二章 第1話:白銀に溶ける昨日
【1】
その日は、いつものように雪が降っていた。
いつものように、音のない朝だった。
首都グレイシオンの街路は白く覆われ、
建物の屋根も、石畳も、全てが淡い光を反射している。
人々はいつも通り歩き、店は開き、衛兵は巡回していた。
――はずだった。
「……あら?」
パン屋の前で、若い女が立ち尽くしていた。
扉の上に掲げられている看板。
そこに書かれている名前が、昨日と違っていた。
《ローデン製 パン屋》
女は首を傾げる。
「ここ……ミリアさんの店、だったよね……?」
後ろから別の男が答える。
「何言ってんだ? 昔からローデンだろ」
「ええ? でも……あれ……そうだったか、な……」
女は混乱する。
確かに昨日、ここでミリアという店主からパンを買った。
猫の話で盛り上がったはずだ。
だが看板は古めかしく、長い間変わっていないようにも見える。
周囲の人間は、誰も違和感を持っていない。
「……おぉ?」
別の通りでは、老人が家の前で立ち尽くしていた。
そこは自分の家ではなくなっていた。
扉の色、庭の形。なにより、中に見知らぬ人がいる。
「……ありゃ? 家を間違ったかね?」
広場では、警備兵が報告書を見て困惑していた。
「昨日の巡回記録……」
隣の警備兵が覗き込む。
「どうした?」
「書いてある内容が違うんだよ。
俺、北区を回ったはずなんだ。でも……」
「はぁ? というより、お前配達員じゃなかったっけ」
「は?」
警備兵たちは互いに顔をしかめた。
だがその困惑も、やがて曖昧に薄れていった。
確かに何かがおかしい。
しかし、何がおかしいのかが思い出せない。
――それは、昨日が変わってしまった最初の日。
それから何日も過ぎ。
繰り返される“昨日の消失”。
やがて人々は、元の歴史を思い出すことすら出来なくなり、それが当たり前へとなっていった。
⸻
【2】
光と雪の大地――アトラシア。
水平線の果てまで続く白。
凍てついた海の上に無数の氷塊が浮かび、その隙間を縫うようにして、淡い光が反射している。
空はどこまでも高く灰色で、雲は薄く、風は静かだった。
雪が、全ての音を吸い込んでいる。
「……寒いね」
「……寒いな」
アマネが小さく呟き、カズヤも震えながら同じことを言った。
白く揺れる、ふたりの吐いた息。
視界の先も白く覆われ、先にあるはずの陸地も見えない。
金の髪に雪肌の女性、キリヤが肩越しに答えた。
「さっさと中へ入りましょう。凍えますので」
三人が立っているのは、極寒の海に浮かぶ観測拠点だった。
海に突き立てるように作られた巨大な基台。
その上に、金属と石材で組まれた施設が建っている。
中央には、高く細い観測塔。
装飾はほとんどなく、エーテル観測の為だけに作られた建造物だ。
「こんなとこに筆聖がいんのか……?」
「いなかったら私が引っ叩きますので、ご安心を」
重い扉を開けて観測塔へ入り、冷えた鉄の階段を降りていくと、
やがて、複雑なエーテル紋が刻まれた扉の前に着いた。
「筆聖。キリヤです、入りますね」
「いいよー」
許可の声に応えるように、中へ入る。
そこは外から想像もつかない、世界から切り離された空間だった。
まるで図書館のような広い部屋。
エーテル観測に使用する多数の機具と共に、左右の壁には書架が並び、新しい本から古びた文献まで、無数の書物が詰まっている。
その中心に立っていた男は、想像よりずっと若かった。
黒と銀が混じる髪。淡い灰色の瞳。眼鏡。
長身・細身。筆聖を示す紋章の入った白銀の外套。
だが何より気を引くのは、纏う空気感だった。
世界から半歩だけ離れて立っているような、軽く奇妙な距離感。
男は数歩近づくと、カズヤとアマネを順番に観察した。
まるで展示品でも眺めるように。
「……へえ」
最初に発した言葉がそれだった。
「君が“災厄の外典”。思ったより普通だね」
労いや歓迎の言葉はなかった。
握手などもない。
カズヤの表情が警戒に染まり、キリヤが眉をひそめる。
「それ、失礼ですよ」
だが男は気にした様子もなく、視線をアマネに移した。
「……こっちは“世界の異物”」
小さく呟く失礼。ひたすらに興味だけを漂わせる。
「君がアマネ・チャペックだね。一度見てみたかったんだよ」
アマネも、小さく身構えた。
男はにこやかな顔でポンポンと、ふたりの肩を叩いた。
「初めまして。
アトラシアの筆聖――オルフェン・グラートだ。
よろしく頼むよ、ふたりとも♪」
あの日、唐突に「助けてくれ」と言ってきた張本人。
まるでそうは見えないが。
アトラシア大陸を統べる者――らしい。
⸻
【3】
オルフェンは前置きを一切せずに話し始めた。
「じゃ、さっそく本題に入ろうか」
カズヤがさらに目を細める。
「もっと色々あんじゃねえの?」
「時間がそんなに無くてね、余計な問答をしたくない。
どうせ親睦なんて嫌でも深まるよ」
「深める気ねえだろ」というカズヤのボヤきをまるで気にせず、オルフェンは続ける。
「今、この大陸で問題が起きている。
――“昨日が変わっている”んだよ」
無言。沈黙。
アマネが聞き返す。
「ここに来るまで、キリヤさんから少し聞きました。
でも……“昨日が変わっている”って、どういう意味なんですか?」
オルフェンは淡々と答えた。
「言葉通りだよ。
午前0時。日を跨ぐとね、昨日の出来事が別のものになる。
街の構造も、人の行動も、歴史も――全部、変わってるんだ」
カズヤもアマネも、ただただ黙って話を聞いている。
「一応、ある程度調べはついてて。
もう色々知ってるだろうから言うけど、この大陸にある“時の綴り”。
それが原因なのは間違いない」
カズヤが眉を寄せる。
「リムランドやアークティアと同じってことか……。
ってか、なんで俺らのこと知ってんだよ」
「君達が何をしてきたかなんて、ある程度把握できるさ。
僕は筆聖だからねー」
手のひらで転がされているかのような返答に、カズヤもアマネもむず痒い顔をした。
オルフェンが指で机を軽く叩くと、今度はキリヤが代わりに説明を始めた。
「もう一点、別の異常が出ています。
市民の残響が、現実に混じっています」
これもまた、すぐに飲み込めない説明。
ふたりは首を大きく傾げたが、キリヤは淡々と続ける。
「都市の至る所で、残響の異常な発露が確認されています。
説明しても理解できないでしょうから、実際にはその目で見るしかありませんが」
アマネの顔が不思議で溢れる。
「記憶がそのまま、現実に現れてる、ってことですか……?」
「そう言ってます。
というわけで――私達の美しい街は今、しっちゃかめっちゃかです」
(しっちゃかめっちゃか?)
アマネは聞かなかったことにした。
オルフェンは窓際へ歩き、指で外の白を示した。
白い海。その向こうに、霞む陸地。
「時間が無いのには理由があってさ……。
異常が発生してから、グレイシオンの周囲には“境界”ができてるんだ」
「境界?」
「ほら。雪で見にくいけど、うっすら見えるよ」
窓の向こうをピンと指す。
よく見ると、遠い先に、薄い光の壁のようなものが揺らいでいた。
巨大な雪の結晶のような、幾何学的な模様が空間を覆っている。
「都市を囲うようにして、エーテル位相が歪んでる。
その内側が異常領域。
昨日が変わるのも、残響が現実になるのも、全部そこが境界になってる」
机の上に積み上がった観測記録。
無造作に散らばった書物の数々。
都市のエーテル位相。残響の発生パターン。日跨ぎの瞬間の波形。
これらは、異常領域の外側で、
オルフェンとキリヤが調査し続けていたことを示していた。
「内側とは連絡取れないし、大書院も監査局も全部すっぽりあの中だ。
外からできる限り調べてはいるんだけど――時間切れなんだよね」
カズヤが顔を上げる。
「……どういうこった?」
オルフェンは窓の外、遠くの光の壁を再び見た。
「あの異常領域は、毎日拡大してる。
最初は都市の周囲だけだったけど、少しずつ郊外に伸びていってね。
もう、すぐそこまで来てるんだ」
キリヤが静かに続ける。
「拡大速度からして、この観測塔も明日には境界の内側に入ります。
アークティアへの往復で二週間と少し。
時間を使いましたが、ここまでは計算通りです」
オルフェンはくるりと振り返った。
眼鏡の奥の灰色の瞳が、わずかに楽しそうに細まる。
「つまり、外から観測する時間はもう終わり」
カズヤとアマネを見て、にやりと笑う。
「鍵は手に入った。
これからグレイシオンに入って、みんなで異常を紐解いていこうか」
そしてオルフェンは、アマネを真っ直ぐ指差す。
「君が、このアトラシアを救う鍵だよ。アマネ・チャペック」
その視線は、観測者のそれだった。
光と雪に包まれる静寂の中、物語がゆっくりと動き始める。
残響詩篇
第二章 〜 白銀に繰り返す昨日 〜 開幕




