第十八茶番 三人の戦士と救世主
夕暮れの屋上。
ヒロが消えた扉を一度だけ振り返り、カヨナは小さく息を吐いた。
「……よし」
そろそろ、次の土地へ行こう。
まだ見たことのない景色がある。
食べたことのないものもある。
知らない人たちと出会って、また気が向いたら別の土地へ行けばいい。
それが、今のアタシの人生だ。
そう決めて歩き出した――その時だった。
「お姉さーーーん!!」
背後から情けない声が飛んできた。
カヨナの足が止まる。
「……あ」
忘れていた。
振り返れば、夕暮れの空を背景に三人の男が逆さになって揺れている。
額には仲良く、
『ナンパ失敗男』
ヒロの力作である。
「ご、ごめん! 忘れてた!」
「忘れないでぇぇぇ!!」
「頭に血がぁぁぁ!!」
「死ぬぅぅぅ!!」
カヨナは慌てて三人を下ろした。
床へ転がった男たちは頭を抱えたり、足を伸ばしたりしながら呻いている。しばらくしてようやく一人が身体を起こすと、申し訳なさそうに頭を下げた。
「さっきは……悪かったよ」
「俺ら、ちょっと調子乗ってた」
「怖い思いさせたよな。ごめん」
「うん」
カヨナは腕を組んだ。
三人の肩が縮こまる。
「女の子にあんな乱暴にしたらモテないよー!!」
「はい!!」
「すみません!!」
「もうしません!!」
見事な直立不動だった。
「普通に声掛けてくれれば、お茶くらいしたかもしれないのに」
「マジで!?」
三人の背筋が同時に伸びた。
「マジマジ。アタシ、別にナンパされたから怒ったわけじゃないし」
「じゃ、じゃあ今から――」
「それは無理」
「何で!?」
「今はもう嫌だから」
三人の恋が終わった。
始まっていたかどうかは知らない。
「じゃあね!」
カヨナが笑って片手を上げる。
今度こそ、屋上をあとにする。
そのはずだった。
ガンッ!!
突然、屋上扉が内側から弾けるように開いた。
「わっ!」
まともにぶつかったカヨナの身体が弾かれ、尻餅をつく。
「いったぁ……」
出てきたのは、一人の男だった。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫で……ア……ぁアぁァ」
言葉が止まる。
男の肌には血の気がなく、頬は異様に痩せこけていた。荒い呼吸を繰り返すたびに肩が大きく上下し、充血とは違う赤い眼だけが、何かを探すようにぎょろぎょろと動いている。
人間の身体には、感情から生まれた感情素子を捕捉し、処理するための回路が存在する。
感情素子回路。
それは誰もが持つ、この文明の日常を支えるもの。
そして。
時に、その回路は――人を壊す。
男の首が、不自然な角度で傾いた。
「ァ……」
喉の奥から掠れた音が漏れる。
三人の顔色が変わった。
「堕転者……!」
男が床を蹴った。
「お姉さん、逃げろ!!」
カヨナの前へ、三人が飛び出した。
「え?」
「俺らに構わず逃げて!」
「早く!」
カヨナが目を丸くする。
さっきまで、自分の腕を掴んでいた男たちだ。
戦えるようにも見えない。
膝だって震えている。
それでも三人は、カヨナと堕転者の間に立っていた。
「……もう」
カヨナは立ち上がり、腰へ手を伸ばす。
「そういう漢気、最初から見せればいいのに」
二本のコンバットナイフを引き抜いた。
「え?」
「だからモテないんだよ」
堕転者が跳んだ。
カヨナも動く。
正面から迫る腕を身体一つ分だけ横へ流し、その勢いを殺さないまま懐へ潜る。踏み込んだ右足を軸に身体を反転させると、逆手に握った刃が首筋を走った。
速い。
だが、それ以上に無駄がない。
「はい、おしまい!」
堕転者の身体が床へ崩れ落ちた。
三人が固まる。
「……」
「……」
「……」
「怪我ない?」
カヨナはナイフを軽く振り、何事もなかったように立ち上がった。
「いやいやいやいや!!」
「お姉さん何者!?」
「ただの旅人だよ?」
「ただの旅人は今の動きしねぇよ!!」
「そう?」
カヨナは首を傾げた。
その背後で。
倒れた堕転者は、動かなかった。
本来なら。
ただ肉体を傷つけただけでは、堕転者は止まらない。
暴走した感情素子回路が生命活動を維持し、通常の物理損傷なら再生を始める。
だからこそ、感情保安庁の武装には使用者の感情素子回路と同期する受信チップが組み込まれている。
だが。
カヨナが握っているのは、旅人が護身用に携えていたコンバットナイフ。
感情素子受信チップなど、どこにもない。
それなのに。
斬られた箇所へ通じる異常化した回路は、沈黙していた。
再生は――始まらない。
「ねぇ、お姉さん」
「ん?」
カヨナはもう、その異常を見ていなかった。
「さっきの筋肉の人と、どういう関係なの?」
「あぁ……」
少し考える。
「変態」
「彼氏!?」
「話聞いてた!?」
「でも、あの人ずっとお姉さん追いかけてたじゃん」
「追いかけてたというか……」
プロテイン。
リストラップ。
ベルト。
ダンベル。
ベンチプレス台。
シャワールーム。
尾行。
女装。
ろくな思い出がない。
なのに。
最後に頭へ浮かんだのは、さっき閉じた屋上の扉だった。
カヨナは少しだけ顎を上げる。
「まあ……」
ほんの少し。
見栄を張った。
「アタシの彼」
「マジかぁぁぁ!!」
「負けたぁぁぁ!!」
「筋肉に負けたぁぁぁ!!」
「ふふん」
何故か勝ち誇った。
その瞬間。
――何かが、首へ巻きついた。
「え?」
身体が浮いた。
「がっ……!」
背後から伸びた腕が、カヨナの首を締め上げている。
ナイフが一本、手から落ちた。
カラン――。
音が、やけに大きく響いた。
いつからいた?
足音は。
息遣いは。
さっきの堕転者のような呻き声すら聞こえなかった。
何より。
――何も感じなかった。
「お姉さん!!」
三人の声。
カヨナは腕へ指を掛ける。
外れない。
強い。
身体を捻ろうとしても、背後の個体はその動きに合わせるように重心を変えてくる。
「くっ……!」
視界の端が滲み始めた。
普通の堕転者じゃない。
そう理解した時には、もう遅かった。
「離せぇぇぇ!!」
一人目が飛び込んだ。
拳を叩き込む。
堕転者は僅かに顔を向けただけだった。
腕を振る。
男の身体が吹き飛んだ。
「ぐぁっ!」
「この野郎!!」
二人目。
三人目。
結果は同じだった。
殴っても、蹴っても、止まらない。
それでも。
「もう……いい……から……」
カヨナが掠れた声を絞り出す。
「逃げ……て……」
三人は逃げなかった。
吹き飛ばされた男が立ち上がる。膝は震え、口元から血が流れている。それでも歯を食いしばり、もう一度走った。
「うるせぇ!」
「女の子置いて逃げられるかよ!」
「さっき格好悪いとこ見せたばっかなんだよ!!」
三人が同時に飛びかかった。
効かない。
分かっていても。
それでも、行った。
カヨナの口元が僅かに緩んだ。
「……じゃあ……」
酸素が足りない。
声が続かない。
それでも何とか言葉を繋ぐ。
「もし……生き残れて……」
三人が見る。
「腕周り……五十五センチ以上になったら……」
一度、息を吸おうとする。
吸えない。
「付き合って……あげる……」
「マジで!?」
三人の目に光が戻った。
その時。
低い声が、屋上を横切った。
「俺の腕は六十七センチだ」
カヨナの目が開く。
三人が振り返る。
夕闇の中。
屋上の扉の前に、一人の男が立っていた。
体重一三八キロを超える筋肉の巨体。
隆起した肩。
六十七センチの上腕。
そして。
女性服売場の制服。
「筋肉さん……」
救世主は来た。
服装については、今はどうでもいい。
次の瞬間、ヒロの姿が消えた。
床を蹴る音が、一度だけ響く。
「ふんっ!!」
堕転者が反応するより早く、巨大な拳がその胴体へ突き刺さった。
轟音。
衝撃が屋上を走る。
堕転者の身体が、宙へ浮いた。
当然。
その腕はまだ、カヨナの首を掴んでいる。
「え?」
そして三人もまた、カヨナを助けようと堕転者へしがみついたままだった。
「あ」
一人が気づいた。
遅かった。
「ええええええええええ!?」
堕転者。
カヨナ。
三人の戦士。
仲良く五人まとめて吹き飛んだ。
「ぎゃああああああ!!」
「お姉さぁぁぁぁん!!」
「何で俺らまでぇぇぇぇ!!」
屋上を派手に転がり、ようやく止まる。
「いったぁぁぁぁぁ!!」
カヨナが頭を押さえながら起き上がった。
「もう少し考えてよぉぉぉぉぉ!!」
ヒロは拳を下ろした。
「すまん」
「アタシ、首掴まれてたんですよ!? 普通そのまま飛ぶって分かるでしょ!!」
「……確かに」
「今気づいたの!?」
三人も折り重なったまま呻いている。
「俺らも……」
「忘れないで……」
「戦士……なのに……」
「誰も戦士なんて言ってないよ!?」
それでも。
カヨナは首元を押さえながら、ヒロを見た。
さっき。
確かに、この男は帰った。
自分が断ったから。
何も求めず、何も押しつけず、本当に帰っていった。
なのに。
困った時には、また現れた。
助けたことを恩に着せるでもなく。
だから特務隊へ来いと言うでもなく。
ヒロは吹き飛ばした堕転者へ視線を向けたまま、ただそこに立っている。
カヨナの口元が、ほんの少し緩んだ。
「……ありがと」
ヒロが振り返る。
「あぁ」
それだけだった。
◇
「た、助かった……」
「死ぬかと思った……」
「腕五十五センチ……」
「お前もう鍛える気なの!?」
床へ転がる三人を見下ろし、ヒロが顎へ手を当てた。
「ここでは危険だな」
「そうだよ! 早く安全な場所に――」
数分後。
「何でこうなるんだよぉぉぉぉ!!」
三人は、屋上アンテナのさらに高い位置から吊られていた。
「ここなら届かん」
「俺らも地面に届かねぇよ!!」
「下ろせぇぇぇ!!」
カヨナが額を押さえた。
「筋肉さん……」
「何だ?」
「安全って言葉、知ってます?」
「知っている」
「嘘だぁ……」
その時だった。
ヒロの表情から、笑みが消えた。
「カヨナ」
声が低い。
カヨナもすぐに気づく。
隣の建物。
非常階段。
道路。
路地。
夕闇の中で、人影が動いている。
一つ。
二つ。
三つ。
それだけではない。
感情素子を主要エネルギーとして動く街に、夜の灯りが次々と点っていく。
いつもなら、人々の生活を照らす光。
その下に。
赤い眼が、いくつも浮かんだ。
人だった者たちが、こちらを見上げている。
「……こんなに?」
カヨナの指が、残ったナイフの柄を握る。
ヒロも腰へ手を伸ばした。
朱塗りの鞘。
祢々切丸。
カヨナは先ほど自分の背後を取った個体へ目を向ける。
他とは違った。
音もなく。
気配もなく。
まるで、こちらの動きを知っていたかのように背後へ入った。
「筋肉さん」
「あぁ」
ヒロが祢々切丸を抜く。
夜の灯りを受け、刀身が静かに光った。
カヨナも床へ落ちたもう一本のナイフを拾い上げる。
二本。
逆手に握る。
街を動かす感情素子。
人を生かす感情素子回路。
その同じ世界法則が、今。
人を壊している。
屋上へ、最初の一体が飛び込んできた。
ヒロが刀を構える。
カヨナが腰を落とす。
まだ二人は知らない。
互いが、どんな戦い方をするのか。
どこまで速いのか。
何を守ろうとするのか。
そして。
背中を預けた時――。
どれほど、強いのか。




