
カヨナはすぐには答えなかった。
少し前までなら、迷うことなどなかった。
嫌です。
行きません。
それで終わっていた。
でも今は。
一緒に戦った。
背中を預けた。
あの大きな背中があれば、後ろを見なくてもよかった。
自分が一人で全部を守らなくてもいいと、初めて知った。
楽しかった。
安心した。
また一緒に戦ってみたいとも、少しだけ思う。
だからこそ。
カヨナはゆっくり首を横へ振った。
「……ごめんなさい」
ヒロは何も言わない。
「アタシ、まだ……行けません」
「そうか」
それだけ。
カヨナは少し拍子抜けして、顔を上げた。
「それだけですか?」
「何がだ?」
「いや……もっとこう」
「こう?」
「話を聞いてくれ、とか」
ヒロは首を傾げる。
「嫌なんだろう?」
「……」
まただ。
この人は。
追いかけてくる。
勝手に物を贈る。
待ち伏せする。
偶然を作る。
尾行する。
女装までする。
シャワールームにも入ってくる。
なのに。
本当に嫌だと言えば、止まる。
「他にやりたいことがあるんだろ?」
カヨナの目が開く。
「世界を見たいんじゃなかったのか?」
「……はい」
「なら、見てくればいい」
あっさりと言った。
「やりたいことがあるヤツを、無理に引き止めるつもりはない」
ヒロが屋上の扉へ向かう。
その途中で、一度だけ振り返った。
「自分の人生だ」
カヨナを見る。
「それを大事にしろ」
「……」
ヒロは今度こそ歩き出した。
大きな背中。
少し前まで、そこへ自分の背中を預けていた。
温かかった。
安心した。
カヨナの唇が僅かに開く。
「……」
声は出なかった。
出さなかった。
扉が開く。
ヒロが消える。
閉じる。
カヨナは、しばらくそこに立っていた。
あの時は。
あの扉から消えていく背中を、思わず呼び止めた。
今度は呼ばなかった。
行きたい場所が、自分にもある。
まだ見たことのない景色がある。
まだ知らない土地が。




