4-32 存在とは何か
第四章
七賢者編
第三十二話
セレスの右手が、ゆっくりと白い世界へ溶けていく。
痛みはない。
恐怖もない。
ただ、自分という存在が少しずつ薄れていく感覚だけがあった。
認識者は静かに本を閉じる。
「認識されないものは存在しない。」
「それが世界の法則だ。」
セレスは消えかけた右手を見つめる。
「違う。」
認識者は首を横へ振る。
「人はそう思いたいだけだ。」
一歩近付く。
「歴史は記録されることで歴史になる。」
「名は呼ばれることで名になる。」
「存在は認識されることで存在になる。」
「だから。」
「認識されないものは最初から存在しない。」
白い世界が静まり返る。
セレスの肩まで輪郭が薄くなっていく。
魔力も感じない。
鼓動すら遠くなる。
「どうした。」
認識者が問う。
「反論しないのか。」
セレスは静かに笑った。
「反論できない。」
「あなたの理屈は完成してる。」
認識者は頷く。
「当然だ。」
「私は何千年も世界を観測してきた。」
「人は認識できないものを理解できない。」
「理解できないものは存在しない。」
「それが文明の限界だ。」
セレスは俯いた。
認識者の言葉には矛盾が見当たらない。
能力も。
思想も。
完成されている。
だからこそ。
「……悔しい。」
小さく呟く。
「あなたの方が正しい。」
認識者は本を閉じる。
「正しいのではない。」
「事実だ。」
その言葉を聞いた瞬間。
セレスはゆっくり目を閉じた。
事実。
情報。
認識。
その三つの言葉が頭の中で何度も巡る。
そして。
一つだけ。
どうしても説明できないことが残っていた。
「認識者。」
小さく口を開く。
「一つだけ教えて。」
「何だ。」
「あなたが生まれる前の世界は。」
「存在してなかったの?」
白い世界が止まる。
認識者は初めて言葉を選んだ。
「……存在していた。」
「誰にも認識されていなくても?」
「存在していた。」
セレスは静かに笑う。
「じゃあ。」
「存在は。」
「認識より先にある。」
認識者は首を横へ振る。
「違う。」
「それは推論だ。」
「証明できない。」
セレスは頷く。
「そうね。」
「まだ証明できない。」
「でも。」
「証明できないことと、存在しないことは違う。」
認識者は黙った。
論破されたわけではない。
だが。
初めて。
自分の思想の外側から投げ掛けられた問いだった。
長い沈黙。
やがて認識者は本を開く。
「なら。」
静かな声。
「証明してみろ。」
「お前という存在が消える前にな。」
白い世界が再び動き出す。
セレスの身体は、さらに透け始めていた。




