二章 第2話:分岐の風、草原の残り香
【1】
時は少し戻り。
風が、草原をゆっくりと撫でていた。
そこはアークティア――エルダレンの集落。
その中心にある集会所には、重い空気が満ちていた。
円形に並べられた席の中央に、キリヤが立っている。
彼女の声は抑えられていたが、言葉は明瞭だった。
「――以上です。
ということで、カズヤさんとアマネさんをお借りします」
アトラシア筆聖からの要請。
首都グレイシオンで起きている異常。
そして、カズヤとアマネだけを呼んでいるという事実。
説明が終わると、空気が止まったように静まる。
誰もすぐには言葉を出さず、風の音だけが、隙間から入り込んでくる。
最初に口を開いたのはノエラだった。
腕を組んだまま椅子にもたれ、鋭い視線をキリヤへ向ける。
「信じられないわね。筆聖の秘書さん。
カズヤくんもアマネちゃんも、大書院から追われてる身のはずよ。
どうぞと預けるのは無理ね」
言葉は冷静。現実に基づいた判断。
だが、キリヤは動じなかった。
「もし本当に彼らの捕縛が目的なら、今ここには私以外の部隊が構えていると思いませんか?」
ノエラは即座に返す。
「そうね。でもそれはアタシ達の目を欺く為。
アトラシアで捕縛しない、なんて保証にはならないわ」
「説明をお聞きになられましたか?
アトラシアでは非常事態が発生しています。余裕も、捕縛する理由もありません。
信用してもらう為に、わざわざここまで来たのですが」
「保証になってないわ。
利用するだけして、片が付いたらあとは自分達に都合良く進める。
大書院がよくやることよ」
互いに相容れず、沈黙が重く落ちる。
その沈黙を破ったのは――カズヤだった。
「……一応、行く理由はある」
全員の視線が集まる。
カズヤは少しだけ肩をすくめながら続けた。
「ほっとけねえってのもあるけどさ。
――筆聖が、アマネのことを知ってるっつってた」
厳しい表情のまま、ノエラの眉が動く。
「知ってる?」
「アマネの残響を取り戻す為の情報、持ってるってよ。
本当か分かんねえけど……正直、手掛かりは欲しい。
今このまま異常を解決していくだけじゃ、何も変わんねえ気がしてさ……」
空気がわずかに変わる。
アマネの残響――それは誰もが、心の奥で気にかけていた問題だった。
カズヤはキリヤを指差す。
「それにな。このキリヤって人、嘘言ってる感じでもねえ」
キリヤは淡々とその言葉に乗った。
「はい、嘘はつけないタイプです」
ノエラが半目になる。
(ほんとかしら……)
疑念が顔に出ていたが、やがて長く長く息を吐いた。
アマネが関わっている世界の異常。
解決には自分達以外の何かが必要だと、ノエラも薄々察していた。
――たとえリスクを犯したとしても。
「はあ……。
引っ掛かることしかないけど、アナタがそこまで言うならまあ良いわ」
完全に納得したわけではないが、止める理由は薄まった。
その瞬間、張り詰めていた空気が少しだけほどけた。
「うーん。うちらが付いていくの、ダメなんすか?」
カムイの声。
キリヤは迷わず答える。
「ダメです。
異常の性質上、関わる人数が増えれば増えるほど危険です」
ええ〜、とカムイは不服そうだったが、キリヤはキッパリ遮った。
じっと聞いていたアインが、椅子に深く座ったまま言う。
「んじゃ、そっちはお前らに任せて、俺らもやれることやろうぜ。
異常ってのは、他の大陸でも起きちまうんだろ?
先に調べとくのも悪かねえだろ」
“綴り”は単独ではなく、全てが繋がっている。
おそらく、残る他の綴りにも何らかの異常が起こるはず、というのがカムイの推測だった。
「あとはまぁ、メキースがいなくなっちまった分、他の連中と一緒に立て直さなきゃなんねえしな」
カズヤが顔を上げる。
「他にもメンバーがいんのか」
「おう。色んなとこにな。
とりあえずオルドニアに行こうぜ。ゼトのおっさんと合流だ」
導く者を喪っても、目指すものまで潰えたわけではない。
ただ形を変えただけだと、誰もが理解していた。
こうして道が分かれた。
アイン、カムイ、ノエラは交易の地・オルドニア大陸へ。
異常の先行調査と、断章の詩の立て直しを進める為に。
カズヤとアマネは、筆聖の秘書キリヤと共にアトラシア大陸へ。
“昨日が変わる”異常を解決し、アマネを救う手掛かりを求めて。
これは別れではない。
それぞれが進むべき場所へ向かうだけだ。
⸻
【2】
柔らかな光が、まぶたの裏を透かしていた。
遠くで風が草を揺らしている。
草原を渡るその音は、どこまでも穏やかで、戦いの終わった世界の静けさをゆっくりと運んできていた。
アマネはゆっくりと、目を開いた。
「……アマネ、大丈夫か?」
カズヤだった。
椅子に座り、腕を組んでこちらを見ている。
その顔には疲労の色が残っていたが、どこかほっとしたような表情でもあった。
アマネはゆっくりと体を起こして周りを見渡す。
自分が今どこにいるか、飲み込めていない様子だった。
「エルダレンの集落だよ。
お前、丸一日寝てたんだぜ」
「そう……なんだ……。
全部、終わったの?」
「ああ。色々あったけど、な」
カズヤはアマネへ、今に至るまでの全てを語った。
“感情の綴り”を修復し終えた後、アマネが倒れたこと。
《ソリスタの聖壁》での戦い、その一部始終。
蒼空の頂で行われた、メキースとヴァリウスの決戦。
“残響詩篇”同士の衝突で見たもの。
メキースが消え、そして遺されたもの。
そして、キリヤという女性が来て、これからアトラシアへ向かおうとしていること。
アマネはじっと、話を聞いていた。
カズヤは話を終えると、アマネを真っ直ぐ見据えた。
目を覚ましたら、必ず言いたいと思っていたこと。
「お前がいなかったら、多分皆、今ここにいなかったと思うぜ。
だから……ありがとな」
アマネが顔を伏せる。
「できることをやっただけだよ。
でも……そうだね。
みんなを助けられて、カズヤと無事にまた会えて……嬉しい」
胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
そして。
「メキースさんのこと……カズヤは平気?」
その言葉に、カズヤはただ視線を落とした。
「平気か、って聞かれると……どうだろうな。
正直まだ悲しいし、もっと話したかった。もっと一緒に戦ってみたかった」
ほんの少しだけ笑う。
「なんつーか……あの人に付いていけば、世界が本当に何か変わるんじゃねえかって思ってたんだ」
「うん、私も……同じこと感じてた」
カズヤは、傍に置いていた剣《イシュトリナ》に目をやる。
「でも、託されたんだ。俺達はさ。
あの人がやろうとしてたこと。ここで終わらせるわけにはいかねえ。
跡を継ぐとかじゃねえけど……この剣に恥じねえことをやっていくよ」
遺された想いは、ここに在る。
それだけで十分だった。
アマネも、見慣れぬ美しい剣に視線を落とす。
「……じゃあ私も、一緒にやれることをやる。
メキースさんが守ろうとしたものも、カズヤとみんなが進もうとしてる道も」
そしてアマネは真っ直ぐ、カズヤの眼を見た。
「私も一緒に、その世界を見たいから」
カズヤは少しだけ驚いた顔をしたが、やがて嬉しそうに笑った。
「――お前が一緒なら、やれそうな気がすんな」
外を巡る草原の風が、静かに吹き抜けていく。
誰かが遺した未来を運ぶように。
⸻
【3】
出立の日、エルダレンの集落の入口には、多くの人が集まっていた。
ミレイが駆け寄る。
「アマネさん、皆さん……」
次の瞬間、抱きついていた。声が震えて涙が止まらない。
「行っちゃうん……ですね」
アマネも抱きしめ、草色の髪を撫でた。
「ミレイちゃん……。
色々あったけど、ミレイちゃんが頑張ってくれたおかげで、みんな助かったんだよ。
本当にありがとう。だから――」
言葉はうまく出てこない。ただ涙だけが頬を伝う。
カムイも横で鼻をすすっていた。
「うぅ……寂しいっすぅ〜〜……」
三人で泣き、三人で笑う。
風が草を揺らし、その光景を包み込んでいた。
カズヤもミレイの前に立ち、手を差し出した。
「また、会いに来るからな」
ミレイは泣きながら頷き、強く握り返す。
「……はい! 会いたいです! 必ず!」
イーリスと渓谷の戦士達もまた、ノエラとアインへ声を掛けた。
「次に来た時は、我らの集落で歓迎しよう」
アインがははっと笑い、ノエラもまた微笑む。
「こりゃ、人生の楽しみが増えたな」
「今度はゆっくり、観光させてもらうからね」
エルダレンの族長が静かに頷き、
その傍でコンラド老人もまた、笑顔で見送る。
「近々、各部族を集めて、浮島で会合を開くつもりだ。
やることは山積みだが……今回の異変を糧に、我々は必ず前に進もう」
「感謝しておるぞ。
風は常にお前達と共にある。幸あれ、じゃあ!!!」
それは草原の民の祝福だった。
⸻
【4】
エルダレンの集落を出て、風艇へと乗り込んだ。
アイン達へ向けて、最後にカズヤとアマネが大きく手を振った。
「こっちが終わったら、すぐ行くからなー!」
「皆さん、お気をつけてー!」
アインが黙って手を振る。
カムイがぶんぶんぶんと手を振り、ノエラも優しく笑顔を送る。
「絶対、また会えるっすからね! 絶対っすよ!!」
「無事でいなさい。何かあったらアインを送り飛ばすから」
「あー。アインはいらねえ」
「おい!」
笑い声と共に風が吹き、彼らは草原から去ってゆく。
空は高い。
カズヤとアマネは、キリヤに導かれる。
新しい大地、白銀の国へ。未知の異常へ。
未来へ向かって、風が彼らの背中を押していた。




