2-7 静かな夜
第二章
焔帝編
第七話
ベルグから戻った夜。
帝都ヴァルハイム。
珍しく雨が降っていた。
静かな夜だった。
黒い影の件は帝国軍上層部のみが知っている。
民衆はまだ知らない。
だが。
グラムは知っていた。
平和な時間は長くない。
帝都の外れ。
古びた酒場。
客は少ない。
グラムはカウンター席に座っていた。
既に三本目だった。
ノアは向かいに座る。
酒は飲まない。
グラムが笑う。
「人生損してるぞ」
「そうか」
「美味いぞ」
「興味ない」
「可愛くないな」
ノアは無視した。
グラムは楽しそうだった。
数時間前まで敗北を認めていた男とは思えない。
しばらく沈黙。
雨音だけが響く。
やがて。
グラムが呟いた。
「負けたな」
ノアは答えない。
グラムも返事を求めていない。
酒を飲む。
そして笑う。
「本当に負けた」
悔しそうだった。
だが。
どこか嬉しそうでもあった。
「嬉しそうだな」
ノアが言う。
グラムは笑った。
「少しな」
「理解できん」
「だろうな」
酒を飲む。
そして。
静かに言った。
「ずっと一人だった」
ノアが視線を向ける。
グラムは窓の外を見ていた。
雨を。
遠くの街灯を。
「勝ち続けると分かる」
静かな声。
「誰も追いついてこない」
「誰も本気で戦えない」
「誰も本音を言わない」
酒場の灯りが揺れる。
「皆」
「グラム様になる」
苦笑。
「つまらんぞ」
ノアは黙って聞いていた。
グラムがこんな話をするのは初めてだった。
「セレスは違う」
グラムが言う。
「あいつは強い」
「だが強さを求めていない」
「だから違う」
グラムはノアを見る。
「お前も違う」
「何がだ」
「お前は俺を見ている」
即答だった。
「英雄じゃない」
「焔帝じゃない」
「グラムを見ている」
静寂。
グラムは笑う。
「だから面白い」
ノアは少し考える。
そして聞いた。
「お前は何のために強くなった」
グラムは酒を見つめた。
数秒。
沈黙。
やがて。
答えた。
「死にたくなかった」
あまりにも単純だった。
ノアは黙る。
グラムは続ける。
「子供の頃な」
「弱かったんだ」
「笑うだろ」
「笑わん」
「だろうな」
グラムは笑う。
「戦争で村が燃えた」
「親も死んだ」
「友達も死んだ」
酒を飲む。
そして。
真っ直ぐ前を見る。
「だから思った」
「二度と奪われたくない」
「二度と失いたくない」
静かな声。
英雄の始まりだった。
国家でもない。
正義でもない。
復讐でもない。
ただ。
失いたくなかった。
それだけ。
「今は」
ノアが聞く。
グラムは少し考える。
そして笑った。
「変わらん」
即答だった。
「今も失いたくない」
窓の外。
帝都の灯り。
数百万の命。
「だから守る」
静寂。
雨音だけが響く。
やがて。
グラムが酒瓶を置いた。
そして。
珍しく真面目な顔になる。
「なあ」
ノアが見る。
「お前」
「世界から戦争をなくしたいんだろ」
「そうだ」
「じゃあ一つ教えてやる」
静寂。
グラムは窓の外を見たまま言う。
「人間はな」
「平和のためには戦わない」
ノアが眉をひそめる。
グラムは続けた。
「家族のために戦う」
「仲間のために戦う」
「守りたいもののために戦う」
「だから戦争はなくならん」
酒場が静まり返る。
ノアは黙る。
その言葉は。
英雄の言葉だった。
何百もの戦場を見てきた男の。
結論だった。
「じゃあ」
ノアが聞く。
「諦めるのか」
グラムは笑う。
「諦めん」
即答だった。
「なくせるならなくしてみろ」
「俺も見てみたい」
「戦争のない世界を」
風が吹く。
雨が弱くなる。
ノアはグラムを見る。
世界最強。
焔帝。
だが。
今目の前にいるのは。
ただの一人の男だった。
守りたいもののために戦い続けてきた。
一人の人間。
その時だった。
酒場の扉が勢いよく開いた。
帝国軍の伝令だった。
息を切らしている。
顔色が悪い。
異常なほど。
「グラム様!」
酒場の空気が変わる。
グラムが立ち上がる。
「どうした」
伝令は震える手で書簡を差し出した。
「神聖国から緊急報告です」
静寂。
グラムの表情が変わる。
ノアも伝令を見る。
伝令は唾を飲み込んだ。
そして。
震える声で言った。
「聖女セレス様が」
そこで言葉が詰まる。
酒場の誰もが息を呑んだ。
「消息不明になりました」
静寂。
グラムから笑みが消える。
ノアも動かない。
セレスが消える。
それが何を意味するのか。
二人とも理解していた。
雨上がりの夜。
世界が。
再び動き始める。




