2-9 案内人
第二章
焔帝編
第九話
誰も動かなかった。
帝都の屋上。
夜風だけが吹いている。
案内人と名乗った男は穏やかに笑っていた。
グラムの手は剣に掛かっている。
いつでも斬れる。
距離も十分。
だが。
抜かない。
いや。
抜けなかった。
男から敵意を感じない。
それなのに。
本能が警告している。
近付くなと。
「聖女はどこだ」
グラムが聞く。
男は答える。
「生きています」
「どこだと聞いている」
「その答えを知りたいなら来てください」
静かな声。
グラムの眉が動く。
ノアは男を観察していた。
服装。
呼吸。
視線。
立ち方。
全部見る。
だが。
分からない。
まるで霧だった。
そこにいるのに。
何も掴めない。
「お前は誰だ」
ノアが聞く。
男は少し考える。
そして。
「名前はありません」
と答えた。
「役割しかない」
「案内人です」
意味が分からない。
だが。
本人は本気だった。
冗談を言っているようには見えない。
「どこの組織だ」
ノアが続ける。
男は微笑む。
「組織ではありません」
「では何だ」
静寂。
男は夜空を見上げた。
そして。
小さく呟く。
「残り六人」
グラムの目が細くなる。
ノアも聞き逃さなかった。
「何の話だ」
男は答えない。
代わりに。
一枚の紙を差し出した。
古い羊皮紙だった。
ノアが受け取る。
そこには地図が描かれていた。
帝国。
共和国。
神聖国。
どれでもない。
見たことのない場所。
山脈。
渓谷。
そして。
中央に記されている一つの名前。
《境界の塔》
グラムが地図を見る。
表情が変わる。
初めてだった。
黒い影を見た時とも違う。
「おい」
静かな声。
「それをどこで見つけた」
男は笑う。
「知っているんですね」
グラムは答えない。
だが。
ノアは見逃さなかった。
動揺している。
世界最強が。
明らかに。
「何だ」
ノアが聞く。
グラムは数秒黙った。
そして。
ゆっくり口を開く。
「昔話だ」
「子供の頃に聞いた」
「英雄になる前か」
「ああ」
グラムは地図を見つめる。
「世界の果てにある塔」
「近付いた者は帰らない」
「ただの御伽噺だと思っていた」
案内人が微笑む。
「多くの人はそう思っています」
静寂。
ノアは地図を見る。
境界の塔。
黒い影。
選定。
セレス失踪。
全部が繋がっている気がした。
「セレスはそこにいるのか」
グラムが聞く。
男は頷く。
「います」
即答だった。
「なら行く」
グラムも即答した。
迷いがない。
案内人は笑う。
「そう言うと思いました」
ノアが聞く。
「罠ならどうする」
男は答える。
「罠です」
静寂。
グラムが吹き出した。
ノアは眉をひそめる。
「正直だな」
「隠す意味がありませんから」
男は本当にそう思っているらしい。
「では何故行くと思う」
案内人が聞く。
グラムは笑った。
「友達がいる」
それだけだった。
案内人は少し驚いた顔をした。
初めてだった。
感情らしい感情を見せたのは。
「なるほど」
小さく呟く。
「だから選ばれたのですね」
その言葉に。
ノアの目が細くなる。
「選ばれた?」
男はしまったという顔をした。
だが。
すぐに笑顔へ戻る。
「独り言です」
信用できない。
全く。
だが。
今は聞き出せそうにない。
案内人は踵を返す。
「明日の夜明け」
「北門で待っています」
そう言い残す。
次の瞬間。
消えた。
本当に。
煙のように。
跡形もなく。
グラムとノアだけが残される。
しばらく沈黙。
やがて。
ノアが口を開く。
「怪しいな」
「怪しい」
グラムが頷く。
「死ぬかもしれん」
「死ぬかもしれん」
また頷く。
「行くのか」
ノアが聞く。
グラムは笑った。
いつもの笑顔だった。
「当然だろ」
世界最強。
焔帝グラム。
その男は。
未知への恐怖より。
仲間を見捨てる方を恐れていた。
夜風が吹く。
帝都の灯りが揺れる。
そして。
運命の歯車が静かに回り始めていた。




