第十七茶番 偶然をつくる男
翌日。
特務隊筆頭室。
ヒロ・アシハラは、昨日と同じ机で、昨日と同じ雑誌を読んでいた。
顎には、昨日カヨナから叩き込まれた神速のハイキックの痕が残っている。
『筋肉やろうぜ!!――夏のナンパテク増刊号』
人間は、失敗から学ぶ生き物である。
少なくとも、そうであってほしい。
「なるほど……」
ヒロの指が、ある記事の上で止まった。
『女の子は偶然の出会いに運命を感じる!?』
「偶然……」
何度か頷く。
「確かに、毎日会いに行くから警戒されるのかもしれん」
そこには気づいた。
大きな進歩である。
「ならば、偶然会えばいい」
そして。
「偶然は、自分で作ればいい」
進歩は終わった。
ヒロは雑誌を閉じ、静かに立ち上がった。
「作戦開始だ」
◇
昼下がりの街。
感情素子の供給を受けた交通設備が人々の往来を支え、店舗の案内表示が次々と切り替わっていく大通りを、カヨナは一人で歩いていた。
時折ショーウインドーを覗き込み、気になる店を見つけては足を止める。
「かわいい……」
飾られた服を見つめ、頬を緩めた。
戦っている時とも、筋力鍛錬に励んでいる時とも違う、ごく普通の女の子の顔だった。
「あっちも見てみようかな」
軽い足取りで歩き出す。
その約二十メートル後方。
黒い帽子。
黒いタンクトップ。
黒いスキニーデニム。
黒いバスケットシューズ。
全身を黒で統一した男が、街路樹の陰から半身だけを出していた。
本人としては、かなり隠れているつもりだった。
ただし。
体重一三八キロを超える筋肉の塊。
肩幅は広い。
腕も太い。
脚も太い。
何より、街路樹より本人の方が太い。
通りすがりの少年が指を差した。
「ママ、あの人――」
母親が、その手をそっと下ろした。
散歩中の犬がヒロを見る。
一歩、飼い主側へ寄った。
ヒロは帽子を深く被り直した。
――完璧だ。
理屈は通っていない。
本人の中では、かなり通っている。
「今日は、お洋服買おうかな」
前方から聞こえたカヨナの声に、ヒロの目が見開かれた。
「何!?」
周囲の人々が振り返る。
ヒロには見えていない。
偶然。
服。
女性。
プレゼント。
昨日の失敗。
いくつもの情報が頭の中で組み合わさり――どういうわけか、最悪の方向で一つになった。
「……思いついた」
口元が上がる。
「我は……天才以外の何者でもない」
両腕を広げた。
「ふはははははは!!」
人々が離れていく。
「カヨナ・ワダツミ……何としても貴様を手に入れる……」
言葉選びまで最悪だった。
そしてヒロは青空へ拳を突き上げた。
「I am the King of Hell fire!!」
誰も近づかなかった。
当然である。
◇
大型百貨店。
買い物客で賑わう館内では、感情素子供給を受けた照明や空調が当たり前のように稼働し、各階の案内表示が静かに切り替わっていた。
カヨナは女性服売場を楽しそうに歩いていた。
「これ、かわいいなぁ……」
一着の服を手に取って鏡へ合わせる。少し悩んで戻し、今度は隣の服へ。
旅を続けていれば、荷物は少ない方がいい。
分かっている。
分かってはいるのだが。
かわいいものは、かわいい。
そんな平和な時間に。
「いらっしゃいませぇぇぇーーー↑↑↑」
やたら野太い高音が響いた。
「はい!」
カヨナが振り返る。
そこには。
大きな女性店員がいた。
とても大きかった。
制服越しにも分かる広大な肩幅と隆起した腕。腰は妙に細く、脚はどう見ても服飾店員のそれではない。
あと、少し髭の剃り跡があった。
「大きい女性店員さんだなぁ……」
カヨナはぱちぱちと瞬きをした。
海神界を離れ、様々な土地を見てきた。
人の姿も、生き方も、価値観も違う。
カヨナにとっては、これもその一つだった。
目の前の女性店員――否、ヒロ・アシハラは心の中で拳を握った。
――完璧だ。
一片の疑いも抱かれていない。
もっとも、それは変装技術の成果ではない。
「何かお探しですかぁーーー↑↑↑」
「普段着を見てるんです!」
「でしたらぁーーー、こちらなどいかがでしょうかぁーーー↑↑↑」
差し出された。
スポーツウェアだった。
「あ、ありがとうございます。でも今日は普通のお洋服を……」
「ではぁーーー、こちらなどぉーーー↑↑↑」
別のスポーツウェア。
「……あの」
「こちらも伸縮性が高くぅーーー↑↑↑」
「スポーツウェアばっかりですね?」
ヒロの動きが止まった。
「なぜだ……」
低い声だった。
カヨナの眉が動く。
「……ん?」
その時。
ヒロの通信端末から、女性の声が響いた。
『陽主様ぁ? どちらにいらっしゃるんですか?』
ヒロの顔が固まった。
カヨナが、ゆっくり見上げる。
広い肩。
太い腕。
見覚えのある身体。
そして声。
「……筋肉さん?」
「違う」
完全に地声だった。
「…………」
「…………」
カヨナの頬が引きつる。
「筋肉さぁぁぁぁぁん!!」
逃げた。
ヒロも追った。
「待て! 偶然だ!」
「どこがですかぁぁぁぁぁ!!」
「偶然ここで働いていただけだ!」
「昨日まで特務隊の筆頭だったでしょおおおおお!!」
未来文明の百貨店を、一人の旅人と巨大な女性店員が全力で駆け抜けていった。
文明がどれほど進歩しても、人類には解決できない問題があるらしい。
◇
どんっ!
「ご、ごめんなさい!」
角を曲がったカヨナが、三人組の男とぶつかった。
「大丈夫、大丈夫」
「お姉さん一人?」
「俺らと遊ばない?」
「えっと……」
後ろを見る。
筋肉女装男は、まだ来ていない。
前を見る。
三人。
何となく嫌な予感がした。
「すみません。急いでるので」
横を抜けようとしたところで、腕を掴まれた。
カヨナの目が細くなる。
振り払うだけなら簡単だった。
その気になれば三人まとめて床へ転がすこともできる。
けれど、しなかった。
相手は一般人だ。
戦う相手ではない。
「離してください」
「いいじゃん。ちょっとくらいさ」
掴む手に力が入る。
カヨナの笑みが消えた。
怪我をさせずにどう離れようか――ほんの一瞬、迷った時だった。
「貴様ら」
低い声が落ちた。
男たちが振り返る。
カヨナも顔を上げた。
そこには。
女性店員。
――いや。
ヒロが立っていた。
先ほどまでの妙に高い声も、間の抜けた表情も消えている。カヨナの腕を掴む手へ向けられた眼差しだけが、静かに鋭かった。
ヒロは男たちへ歩み寄る。
女性店員の格好のまま。
「うちの店員に何してくれてるんでいらっしゃいますか?」
「……は?」
男たちの顔から、一瞬だけ悪意が消えた。
文法も状況も、理解が追いつかなかったのだろう。
無理もない。
ヒロは笑った。
笑顔だけなら接客業らしい。
目は笑っていなかった。
「ワタシと遊ぼうよ」
三人の男たちは、この日初めて。
声を掛ける相手を間違えたことに気づいた。
◇
数分後。
百貨店屋上。
初夏の風が、三人の男を揺らしていた。
右へ。
左へ。
また右へ。
「た、助けてぇぇぇぇ!!」
三人とも、逆さ吊りである。
額には油性マジックで、大きく力強く。
『ナンパ失敗男』
カヨナは文字を見た。
次に、女性店員姿のヒロを見る。
もう一度、文字を見る。
「それって、筋肉さんも……」
何か言おうとして――やめた。
ヒロは満足そうに腕を組んだ。
「これで良し」
何が良いのかは分からない。
たぶん聞いても分からない。
それでもカヨナは小さく笑ってから、きちんと頭を下げた。
「ありがとうございます」
「気にするな」
「でも」
カヨナは顔を上げた。
「それとこれと話は別ですよ?」
また特務隊へ来いと言われる。
そう思って、先に釘を刺した。
ヒロは頷く。
「そうか」
「……え?」
それだけだった。
ヒロは踵を返すと、そのまま屋上の出口へ歩き始めた。
説得しない。
食い下がらない。
振り返りもしない。
先ほどまであれほど必死に追いかけてきた大きな背中が、何の未練もないように扉へ近づいていく。
カヨナは、その背中を目で追っていた。
扉に手が掛かる。
「ま、待って!」
声が出た。
ヒロが振り返る。
「何だ?」
「少しくらい……」
そこで言葉に詰まった。
自分でも、どうして呼び止めたのか分からない。
「話を聞いてくれーとか、ないんですか!?」
「いや?」
「……」
「話は別なんだろう?」
「そうですけど……」
「それじゃ」
ヒロは片手を上げ、今度こそ扉の向こうへ消えた。
カヨナはしばらく、その閉じた扉を見つめていた。
風が黒髪を揺らす。
やがて。
「……着替えないで行っちゃった」
小さく吹き出した。
「面白い人だなぁ……」
何度断ってもやって来る。
プレゼントを山ほど持ってきて、シャワールームへ侵入して、尾行して、女装して。
なのに。
断れば、帰る。
変な人。
本当に、変な人だった。
カヨナは夕暮れの街へ目を向けた。
旅を始めてから、いくつもの土地を歩いてきた。この街も、その途中に立ち寄った場所の一つに過ぎない。
まだ見たいものがある。
まだ知らない場所もある。
「……そろそろ、違う土地へ行こうかな」
そう呟いて、歩き出す。
屋上の出口へ向かって数歩。
そこで足を止めた。
振り返る。
ヒロが消えた扉は、もう閉じている。
カヨナは何も言わなかった。
ただ少しだけ、その扉を見つめてから。
再び歩き出した。




