二章 第12話:朝に宿りし良き綴り
【1】
――今日も良き綴りを。
大書院に関わる全ての人間にとって、お決まりの言葉。
朝の始まりに、何かの区切りに、意味はいつしか抜け落ち、それでも自然と口にされる言葉。
しかし今は。
「――っ!!!」
考えるより先に、アマネは外へと駆け出していた。
防寒着も忘れ、違和感だけが身体を突き動かす。
背後でキリヤの声がした気がしたが、振り返る余裕はない。
いや、振り返れば、この違和感が消えてしまう気がした。
雪を蹴り、白い街路を一直線に駆け抜ける。
冷たい空気が肺を裂くように入り込み、足がもつれそうになりながら。
確かめなければならない。
今はそれだけが、全てだった。
⸻
【2】
宿の扉を押し開ける。
暖炉の火。木の匂い。変わらない温もり。
昨日と同じ空間。昨日と同じ配置。
そして――ひとりだけ、女性が立っていた。
朝は見れなかったが、やはり見覚えのない顔。
おそらく今回の宿の主人が、柔らかな笑みをアマネへ向けた。
「あらお客さん、どうされ――」
その言葉が終わる前に、荒い息のままアマネは踏み込む。
「あなたは、誰?」
唐突な問いに、女性は一瞬だけ目を瞬かせ、それでもすぐに笑みを戻して答える。
「誰って……ここ私の宿ですけど」
アマネはゆっくりと一歩、距離を詰める。
獲物を逃がさないように。確かめるように。感覚を研ぎ澄ませて。
そして――
「――今日も良き綴りを」
その言葉を口に出した途端、空気が歪んだ。
目に見えない何かが軋み、空間そのものがひび割れるように揺れる。
女性の輪郭が崩れ始める。
肌が剥がれ、形がずれて重なり、別の何かへと書き換えられていく。
ニヤッ、と口元だけが異様に広がる。
人の形を保ったままの影。
中身が別の存在へと置き換わったような、不気味な笑み。
次の瞬間、懐からナイフを引き抜き、躊躇なくアマネへと踏み込んできた。
速い。
だが。
――遅すぎる。
アマネの手はすでに動いていた。
ブレードを掴み、沈むように踏み込み、振り抜く。
問いも躊躇も一切存在しない。
刃が走り、肉を裂く感触。
血飛沫が弧を描く。
歪んだその身体は崩れ落ち、床に叩きつけられるように転がった。
それは、もはや人ではなかった。
黒く、濁り、形を保てないまま揺らぐ“何か”。
静寂が空気を侵食する。
暖炉の火だけが、変わらず揺れていた。
そしてアマネの中で、最悪の確信が静かに結ばれた。
⸻
【3】
斬り伏せた手応えは確かに残っている。
頬と手に付いた血が生温かい。鉄の臭い。
それが逆に、何か触れてはいけないものに触れてしまったような感覚を広げていく。
アマネは崩れ落ちた“ソレ”を見下ろしながら、その異形を前にして、思考が一つずつ繋がっていく。
――あの言葉に反応した。
「今日も良き綴りを」
ただの挨拶ではなく、これは条件。引き金だ。
仕組まれた何かであり、それを満たした瞬間に、隠されていたものが表層へと浮かび上がった。
この宿の主人は、人ではない。
毎朝同じ言葉を受け取り、同じ振る舞いを返す為の――固定された何か。
この街にある、変わらないもの。
――毎回同じ残響。
この宿。ここだけが変わっていない。
ならば。
理解をしたくない。受け入れたくない。
それでも――脳裏に浮かぶ顔。
カズヤ。オルフェン。キリヤ。
一瞬、アマネの呼吸が止まる。
(……違ってほしい)
そう思いたかったが、否定が追いつかない。
なぜあの三人は、毎回同じようにそこにいるのか。
なぜ、変わらないのか。
なぜ、それを疑わなかったのか。
世界は変わり続けているのに。
変わってしまう昨日の中で、自分だけが変わらないはずだった。
しかし彼らは同じように、そこにいてくれた。
そんなはずはないのに、そういうものなんだろうと思い込んでいた。
答えはあまりにも単純で、あまりにも受け入れ難い形で浮かび上がる。
この歪んだ時間を成立させる側。
それがある限り、この世界を毎回同じ形へと引き戻す“特異点”。
この境界に入った時点で、誰も気づかない内に、“それ”にされていたのだ。
つまり探していたものはもっと近くに。ずっと、すぐそばに。
――最初から、そこにあった。
⸻
【4】
扉が、勢いよく開かれた。
冷たい外気が一気に流れ込み、揺れていた暖炉の火が大きく歪む。
「アマネ!!」
カズヤの声。
その背後に、オルフェンとキリヤの姿。
三人の視線が一斉に室内へと流れ込み、そして――床に転がる惨状を捉える。
血。
黒く濁った影のような死骸。
崩れきらず、なお微かに揺らぎ続けている“何か”。
空気が一瞬で変わる。
「どうしたんだ、これ……」
カズヤの声は低く、理解が追いつかないまま絞り出されたもの。
しかしアマネの中では、既に全てが繋がっていた。
ゆっくりと、カズヤ達の方へと振り返る。
その目には、もう先ほどまでの迷いを残していない。
ただ、その視線はどこか遠く。
三人の存在を捉えながらも、この構造を、そしてその奥にいる“敵”を見ている。
「特異点は――」
雪は、変わらず降り続いている。
だがアマネにとって、世界の見え方はもう変わり果てていた。
静かに、核心が落とされる。
「特異点は、私達だったんだよ」




