第十六茶番 筋肉式求愛法
待たじとて 心とどむる 夕暮れに
風の音にも 君かとぞ思ふ
待つまいと思って、そういう心を抑えている夕暮れなのに、風の音がするだけでも、あなたが来たのかと思ってしまう
感情保安庁警察部――特務隊詰所、筆頭室。
開け放たれた窓から、若葉の匂いを含んだ初夏の風が入り込んでいた。感情素子の供給を受けた室内設備は静かな駆動音を響かせ、机の上に積まれた書類の端だけが、風に持ち上げられては戻っていく。
鳥の声。遠くから聞こえる隊員たちの掛け声。
どこにでもありそうな、穏やかな午後だった。
その中心で、特務隊筆頭ヒロ・アシハラは、一冊の雑誌を恐ろしいほど真剣な顔で読み込んでいた。
「んん……」
ページをめくる。眉間には深い皺。まるで重大事件の捜査資料にでも目を通しているような表情で、視線が紙面の上をゆっくりと動いていく。
「しかしなぁ……。やはり、あの臀部……」
指が止まった。
初夏の風だけが、何も知らずに部屋を通り抜けていく。
「……いや」
一度目を閉じ、何かを振り払うように首を振る。
「あの太も――」
「もとい!!」
バンッ!!
机を叩く音が、穏やかだった午後を真っ二つにした。書類が跳ね、窓辺にいた小鳥まで驚いたように飛び立っていく。ヒロは両手を机につき、真剣そのものの顔で言い直した。
「あの戦力は、是非とも特務隊に必要だ」
誰も聞いていない。
だが、本人は大真面目だった。
問題の雑誌は、机の中央に堂々と置かれている。
『筋肉やろうぜ!!――夏のナンパテク増刊号』
「なるほど」
ヒロは何度か頷き、誌面を指でなぞった。
「つまり、女性はプレゼントを貰うと喜ぶ」
そして、深く頷く。
「合理的だ」
何が合理的なのか。
残念ながら、この部屋に正してくれる者はいなかった。
そして、雑誌を閉じた。
「よし。作戦開始だ」
判断まで、僅か三秒。
人は時として、考える時間を長く取った方がよい場合がある。
残念ながら、ヒロ・アシハラという男の筋肉に、その機能は搭載されていなかった。
◇
夕方。
特務隊詰所内の一般開放ジムは、仕事帰りの利用者で賑わい始めていた。人々の営みから社会へ還流した感情素子を受け、空調が籠もった熱気を静かに逃がしていく。トレーニング機器の表示盤が淡く明滅する中、バーベルの金属音と規則正しい呼吸があちらこちらで重なっていた。
その一角で、カヨナはいつものようにダンベルを持ち上げていた。
呼吸を整え、肩の位置を確かめながら、ゆっくり下ろす。額には薄く汗が浮かんでいる。それでも表情は楽しそうだった。
もっとも、頭の片隅には少しだけ、あの日出会った男のことが残っていた。
――また会えるかな。
そんなことを考えた自分に気づき、カヨナは小さく首を振る。
筋トレに集中。
そう言い聞かせ、もう一度ダンベルを持ち上げた。
「受け取れ」
「うわっ!」
聞き覚えのある低い声に肩が跳ねた。勢いよく振り返る。
いた。
ヒロだった。
それだけなら、ほんの僅かに。本当にほんの僅かに、嬉しかったのかもしれない。
しかし、両腕に抱えられている物を見た瞬間、その感情は綺麗に行き場を失った。
巨大な容器。
業務用と見紛うほどの――プロテイン。
ヒロが差し出す。
「……え?」
「女性は甘いものが好きらしい」
「はい?」
「チョコ味だ」
「……」
カヨナは容器を見た。ヒロを見た。もう一度、容器を見る。
冗談ではないらしい。
「プロテインを、お菓子扱いしないでください」
「そうか」
ヒロは一度だけ頷いた。
理解したらしい。
カヨナが少し安心する。
「なら次だ」
安心するのが早かった。
「次って何ですか!?」
出てきたのは、妙に高級感のある黒い箱だった。中には丁寧に折り畳まれたリストラップ。
「手首を保護できる。良い物だ」
「持ってます」
「そうか。なら次だ」
「まだあるんですか!?」
次は高級トレーニングベルト。
「腰を守れる。良い物だ」
「それも持ってます!」
「そうか。なら――」
「無限に出てくるんですか!?」
カヨナの声がジムへ響き渡り、周囲の利用者が一斉に振り返った。
少し離れた場所でバーベルを置いた隊員が、プロテイン、リストラップ、トレーニングベルト、そしてなお背後へ手を回そうとしている自分たちの筆頭を眺める。
――何やってんだ、あの人。
夕暮れのジムに、答えを知る者はいなかった。
◇
翌日。
「受け取れ」
「……また始まった」
今度は二十キロのダンベル。左右一組。
カヨナはしばらくそれを見つめてから、ゆっくりヒロへ顔を向けた。
「持ち歩いてきたんですか!?」
「車だ」
「そういう問題じゃありません!」
ヒロは首を傾げた。本当に分かっていないらしい。
カヨナは額を押さえ、大きく息を吐く。
呆れている。
間違いなく呆れている。
なのに。
今日も来たんだ。
そう思った自分がおかしくて、口元にはほんの僅かに笑みが残った。
◇
さらに翌日。
いた。
飽きもせず、当然のように今日もいた。
カヨナはもう驚かなかった。ヒロの姿を見つけると、警戒するように目を細める。
「今日は何ですか」
「受け取れ」
「だから何をですか」
ヒロが無言で指を差した。
ジムの隅。
そこに置かれていたのは――ベンチプレス台。
「……」
カヨナはベンチ台を見る。ヒロを見る。もう一度見る。
理解には、少々時間が必要だった。
ヒロはベンチ台へ歩み寄り、背もたれを軽く叩く。
「俺のお気に入りだ。お前にやろう」
「ジムの備品ですよね!?」
「そうだ」
「駄目ですよね!?」
「そうか」
あっさり納得した。
「もう……!」
カヨナの肩から力が抜ける。
プロテイン。
リストラップ。
トレーニングベルト。
ダンベル。
そして、ついに公共の備品。
この男はどこまで行くのだろう。
その答えは、翌日に出た。
◇
トレーニングを終えたカヨナは、シャワールームで一日の汗を流していた。
数日続いた筋肉さんの奇行も、今日はない。
プロテイン。
リストラップ。
トレーニングベルト。
二十キロのダンベル。
挙げ句の果てには、ジムの備品であるベンチプレス台。
思い返してみれば、ろくなものがない。
「今日は来なかったなぁ……」
シャワーの音に紛れるように、ぽつり。
別に。
待っていたわけではない。
ただ、毎日のように現れていた大きな男が来ないと、それはそれで少しだけ――。
「ちょうど良かった」
「……え?」
聞き覚えのある低い声。
しかも。
近い。
ものすごく近い。
カヨナの動きが止まった。
この数日間で学んだことがある。
この男が「ちょうど良かった」と言う時、こちらにとって都合が良かったことは一度もない。
恐る恐る振り返る。
――いた。
――シャワールームに。
――ヒロ・アシハラが。
カヨナの視線が、ゆっくりとスポーツウェアへ落ちる。
次にヒロ。
もう一度、スポーツウェア。
これまでとは違う。
プロテインでもない。リストラップでもない。ベルトでも、ダンベルでも、公共の備品でもない。
服。
ヒロはまったく悪びれる様子もなく、手に持っていた衣類を差し出した。
「着替えとして、このスポーツウェアをプレゼントしたい」
ついにこの男も、女性へのプレゼントというものを少しは理解した――。
わけではなかった。
カヨナは今、トレーニングを終えたばかりである。
そして目の前にいる男は、その着替えを渡そうとしている。
何故。
今。
ここで。
その事実へ辿り着いた瞬間、カヨナの頬から血の気が引いた。
次の瞬間。
耳まで真っ赤に染まる。
「きゃあああああああああああ!!」
絶叫が響き渡った。
「何でいるんですかぁぁぁぁぁ!!」
絶叫がジムを貫いた。
利用者たちが一斉に振り返る。
ヒロが目を見開く。
「どうした?」
その一言が、最後の一押しになった。
「『どうした?』じゃないでしょおおおおお!!」
カヨナが踏み込む。
羞恥も混乱も怒りも、その全部を置き去りにするほど身体は速かった。軸足が床を捉え、腰が回り、しなやかな身体が一本の鞭のように連動する。
「場所を考えてくださいぃぃぃぃぃ!!」
「この筋肉馬鹿ぁぁぁぁぁぁ!!」
神速のハイキック。
鞭のような脚が、ヒロの顎を正確に捉えた。
ドゴォッ!!
体重百三十八キロを超える筋肉の塊が冗談のように床から浮き、そのまま一直線に壁へ叩き込まれる。
ジムから音が消えた。
バーベルを握っていた利用者も、トレーニング機器の前にいた隊員も動かない。
やがて。
壁へめり込んだ男の口が動いた。
「見事だ……」
首が、がくりと落ちた。
完全KO。
カヨナは肩で息をしながら、真っ赤な顔でヒロを睨んでいる。
少し離れた場所では、この数日間の一部始終を見届けてきた隊員が、壁に埋まった自分たちの筆頭を眺めていた。
やがて何かを悟り切ったような遠い目で、窓の外を見る。
初夏の空は青い。
若葉は風に揺れ、今日も感情素子文明は何事もなかったように動いている。
「今日も平和だなぁ……」
彼の呟きだけが、惨状とは無関係な空へ静かに吸い込まれていった。
こうして。
第一回カヨナ・ワダツミ特務隊スカウト作戦は――。
本人の意識とともに、盛大に失敗した。




