第十五茶番 また会えたら
「居合……ロマンですね」
カヨナは、どこか夢を見るように呟いた。
先ほどまで料理を追いかけていた黒い瞳は、今やまだ見ぬ剣技へ向けられている。鞘を走り、一瞬で敵を斬る――実際に見たことはなくとも、その響きだけで胸が躍るらしい。
ヒロは何も言わず、グラスを傾けた。
海神近衛兵団をなぜ辞めたのか。筆頭にまで上り詰めた女が、なぜ今は一人で旅をしているのか。問いかけようと思えば、いくらでも問いかけられた。
けれど、聞かなかった。
何かあったことくらい、何となく分かる。
ならば、言いたくなった時に本人が話せばいい。閉じている扉を、わざわざ外から開ける必要などない。
カヨナも、そんなヒロの横顔をそっと見つめていた。
何も聞かれない。
それが、不思議と心地よかった。
今日初めて会ったばかりなのに、ずっと前から知っていたような――そんな奇妙な懐かしささえ、胸のどこかにある。
二人はそれ以上言葉を交わすことなく、店主の威勢のいい声や客たちの笑い声、皿と箸が触れ合う音が重なる夕凪の夜へ、しばらく身を預けていた。
その穏やかな時間を――。
「きゃああああ!!」
悲鳴が切り裂いた。
「逃げろーーー!!」
「堕転者だ!!」
カヨナの箸と、ヒロのグラスが同時に卓へ戻る。
立ち上がった二人の視線が重なったのは、ほんの一瞬だった。
言葉はいらない。
次の瞬間には、二人とも夕凪の暖簾を跳ね上げていた。
◇
悲鳴は近い。
逃げてくる人々の流れに逆らって路地を駆け、角を曲がった瞬間、カヨナの表情が変わった。
いた。
路地の中央で、人の形を辛うじて残した巨体を黒い感情素子が覆っている。
感情素子回路の異常によって制御を失った粒子は肉体の輪郭を越えて溢れ、濁流のように全身を這っていた。その影響を受けたのか、頭上の街灯まで不規則に明滅を繰り返している。
堕転者。
巨大な腕が振るわれた。
屋台が吹き飛び、砕けた木片と食器が夜空へ舞う。逃げ遅れた子供を母親が抱き寄せ、近くにいた男が老人の背を押しながら路地の奥へ逃がしていた。
「下がれ!」
ヒロが人々と堕転者の間へ入る。
先ほどまで夕凪で酒を飲んでいた男の姿は、もうそこにはない。
右手が背中の大太刀――祢々切丸の柄を握った。
「ここは俺に任せろ」
抜刀。
「終わりだ」
大太刀を振り下ろす。
凄まじい風圧が路地を走り、カヨナの黒髪を巻き上げた。
しかし。
何も斬れなかった。
「……?」
堕転者が首を傾げた。
ヒロも首を傾げた。
「……ん?」
ゆっくりと手元を見る。
鍔。
その先。
――刀身がない。
「あ」
ヒロは思い出した。
「手入れに出していたんだった」
直後、堕転者の拳が顔面へ突き刺さった。
「ぐぉっ!?」
巨体が宙を舞い、民家の壁をぶち抜く。
「筋肉さんーーー!!」
土煙の中へカヨナが駆け寄ろうとしたところで、瓦礫の奥から太い腕が一本突き出した。
「いてて……」
「いててじゃないですよ!!」
埃まみれのヒロが立ち上がる。
無事を確認したカヨナは胸を撫で下ろしたものの、すぐさま眉間へ皺を寄せた。
「何で刀身がないことに気づかなかったんですか!?」
「さっきの勝負で、だいぶ筋肉を追い込んだ」
「……はい?」
「刃が無くても重く感じた」
「……」
「何か問題でもあるか?」
ある。
ありすぎる。
だが、どこから指摘すればいいのか分からない。
カヨナの口元が震えた。
「あはっ……」
堪えようとしたらしい。
無理だった。
「あははははっ!」
腹を抱え、目尻に涙まで浮かべて笑い始める。
「てっきり……ビームの剣とか出てくるのかと思っちゃいました!」
「……?」
「あははっ! 筋肉さんみたいな人、海にはいませんでした!」
ヒロは本気で何がおかしいのか分からない顔をしている。
それが余計に可笑しくて、カヨナはもう一度声を上げて笑った。
やがて、その笑いが静かに収まっていく。
目尻の涙を指先で拭い、ひとつ息を吐くと、肩から余計な力が抜けた。呼吸が深く、静かに整い、先ほどまで笑いに揺れていた黒い瞳には、目の前の脅威だけを見据える研ぎ澄まされた光が宿る。
ヒロの目が細くなった。
夕凪で聞いた肩書きが、ようやく目の前の女と重なる。
元・海神近衛兵団。
特別海兵隊筆頭。
「ここは、アタシに任せて下さい」
カヨナは腰から二本のコンバットナイフを抜いた。
半身になって重心を落とし、踵を僅かに浮かせる。二本の刃を握る手に力みはなく、いつでも前へ出られるよう、身体全体が静かに均衡を取っていた。
そして堕転者を見つめる。
「早く助けないとね……」
その言葉を聞いたヒロが、ふと二本の刃へ視線を落とした。
目つきが変わる。
「待て、カヨナ!」
「ん?」
「そのナイフには感情素子受信チップがついていないだろ! それじゃ倒せない!!」
カヨナは手元の刃を一度だけ見た。
「大丈夫だよ!」
振り返る。
にっこりと笑った。
「見ててね!」
再び前を向き、堕転者へ歩き出す。
まるで暴れる獣へ近づくのではなく、怯えている誰かを迎えに行くように。
「大丈夫だからね……」
堕転者が咆哮した。
巨大な腕が振り上げられ、空気を押し潰しながら落ちてくる。カヨナはその場からすぐには動かず、拳が届く寸前まで軌道を見定めると、膝を柔らかく沈めて身体を斜め前へ滑らせた。
轟音とともに背後の路面が砕ける。
すでにカヨナは懐へ入っていた。
右の刃が脇腹を走る。
黒い表皮が裂け、そのまま振り抜いた勢いを腰へ逃がすと、左足を軸に身体を返して一気に間合いの外へ抜けた。
「速い……」
ヒロが呟く。
堕転者の脇腹には確かに切創が残っていた。
だが、すぐに黒い感情素子が傷口へ這い寄っていく。溢れていた粒子が肉体へ吸い戻されるように集まり、裂けた箇所を覆うと、傷は見る間に塞がっていった。
物理的には斬れている。
それでも、異常化した感情素子回路そのものには届いていない。
「カヨナ! 普通の刃じゃ――」
「うん!」
聞こえている。
それでもカヨナは止まらなかった。
堕転者が振り返りざまに腕を薙ぐ。カヨナは上体を反らすだけでその下を潜り、左の刃で手首を浅く斬りながら横へ抜けた。
傷は、また塞がる。
けれどカヨナは焦らない。
追いすがる腕を紙一重で避けながら相手の視線を自分へ集め、逃げる住民とは反対側へ少しずつ誘導していく。堕転者が右から薙げば左へ潜り、振り向くより早く背後へ回る。追いつこうと踏み込んだ巨体の重心が前へ崩れた瞬間には、その肩を右のナイフで浅く払い、左の刃を脇へ走らせながら死角へ抜けていた。
二本の刃が、別々には動いていない。
右が相手の意識を奪えば、左が空いた場所へ入る。左で軌道をずらせば、その動きが次の右へ繋がる。
足、腰、体幹、肩、そして刃。
すべてが途切れることなく連動していた。
ヒロは黙って、その動きを追う。
夕凪で見抜いたものは間違っていなかった。
いや。
想像以上だ。
堕転者が苛立ったように吼え、両腕を振り回しながら突進した。
カヨナは正面から迎えない。
地面を蹴って壁際へ走り、その勢いのまま民家の壁へ片足をついた。膝を深く沈めて衝撃を溜め、迫る巨体を一瞬だけ見つめる。
蹴った。
身体が宙へ放たれる。
海を渡る風に翼を預け、波間すれすれを舞う燕のように、黒いポニーテールが夜の街を駆け抜けた。
堕転者の腕が追う。
カヨナは空中で身体を捻り、その外側を抜けると、着地と同時にさらに踏み込んだ。速度を殺さぬまま一刀目が胴を斜めに走り、身体を返した勢いをそのまま二刀目へ繋げる。
二つの刃が交差した。
カヨナは数歩先へ着地し、静かに腰を落とす。
堕転者の動きが止まった。
先ほどまでなら、すぐに黒い感情素子が傷へ集まった。
だが。
今度は違った。
「……?」
ヒロの目が見開かれる。
黒い粒子が傷口へ戻らない。
肉体の表面を激しく這っていた流れそのものが乱れ、全身を覆っていた黒い感情素子が輪郭から剥がれるように薄れていく。
ヒロはカヨナの手元を見る。
受信チップはない。
間違いなく。
それなのに――。
堕転者の巨体が揺らいだ。
肥大していた輪郭が縮み、黒い感情素子が消えていくにつれて、その奥から一人の男の姿が戻ってくる。
膝が落ちた。
倒れかけた身体へ、カヨナが駆け寄る。
ナイフを捨てるように地面へ置き、男の肩を抱いてゆっくりと横たえた。
「大丈夫?」
返事はない。
けれど呼吸はある。
胸が上下していることを確かめた瞬間、戦士の顔がほどけた。
「よかった……」
そこに、勝利の高揚はなかった。
ただ一人。
助けられたことへの安堵だけがあった。
◇
「意識あり!」
駆けつけた感情保安庁の医療部隊が、すぐに男の容態を確認する。
「感情素子濃度、低下! 安定しています!」
「回路反応も正常域へ復帰!」
その声を聞いて、カヨナはようやく立ち上がった。
地面から二本のコンバットナイフを拾い、刃を眺めながら小さく息を吐く。
「やっぱり……瑞鶴と翔鶴の方が使いやすいなぁ……」
長く自分と一緒に戦ってきた二本の小太刀。
今の刃は、その代わりにはならないらしい。
「なるほど」
ヒロが歩み寄ってくる。
カヨナが振り返ると、ヒロは腕を組んで何度か頷いた。
「筋肉の付き方に納得した」
「だから筋肉なんですね!?」
思わずツッコミが飛ぶ。
先ほどまでの戦士は、もういなかった。
だがヒロは見ていた。
あの速さも、技量も、判断力も。
そして何より。
『早く助けないとね……』
堕転者を前にして、最初に出てきた言葉を。
「近く」
「はい?」
「感情保安庁の採用試験がある」
カヨナが首を傾げた。
「……はい?」
「受けろ」
迷いはなかった。
カヨナにも。
「嫌です」
「……」
「……」
ヒロは一度だけ頷いた。
「あ、そう」
踵を返した。
「えっ!?」
本当に歩いていく。
「ちょっ……ちょっと待ってよー!」
ヒロが振り返る。
「何だ?」
「いや、何だじゃなくて! 他に何か言うことないの!?」
少しだけ考えた。
「無い」
「……」
「嫌なんだろう?」
正論だった。
感情保安庁へ入るつもりなどない。旅は始まったばかりで、まだ見たいものも、知らないものもたくさんある。
断ったのは自分だ。
なのに、あまりにも簡単に話を終わらせられると妙に腹が立つ。
「もういいか?」
ヒロが夕凪の暖簾へ視線を向ける。
「食いかけのだまこときりたんぽが、ふやける」
そして、ひどく真剣な顔で付け加えた。
「もったいないだろう」
「……」
カヨナの口元が引きつった。
「もう知らない!!」
「そうか」
本当に帰った。
暖簾の向こうへ、あっさり消えていった。
「……何なの、あの人」
カヨナはしばらく、その暖簾を睨んでいた。
意味の分からない人だった。
強引なのかと思えば、断れば追わない。人の過去へは踏み込んでこないくせに、筋肉のことになると遠慮というものを知らない。
本当に、今まで出会ったことのない人だった。
それなのに。
不思議と、嫌ではなかった。
夜風が路地を抜け、黒いポニーテールをふわりと揺らす。
夕凪の暖簾の向こうから店主や客たちの笑い声が聞こえ、その中には、何やらきりたんぽのことで騒いでいるヒロの低い声まで混ざっていた。
カヨナの頬が、少しだけ緩んだ。
また、あのジムへ行けば。
ふと、そんな考えが浮かぶ。
別に。
あの男に会うためではない。
筋トレだ。
そう。
筋トレ。
「……また会えるかな」
誰に聞かせるでもない小さな声が、夜風へ溶けていった。
返事はない。
ただ、夕凪の暖簾だけが静かに揺れている。
また会えたらいいな。
名前をつけるには、まだ少し早い。
この日のカヨナに必要だったのは、ただそれだけだった。
――第一章・完――




