2-32 束の間の平穏
第二章
焔帝編
第三十二話
夜だった。
焚き火が揺れている。
北の禁域を離れた一行は山中で野営していた。
静かな夜だった。
セレスは眠っている。
アベルも珍しく休んでいた。
だが。
グラムだけは起きていた。
剣を振っている。
一人で。
何百回も。
何千回も。
ただ。
黙々と。
ノアは少し離れた場所から見ていた。
「寝ないのか」
声を掛ける。
グラムは剣を止めない。
「眠れん」
即答だった。
珍しい。
グラムらしくない。
ノアは近付く。
焚き火の光が揺れる。
グラムの額には汗が滲んでいた。
「師匠のことか」
剣が止まる。
ほんの一瞬だけ。
「まあな」
小さな声。
再び振る。
風を裂く音。
重い。
一振り一振りが。
「強いと思っていた」
グラムが言う。
「誰よりも」
静かな声。
「追い付けないと思っていた」
ノアは黙って聞く。
「だが」
グラムが空を見る。
星空。
遠く。
遥か遠く。
「疲れていた」
静寂。
アベルの顔を思い出している。
あの笑顔。
あの後悔。
二十年間。
一人で戦い続けた男。
「俺は何を見ていたんだろうな」
小さな声だった。
ノアは答えない。
答えられない。
その時だった。
グラムが笑った。
いつものように。
少しだけ。
「安心した」
ノアが眉をひそめる。
「何がだ」
「人間だった」
静寂。
グラムは剣を肩へ担ぐ。
「師匠も」
「セレスも」
「俺も」
風が吹く。
「英雄なんて呼ばれてるが」
「中身は変わらん」
少し笑う。
「悩むし」
「迷うし」
「後悔もする」
ノアは思い出す。
ベルグで敗北を認めたグラム。
セレスの涙。
アベルの後悔。
確かにそうだった。
英雄だから特別なのではない。
苦しみながらも前へ進むから。
英雄なのだ。
その時。
アベルの声がした。
「ようやく気付いたか」
振り返る。
アベルが立っていた。
いつから聞いていたのか。
少し笑っている。
グラムが顔をしかめる。
「盗み聞きか」
「全部聞こえていた」
「最悪だな」
アベルが笑う。
そして。
ゆっくり近付いてくる。
「グラム」
静かな声。
グラムが顔を上げる。
アベルは弟子を見る。
真っ直ぐに。
「お前は何故焔帝と呼ばれる」
突然だった。
グラムが眉をひそめる。
「炎を使うからだろ」
アベルは首を横に振る。
「違う」
静寂。
「お前は勘違いしている」
風が吹く。
「炎は力だ」
「だが」
アベルの目が細くなる。
「焔は意志だ」
グラムが黙る。
アベルは続ける。
「何度消えそうになっても」
「燃え続ける」
静かな声。
「だから焔だ」
焚き火が揺れる。
小さな火。
それでも。
消えない。
アベルは笑った。
「お前は昔からそうだった」
静寂。
「折れない」
「諦めない」
「馬鹿みたいにな」
グラムが吹き出す。
「褒めてるのか」
「半分な」
二人が笑う。
ノアは見ていた。
師弟だった。
本当に。
強さじゃない。
技術でもない。
受け継がれているものがある。
その時だった。
境界が反応する。
ノアの視界が揺れる。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
見えた。
北の空。
遥か彼方。
黒い影。
そして。
その向こう。
巨大な何か。
まるで世界を見下ろすような存在。
だが。
次の瞬間には消える。
ノアは目を細める。
何だったのか。
分からない。
ただ。
確かなことが一つ。
観測者も。
あの青年も。
いつか必ず。
再び現れる。
焚き火が揺れる。
グラムが笑う。
アベルも。
セレスも。
今だけは。
穏やかな夜だった。
だが。
誰も知らない。
この平穏が。
長くは続かないことを。




