2-1 100年前の朝
夢ではない。
アルスは鏡の前で立ち尽くしていた。
鏡に映るのは、まだ幼さの残る十五歳の少年。
透き通るような銀色の髪。
青い瞳。
戦場を駆け、何万人もの命を背負ってきた王の面影はどこにもない。
「……本当に、戻ったのか。」
自分の頬に触れる。
若い肌の感触。
震える手。
すべてが現実だった。
百年前。
世界が滅ぶ、すべての始まり。
コンコン、と扉がノックされる。
「アルス様、お着替えのお時間です。」
侍女の声だった。
「……ああ。」
返事をした瞬間、胸が締めつけられる。
この声。
忘れるはずがない。
扉を開けると、一人の少女が深く頭を下げた。
「おはようございます。」
栗色の髪を肩まで伸ばした、小柄な侍女。
名前はリナ。
アルスが王になってからも長く仕えてくれた女性だ。
しかし、未来では。
(リナは十七歳のとき、帝国軍の襲撃で命を落とした。)
あの日、王子だった自分は何もできなかった。
助けを呼ぶことも。
剣を握ることも。
ただ燃える屋敷を見つめるしかなかった。
「アルス様?」
「……いや、何でもない。」
目の前のリナは元気そうに笑っている。
まだ生きている。
それだけで胸が熱くなった。
「今日は学院の入学式ですよ。遅刻すると王妃様に叱られます。」
「学院……。」
そうだ。
今日は王立学院の入学式。
ここからすべてが始まった。
未来では、この学院で出会った仲間たちとともに数え切れない戦いを経験した。
そして、その多くを失った。
アルスは静かに目を閉じる。
(今度は誰一人死なせない。)
それが不可能に近い願いだとしても。
必ず。
必ず未来を変える。
◇
着替えを終え、廊下へ出る。
窓から差し込む朝日が城内を照らしていた。
何もかも懐かしい。
赤い絨毯。
壁に飾られた歴代国王の肖像画。
兵士たちの若い顔。
全員、生きている。
百年後には誰一人残っていない人々だった。
「アルス。」
聞き覚えのある低い声。
廊下の先に立っていたのは、一人の壮年の男だった。
黒髪を短く整え、堂々とした体格。
王家の紋章が刻まれたマントを羽織っている。
現国王。
そしてアルスの父。
レオン・レインハルト。
「父上……。」
思わず声が漏れた。
未来では十年以上前に戦死した父。
最後に交わした言葉は。
『逃げろ、アルス。王はお前だ。』
それだけだった。
目の前にいる父は、まだ四十代。
力強い笑みを浮かべている。
「どうした? 緊張しているのか。」
「……え?」
「今日は入学式だ。肩の力を抜け。」
レオンは豪快に笑う。
その笑い声すら懐かしい。
アルスは思わず目を伏せた。
「……父上。」
「ん?」
「お元気そうで……安心しました。」
レオンは不思議そうな顔をしたあと、大きく笑った。
「何だそれは。朝から変なやつだな。」
そう言って肩を叩く。
その温もりに、アルスは言葉を失った。
(守る。)
父も。
リナも。
国民も。
誰一人失わせない。
そのためなら、何度死んでも構わない。
◇
食堂には王妃と妹が待っていた。
食卓には焼きたてのパン、卵料理、温かなスープが並ぶ。
この光景も、百年ぶりだった。
「お兄様、おはようございます!」
元気よく手を振る少女。
妹のエリシア。
未来では病で命を落としたはずの妹が、目の前で笑っている。
「……おはよう。」
「今日は元気ないですね?」
「少し寝不足だっただけだ。」
そう答えながら席に着く。
温かなスープを口に運ぶ。
その味だけで胸がいっぱいになった。
(こんな朝食を食べるのも百年ぶりか。)
王になってからは、戦争や政務に追われ、家族全員で食卓を囲むことはほとんどなかった。
だからこそ、この何気ない時間が何より尊い。
しかし、その穏やかな空気は一人の兵士によって破られる。
食堂の扉が勢いよく開いた。
「失礼します!」
兵士は膝をつき、国王へ報告する。
「北部国境にて魔物の群れを確認! 現在、騎士団が迎撃に向かっております!」
その言葉を聞いた瞬間。
アルスの表情が変わった。
(北部……今日だったのか。)
未来の記憶が鮮明によみがえる。
この小さな事件は、後に王国を揺るがす大事件へとつながっていく。
そして、この時点では誰も――父でさえ、その本当の意味を知らなかった。
食堂に重い沈黙が流れた。
「被害は?」
国王レオンが落ち着いた声で尋ねる。
「現時点では巡回兵二名が負傷。村への被害は確認されておりません。」
「分かった。騎士団長にも伝えろ。住民の避難を最優先とし、決して深追いはするな。」
「はっ!」
兵士は敬礼すると、足早に食堂を後にした。
再び静けさが戻る。
しかしアルスだけは、食事どころではなかった。
(違う……。)
兵士の報告では、ただの魔物の群れ。
だがアルスは知っている。
この群れは囮だった。
本命は別にいる。
この事件の三日後、北部の鉱山で大規模な崩落事故が起こる。
多くの鉱夫が命を落とし、王国の鉄鉱石の供給は激減。その影響で武器の生産が遅れ、十年後の戦争で王国は大きな不利を背負うことになる。
当時は誰も関連性に気づかなかった。
だが、王となったアルスは後に機密資料を読み、その崩落が「偶然ではなかった」ことを知る。
(今なら……防げる。)
だが、問題があった。
十五歳の王子が突然「三日後に鉱山が崩れます」と言って、誰が信じるだろうか。
未来を知っているなどと言えば、正気を疑われるだけだ。
「アルス。」
父の声で我に返る。
「学院へ行く準備をしなさい。」
「……はい。」
返事はしたものの、心は揺れていた。
歴史を変えるべきか。
それとも、まずは様子を見るべきか。
前世の百年間で学んだことがある。
未来を変えれば、その先も変わる。
一つの選択が、予想もしない結果を生む。
良い方向へ転ぶこともあれば、最悪の結末になることもある。
慎重にならなければならない。
◇
学院へ向かう馬車は、王都の大通りをゆっくりと進んでいた。
窓の外には活気あふれる市場が広がる。
パン屋の前には焼きたての香りが漂い、商人たちが威勢よく客を呼び込んでいる。
子どもたちは笑いながら走り回り、旅人たちは大きな荷物を背負って歩いていた。
平和だ。
百年後には、この街は跡形もなく焼け落ちる。
その光景を知っているアルスには、この日常があまりにも眩しかった。
「……必ず守る。」
誰にも聞こえないほど小さくつぶやく。
その時だった。
馬車が急停止する。
「どうした。」
御者が外を確認する。
「申し訳ありません! 子どもが飛び出してきました!」
アルスは反射的に馬車を飛び降りた。
道の真ん中で、小さな男の子が泣いている。
荷車が勢いよく近づいていた。
「危ない!」
アルスは駆け出し、男の子を抱えて転がる。
直後、荷車が目の前を通り過ぎた。
「坊や、大丈夫か?」
「う、うん……。」
母親らしき女性が駆け寄り、何度も頭を下げる。
「ありがとうございます! 本当にありがとうございました!」
「気にしないでください。」
アルスは笑って立ち上がる。
その瞬間、胸に妙な違和感が走った。
(……あれ?)
この出来事。
前の人生には、なかった。
確かこの時間、自分は何事もなく学院へ向かっていたはずだ。
つまり――。
(もう歴史が変わり始めている。)
たった一つの行動。
それだけで未来は変化する。
アルスは改めて、この力の重さを実感した。
◇
やがて王立学院の正門が見えてきた。
白い石造りの巨大な校舎。
噴水のある中庭。
新入生たちの笑い声。
懐かしさと緊張が入り混じる。
ここで、多くの仲間と出会った。
剣術の天才。
後に宮廷魔導師となる少女。
生涯の親友。
そして――裏切り者も。
(今度は見逃さない。)
学院の門をくぐろうとした、その時。
一人の黒いローブ姿の人物が、人混みの向こうに立っていた。
フードを深くかぶり、顔は見えない。
アルスの心臓が大きく脈打つ。
(まさか……。)
王城で自分を殺した、あの人物。
そう思った瞬間、ローブの人物はゆっくりとこちらへ視線を向けた。
そして、小さく口元をゆがめる。
笑ったように見えた。
次の瞬間には、人混みの中へ消えていた。
「……待て!」
アルスは思わず駆け出す。
だが、人混みを抜けた先には誰もいなかった。
残っていたのは、石畳の上に一枚だけ落ちていた黒い羽根。
アルスはそれを拾い上げる。
冷たい。
まるで氷のような感触だった。
「王子殿下?」
学院の教師が不思議そうに声をかける。
アルスは羽根を握りしめ、静かに前を向いた。
(この世界には、俺以外にも何かを知っている者がいる。)
その確信だけが、胸に残っていた。
こうして、アルス・レインハルトの二度目の人生――そして、世界の運命を変える戦いが、本当の意味で幕を開けた。




