第十九茶番 背中を預ける安心感
夜の街に、赤い眼が増えていく。
隣の建物。
非常階段。
路地。
道路。
感情素子の供給を受けた街灯が次々と夜を照らしていく中、その光の下を、本来そこにいるはずの人々がゆっくりと歩いていた。
いや。
もう、人々とは呼べない。
異常化した感情素子回路に身体を支配された者たち。
――堕転者。
「……来るぞ」
ヒロが祢々切丸を構えた。
その隣で、カヨナも二本のコンバットナイフを逆手に握る。
「はい!」
最初の一体が屋上へ飛び込んできた。
ヒロが踏み込む。
巨体からは想像もできない加速だった。床を蹴った力が脚から腰、背中、肩へと繋がり、振り抜かれた祢々切丸が堕転者の胴を薙ぐ。
刃に組み込まれた感情素子受信チップが、ヒロの感情素子回路と同期する。
ただ肉体を斬るための一撃ではない。
異常化した回路そのものへ干渉する刃。
堕転者の身体が吹き飛び、屋上を転がった。
その横を。
黒髪が駆け抜ける。
カヨナは正面から伸びてきた腕を紙一重でかわすと、そのまま懐へ潜り込んだ。身体を沈め、床へ手をつき、脚を跳ね上げる。
顎を蹴り抜く。
堕転者の上体が浮いた。
その下を抜けながら身体を反転させ、二本の刃を走らせる。
一切止まらない。
水が岩を避けて流れるように、回避と攻撃が一つの動きになっていた。
堕転者が崩れ落ちる。
そして、また。
再生しない。
カヨナのナイフには、感情素子受信チップなど搭載されていない。
それでも刃が触れた先で、異常化した回路は沈黙していく。
「筋肉さん!」
「何だ!」
「スイカ割りみたいですね!!」
「横に割るスイカ割りはない」
祢々切丸が、別の一体を真横へ吹き飛ばした。
「でも、そんな感じです!」
「そうか」
「はい!」
納得したらしい。
何に納得したのかは分からない。
戦闘は続いている。
ヒロが地面を蹴る。
カヨナが風のように走る。
一方は圧倒的な筋力を速度へ変え、一方は身体の柔らかさと重心移動を使って、ほとんど勢いを殺さず敵の間を抜けていく。
まるで違う。
それなのに。
互いの邪魔をしない。
ヒロの斬撃で体勢を崩した堕転者の脇を、カヨナの刃が走る。カヨナを追った一体が背を向ければ、祢々切丸がその先を断つ。
「……見事だな」
ヒロが呟いた。
「え?」
「いや。よく鍛えている」
「えへへ」
褒められた。
素直に嬉しかった。
その時。
「カヨナ!」
ヒロの声色が変わった。
「え?」
「振り向くな!」
振り向いた。
「何ですか?」
「振り向くなと言っただろ!」
「え?」
視界にヒロしかいない。
その背後。
カヨナの死角から、何かが滑り込んだ。
音がない。
先ほど、自分の首を掴んだ個体と同じだった。
「しまっ――」
間に合わない。
振り下ろされた腕とカヨナの間へ、巨大な身体が割り込んだ。
「きゃっ!」
そのままカヨナの身体が、ヒロの胸元へ抱き寄せられる。
直後。
鈍い音。
堕転者の指がヒロの背中へ食い込んだ。
――はずだった。
「……?」
堕転者の動きが止まる。
指が。
曲がっていた。
筋肉に負けたらしい。
「うぐっ……」
「筋肉さん!?」
カヨナが顔を上げる。
「大丈夫ですか!?」
「あぁ……」
ヒロは苦い顔で背中へ手を伸ばした。
「ニキビに入った」
「そこ!?」
「ちょうど痛いところだった」
「心配して損したぁ!!」
「それより」
ヒロがカヨナを下ろす。
表情が変わった。
「今のヤツだ」
カヨナも振り返る。
他の堕転者とは動きが違う。
ただ暴れているのではない。
こちらの死角へ回る。
隙を待つ。
そして、狙う。
「特異体が混じっている」
「とくいたい?」
「普通のヤツと動きが違う。背中を見せるな」
「先に言ってくださいよ!」
「言おうとしたら振り向いた」
「あ」
それはそうだった。
堕転者たちが距離を詰めてくる。
ヒロがカヨナへ背を向けた。
「カヨナ」
「はい?」
「背中合わせで戦ったことは?」
「ありますよ」
何度も。
海神近衛兵団にいた頃。
敵に囲まれた時。
仲間を守る時。
背中を合わせて戦ったことなど、一度や二度ではない。
「なら話は早い」
ヒロの背中が、カヨナの背へ触れた。
大きい。
そして、熱い。
「攻撃は任せた」
「え?」
「俺がお前の背中を守る」
堕転者が飛び込んできた。
カヨナは反射的に後ろを確認しようとする。
「前だけ見ていろ!」
声が背中越しに響いた。
「でも!」
「後ろは俺が見る」
祢々切丸が走る。
カヨナの死角へ入った堕転者が吹き飛んだ。
「お前は前を見ろ」
「……」
カヨナは正面へ向き直った。
一体。
右からもう一体。
二本のナイフを構える。
踏み込む。
一体目の腕を潜り、腹へ刃を走らせ、その勢いのまま二体目へ身体を回す。
後ろは見ない。
背後で風が鳴った。
祢々切丸だ。
また一体。
「右!」
「はい!」
右へ跳ぶ。
「前!」
「分かってます!」
刃を走らせる。
少しずつ。
肩から余計な力が抜けていった。
不思議だった。
背中合わせなら、何度も経験している。
けれど。
海神近衛兵団にいた頃は、いつだって自分が守らなければならなかった。
仲間を生きて帰す。
自分が倒れてはいけない。
後ろにいる者まで、自分が守る。
それが当たり前だった。
なのに今は。
背後から敵が来ても、振り向かなくていい。
大きな背中が動くたび、そこから伝わる振動と熱だけで分かる。
いる。
ちゃんと、そこにいる。
「カヨナ」
「はい!」
「海ではどうしていた?」
「海?」
「後ろが見えない時だ」
カヨナはナイフで攻撃を受け流しながら答える。
「水を感じます!」
「水?」
「流れとか、圧とか! 肌に当たる感じとか!」
ヒロが一体を斬り伏せる。
「なら同じだ」
「何がですか!?」
「水が空気になっただけだ」
「そんな雑な!?」
「やってみろ」
「無茶言うなぁ!!」
言いながら。
カヨナは目の前の一体を蹴り飛ばした。
一歩。
止まる。
風が頬を撫でた。
街の夜風。
けれど、その中に別の動きがある。
誰かが走れば、空気が押される。
腕を振れば流れが変わる。
背後。
右。
――来る。
カヨナは振り向かなかった。
身体を沈める。
頭上を腕が通過した。
「!」
そのまま振り返りざまに蹴り上げる。
命中。
「見えた!」
「見えてはいない」
「細かい!!」
「だが見事だ」
ヒロの声が少し笑った。
「好きだ」
カヨナの身体が固まった。
「えっ!?」
「好きな戦い方だ」
「……」
「どうした?」
「何でもないです!!」
頬が熱い。
絶対に振り向かない。
今だけは別の意味で振り向けなかった。
背中合わせのまま、再び構える。
ヒロの背中は相変わらず大きかった。
戦闘で熱を持った身体から、じんわりと体温が伝わってくる。
――安心する。
その感覚に気づいた途端、カヨナは少しだけ背中を預けた。
ほんの少し。
「……えへへ」
「何だ?」
「ふわふわ筋肉……」
「硬いだろ」
「でも、ふわふわする……」
「意味が分からん」
カヨナの頬が背中へ寄る。
「……」
「カヨナ」
「はい?」
「よだれを拭け」
「出てないです!!」
慌てて口元を拭いた。
出ていた。
ヒロは何も言わなかった。
その優しさが少し腹立たしい。
「変態」
「何故だ」
「何となくです」
「変態に変態と言われたくない」
「誰が変態ですか!!」
その声に反応するように、残っていた堕転者たちが一斉に動いた。
カヨナの顔から笑みが消える。
今度は。
目を閉じた。
風。
足音。
床を蹴る振動。
空気の流れ。
そして――。
何かが触れた。
「……?」
風ではない。
冷たい。
重い。
胸の奥へ沈んでくるような、濁った感情。
怒り。
恐怖。
苦痛。
何かを失った悲しみ。
異常化した感情素子回路から溢れたものが、周囲の空気へ混じっている。
言葉ではない。
誰かの記憶でもない。
けれど。
その奥にあるものを、カヨナは知っていた。
苦しい。
怖い。
ここから出たい。
帰りたい。
誰かに――。
「……助けて」
ヒロの動きが止まった。
「カヨナ?」
目を開く。
正面にいる堕転者を見る。
赤い眼。
歪んだ顔。
人を襲う腕。
それでも。
この人たちは、人だった。
「声が聞こえたわけじゃないです」
カヨナはナイフを握り直す。
「でも……分かるんです」
冷たい感情が、まだ肌に触れている。
「この人たち……苦しいんだ」
ヒロは何も言わない。
カヨナが振り返る。
「筋肉さん」
「何だ」
「アタシ……」
一度、息を吸った。
「一緒に……堕転者を助けたいです」
ヒロは理由を聞かなかった。
祢々切丸を握り直す。
「分かった」
それだけだった。
二人が動く。
同時に。
カヨナが先へ出た。
堕転者の攻撃を紙一重でかわし、腕へナイフを走らせる。刃が触れた先で異常化した回路の働きが鈍り、その一瞬へヒロの祢々切丸が重なる。
斬る。
だが、殺すためではない。
止めるために。
戻すために。
ヒロが踏み込めば、カヨナが死角へ回る。
カヨナが一体を崩せば、ヒロが次の一撃を繋ぐ。
「左!」
言う前にカヨナがいた。
「後ろ!」
言う前にヒロの刃が走っていた。
やがて。
言葉すら要らなくなった。
一つの呼吸が終わる前に、もう片方が動く。
吸う。
踏み込む。
吐く。
刃が走る。
ヒロが前へ出る。
カヨナがその背後を埋める。
カヨナが跳ぶ。
ヒロが着地点を守る。
違う身体。
違う武器。
違う戦い方。
それでも。
二人の呼吸だけが、重なっていく。
最後の一体がカヨナへ飛び込んだ。
カヨナは避けない。
正面から踏み込み、振り下ろされた腕を身体ごと外へ流すと、懐へ潜って刃を走らせる。
異常化した回路の動きが止まる。
「筋肉さん!」
「あぁ!」
ヒロが前へ出た。
祢々切丸が夜を斬る。
一閃。
堕転者の身体から力が抜けた。
赤かった眼が閉じる。
倒れた身体が、静かに呼吸を始めた。
その周囲にも。
一人。
また一人。
先ほどまで暴れていた者たちが、人として地面へ横たわっている。
ヒロは祢々切丸を下ろし、しばらく彼らを見ていた。
「……全員、生きている」
カヨナの肩から力が抜けた。
「良かったぁ……」
その場へ座り込む。
「疲れた……」
「そうだな」
ヒロも腰を下ろした。
自然と。
二人の背中が触れた。
戦っている時と、同じ姿勢。
もう敵はいない。
だから今度は、背後を守る必要もなかった。
それでもカヨナは離れなかった。
背中から伝わってくる体温に、そっと身体を預ける。
街を照らす感情素子の灯りの下で、救われた人々の呼吸が少しずつ夜へ戻っていく。
「筋肉さん」
「何だ?」
「背中、大きいですね」
「そうか」
「あと、やっぱりふわふわします」
「硬い」
「ふわふわです」
「硬い」
「……じゃあ、硬ふわ」
「何だそれは」
カヨナは小さく笑った。
ヒロも、それ以上は言わなかった。
夜風が屋上を抜けていく。
少し前までなら。
その風の向こうに何があるのか、カヨナは一人で確かめていた。
今は。
後ろを見なくてもいい。
それがこんなにも安心することを。
カヨナは、初めて知った。




