二章 第10話:時に沈む空白の少女
【1】
朝。
静けさの中で、アマネはゆっくりと目を覚ました。
重かった身体が、不思議なほど軽い。
胸の奥にあったはずの圧迫感も、どこかへ消えている。
しばらく天井を見つめたまま、ぼんやりと。
――終わったんだ。
昨夜の光景が、遅れて浮かび上がる。
空に浮かんでいた巨大な結晶を、砕いたこと。
崩れていく光、元に戻った空。
意識が鮮明になっていくのと同時に、昨日の出来事がはっきりと思い出せた。
ベッドから起き上がり、ゆっくりと足を下ろす。
冷たい床の感触が、やけに現実的だった。
そのまま窓へと歩み寄って、カーテンを開ける。
光が差し込むと同時に――眼が止まった。
降り続ける雪の中で空を横切る、猫の群れ。
宿の前にあった服飾店は、今は何もない砂浜。
街を満たす、あの奇妙を煮詰めたような混ざり合い。
何も、なんにも変わっていない。
「……あれ?」
思考が止まり、理解が追いつかなかった。
コン、コン。
扉を叩く音。反射的に身体が強張る。
来る。嫌でも分かる。来ないでほしい。言わないでほしい。
「おはようございます。今日も良き綴りを」
――ああ。最悪だ。
聞こえてきた同い年くらいの少女の声は明るく、
何の疑いも曇りもなく、ただ当たり前の朝を告げてくれた。
ゆっくり扉を開け、少女と顔を合わせる。
「……おはよう、ございます……」
自分の声なのに、自分のものではないように遠く聞こえた。
⸻
【2】
宿の一階へ降りる。
暖炉の火が揺れ、木の匂いが漂い、紅茶の香りが静かに満ちていた。
そして、そこに広がる光景はあまりにも見覚えがあった。
カズヤが少し嬉しそうに紅茶を啜り、オルフェンがモニターに視線を落とし、キリヤが静かにパンを齧っている。
カズヤが気づいて声をかけてくれる。
「お! アマネ、おはよう」
何一つ変わっていないのが、何よりも重かった。
椅子に座る。
言わなければならないと分かっているのに、喉が鳴らない。
それでも、無理やり言葉を引きずり出す。
「……昨日……ね」
三人の視線が集まる。
「私達……全部解決できた……」
暖炉の音だけが耳に焼き付く。
その数秒が、やけに長く感じられた。
オルフェンがゆっくりと瞬きをし、あっさりと頷いた。
「なるほど。
――つまり僕らは、また失敗したわけだ」
アマネは頷くこともできず、ただ視線を落とすしかなかった。
カズヤが眉を寄せる。
「どういう……ことだ?」
キリヤが静かに口を開く。
「そういうことですか。
“特異点”と思われるものを突き止め、対処し、正常になるはずだった。
しかし再び昨日が変わった、ということですね」
「………??」
理解が追いつかないカズヤをよそに、オルフェンは顎に手を当てる。
「詳しく、情報をくれるかい?」
暗い表情のまま、アマネは昨日の出来事を話し連ねた。
フードの人物。巨大な雪の結晶。
オルフェンの観測により、それが“偽物の綴り”であったこと。
カズヤと協力して、結晶を砕いたこと。
砕いた後、残響は全て消え、都市の姿が元に戻ったこと。
「……それでもダメだった、と」
指を口元に寄せるオルフェン。明らかに表情が曇る。
(そんなミスするかな……? 僕がだよ?)
疑問はほんの一瞬だけ浮かび、そしてすぐに切り替える。
「まいいや。なら、もっと細かく確かめるしかないね」
アマネが顔を上げる。
「細かく?」
「時間が無かったんだろう?
じゃあ今日はじっくり、色々と見せてもらおう」
⸻
【2】
夜、時計塔の頂。
容赦ない寒さの中、四人は無言のままその時を待っていた。
時間は23時半。
空気が、わずかに変わる。
「……来た」
アマネの声と同時に、それは現れた。
フードの人物。
昨日とまったく同じ場所、同じ姿勢、同じ沈黙で。
まるで時間ごと固定された存在のように、そこに“在る”。
カズヤが刺すように睨む。
「あいつか。フードの奴」
オルフェンは動かず、ただ観測機を向ける。
「さあさあ、情報を集めてくれたまえ」
「なんで偉そうに……」
カズヤが剣を抜き、躊躇なく踏み込む。
戦いは、昨日と同じだった。
刃はすり抜け、手応えはなく、攻撃は意味を持たない。
その間に、オルフェン達はデータの収集と推測を進める。
だが、ある瞬間だけ。
――シュッ!
触れた。わずかに。
その瞬間フードの人物は崩れ、音もなく霧散した。
そして昨日の再現。
空が歪み、現れたのは巨大な雪の結晶。
キリヤが時計を確認した。
「日跨ぎまで、残り二十分です」
アマネの声が漏れる。
「やっぱり……昨日と同じ。
きっと壊しても、意味ないよ……」
オルフェンは眼前の情報と己の思考に集中していた。
(……観測結果を否定する理由がない)
理論は正しい。そして、今得た観測結果も正しい。
フードの人物は残響で、現れた雪の結晶は“綴り”の偽物。
観測は正しい。自らが設計した装置だから当然だ。
アトラシアで行われている“世界の観測”を発展させ、維持し続けている自負。
これまで、この精度で結論そのものを誤ったことはない。
なのに、昨日の自分は間違った。
であれば――全て正しいなら、導き出される結論はもはや一つ。
「足りない」
三人がオルフェンの方を見る。
「全部正しい。でも必要な要素が揃ってない。
どれだけ正しく組み立てても――間違った結論にしかならない」
キリヤがすぐに反応する。
「手遅れということですか」
「残念ながらね」
その言葉と共に、アマネの膝が崩れた。
カズヤが慌てて支える。
「アマネ!!」
「……そんな……」
オルフェンの目は、珍しく笑っていない。
「あのフードの人物か――ここに至るまでの何か。
どこかに重大な“見落とし”があるのかな。
あざ笑われてるようで、腹立たしいね」
時は待ってくれない。容赦無く刻まれていく。
(疑念が無ければ、そもそも疑問に成らない……か)
オルフェンは諭すように、暗い顔をしているアマネへ言葉を託す。
「アマネ・チャペック」
「はい……?」
「もう一度、朝から夜まで全てを見直すんだ。
――全てを疑うのが、次にやるべきことだよ」
「……全て、を……」
そうして世界は、白く揺らぎ。
昨日がまた変わった。
朝の始まり、アマネは目を覚ます。
⸻
【3】
木製の天井。目を開くと、必ずそれが見える。
うんざりする気持ちに呑まれないよう、無理やりにでも気持ちを前に向ける。
「全てを疑う……」
自分に言い聞かせるように、言葉を口に出した。
(一度、全部変えてみよう)
コンコン。
いつものだ。扉越しに、宿の誰かが起こしに来る声。
「おはよーございます。お客さーん?」
あえて返事をしない。
急いで身支度を行い、簡素な書き置きだけ残し、二階の窓から宿の外へと飛び出した。
『ひとりで調べてみます』
どうせ失敗する。
また同じ説明をするのも嫌だった。
なら、カズヤも筆聖達にも頼らず、自分だけでやってみよう。
⸻
【4】
――結論から言うと、 やっぱり上手くはいかなかった。
独りで街を巡り、夜は時計塔でフードの人物と相対する。
正体を暴くのが鍵なのではと、フードを剥がして顔を見ようとしたが、触れられない。
あるタイミングで攻撃は当たり、空に時計が現れるが、何もできない。
失敗。
次の日も、また独りで行動。今度はフードの人物と対話しようとする。
しかし何を語りかけても、何の反応もない。
失敗。
目に見える残響を覚えながらも、片っ端から消していく。
失敗。
キリヤさんと一緒に観測する。
発想を変え、街の人にも協力してもらい、観測量を増やしてみた。
しかしそこまでやると、今度は覚えきる方が無理だった。
何度か試したけど、失敗。
カズヤと一緒に行動する。
周りを避難させた上で、思い切ってふたりで時計塔を壊すことも試してみた。
結局、フードの人物が現れないだけだった。
キリヤさんは唖然としていて、筆聖は笑っていた。失敗。
筆聖と二人だけで行動するのはなんだか嫌だったから避けた。
失敗。
失敗。
失敗。
失敗。
失敗。失敗。失敗。失敗。失敗。失敗。失敗。失敗。失敗。失敗。
失敗。
失敗。
――疲れた。
⸻
【5】
もう何度目かも分からない、いつもの朝。
同じ光。同じ音。同じ雪。違うのは、自分の中だけ。
いつになったら――終わらせられるのだろう。
ノックが鳴る前に部屋の扉を開けた。
「おはようございます、良き綴りを」
女性の声が聞こえてきたが、顔も見れなかった。
「おはようございます」
感情が抜けた挨拶だけを残して、一階へと降りた。
「……アマネ……お前、大丈夫か……?」
カズヤの声が、どこか遠くに聞こえる。
「酷い顔ですよ」
キリヤさんの話も、上手く受け取れない。
じっと様子を見ていた筆聖。
「君さ……昨日が変わって、今何回目?」
「……分かりません……もう……」
もはや数えることすら、意味を失っていた。
私は逃げるように席を立ち、何も言わず二階の部屋へ戻った。
扉を閉め、背を預け、そのままずるずると座り込んで動けなくなる。
「はぁ……………」
外の気配も声も、全てが遠い。
――コン、コン。
しばらくすると、窓を叩く音がした。
顔を上げると、窓の外には氷の花が咲いていた。
窓を開けて外を見る。
足元から伸びた細い氷の花の傍に、キリヤさんの姿。
「少しお話が」
雪肌の視線だけが、まっすぐこちらを捉えていた。




