一章 第26話:翠の風と災厄の風
【1】
《ソリスタの聖壁》の正面で激しい戦闘が始まっている、その裏側で――。
その下層、巨大な搬入口に人影が滑り込んでいた。
石と金属で組まれた扉の隙間。
本来なら資材を運び込むための、裏の通路。
進むのは、メキースとカズヤ。
そして数名の草原の戦士達。
内部は冷え切っていた。
壁の文様が薄く光り、風路の溝が遠くへ続く。
空の建造物は、地上よりも乾いた、無機の匂いがする。
それでも、時折、床下から微かな震動が走った。
正面突入したアイン達の戦いが、壁越しに響いている。
カズヤは奥歯を噛んだ。
(あいつ、派手にやってんな……)
陽動の音が、生きている。
だが――それとは別の“気配”が、天井の遥か上から降りてきていた。
メキースが足を止めずに呟く。
「ヴァリウス……何か始めたな」
「?……なんか、分かるのか」
カズヤが息を潜めて尋ねる。
メキースは天井の奥、さらにその奥を見上げた。
「この建物の、遥か上だ。
風とも違う。共鳴風とも、少し違う……。
仕組みまでは分からんが……感情を束ねる準備でも始めているのかもしれない」
カズヤは目を細めた。
「……統制、だっけか」
「うむ。
こちらが仕掛けた時点で、向こうも動くのは分かっていたが……時間はあまりなさそうだな」
メキースは剣の柄に指をかけた。
⸻
【2】
通路の先。
曲がり角を越えた瞬間、空気が変わった。
灯りが増え、影が切られ、足音が複数重なる。
待ち構えていたのは、聖壁の警備を担う戦士達だった。
浮島の部族《ファルティア》の兵。
そして、派遣された監査局の隊員。
戦闘を行える綴士達――彼らの目が“侵入者”を捉える。
「侵入者だ!」
「人数は少ない!各個撃――」
声が上がるよりも早く。
――メキースの剣が閃いた。
目が追いつかぬ圧倒的な速さと正確さ。
“気づけばそこにあった”と錯覚する速度。
刃は最短で喉元へ行けるのに、寸前で角度を変え、関節へ落ちる。
突きを受け流し、足を払う。
振り下ろされた刃の軌道を見切り、柄で顎を打つ。
鎧の継ぎ目だけを正確に叩き、呼吸を奪う。
血は最小限。
殺さず確実に、鮮やかに戦闘不能へと追い込む剣。
「……凄え」
思わず、カズヤが呟いた。
草原の戦士達も、思わず息を呑みながら後に続く。
派手さがないのに、目が離せない。
灰の塔で戦った筆聖、グレース・ユルスナール卿を思わせる剣技。
「本当に、筆聖くらい強えんだな……」
「いや」
メキースは淡々と返す。
「彼らのように“世界を動かす”ことはできない。
――私はただ、奪わせない為に剣を振るうだけだよ」
⸻
【3】
やがて、一行は大きな広間へと出た。
天井は高く、円形に広がる空間。
壁面には複雑な文様と風路が刻まれ、床には儀式用の紋が幾重にも絡んでいる。
空が覗く、儀式区画。
そしてそこに、待っていた者達がいた。
戦闘衣装に身を包んだ、ヴァリウスの弟子達。
そしてその中央に立つ、一人の男。
長い黒髪を束ねた、ファルティアの族長代理。
――ゲイル・ファルティア。
「来たか」
その声は静かで、敵意も怒りもないが、逃がす気もない。
その姿を見た瞬間、メキースの足が止まった。
「君は……ゲイル、だったかな」
「あなたが、メキースか」
「ほう、私の名を知ってくれているとは」
「師範から聞いている、何度もな」
ゲイルは静かに言った。
尊敬でも憎悪でもなく、
ただ師の語ったその“名”を、目の前の存在へ照合する冷たい確かさ。
メキースは、ふっと小さく笑う。
「……そうか。
弟子に昔話をするとはね。なんだか面白く感じてしまうな」
ゲイルは刀に手を添えたまま、淡々と告げる。
「会話は不要だ。ここから先へは行かせない」
ゲイルと共に、ヴァリウスの弟子達が一斉に構える。
⸻
【4】
その時だった。
「――メキースさん。先に行ってくれ」
カズヤが、一歩前に出た。
その言葉に、メキースが振り返る。
「良いのかい?」
「止めなきゃなんねえ友達がいる。
それがあんたの役目なんだろ?」
メキースは少し黙った後――ふっ、と微笑んだ。
「……君はやはり、厄介な優しさを持っているね」
剣を握り直し、前を向く。
「なら、ここは君に任せよう。
――上で待っているよ」
そう言って、
メキースは草原の戦士達を引き連れ、広間の奥へと駆け出した。
「止まれ!」
それを許すはずもなく、弟子達が一斉に反応した。
「行かせはしない……!」
ゲイルもまた、鞘に手をかけて阻止しようとした。
だがゲイルの一手を遮ったのは――カズヤだった。
「――ッ悪いな!!」
ゲイルの前に回り込んで、剣を薙いだ。
ゲイルはそれに瞬時に反応、鞘から武器を抜く。
美しく艶のある、風のような波紋を帯びた刀。
金属音が、乾いた空間に鋭く走った。
カズヤは刃を押し返しながら言い切る。
「あんたは行かせねえ!俺の相手してもらうぜ」
ゲイルの視線が、カズヤへ固定される。
「お前か。“災厄の風を宿す者”」
「へえ……知ってくれてて嬉しいぜ!」
⸻
【4】
広間には、二人の男が残された。
カズヤとゲイル。
互いの間合いだけが、互いの世界の中心となる。
――風が、低く鳴いた。
それはまだ、どちらにも味方していない。
だが、この戦いが終わる頃には必ず、何かが決まる。
カズヤが動こうとした、その一拍前。
ゲイルの姿が視界から消える。
(――速っ!!?)
抜刀の音すら、遅れて聞こえた。
カンッ!!
反射的に構えた剣に、衝撃が走る。
間一髪で受けた――はずだったが、刃はすでに、カズヤの腕を浅く裂いていた。
外套の端が、風に切り取られて宙を舞う。
「――っ!」
居合。
ヴァリウスがゲイルの才を見出し、長年に渡り教えを説いたもの。
踏み込み、抜刀、斬撃、納刀。
一連の動作が、ひと呼吸の中で美しく完結している。
(何だよ今の……!?見たことねえッ!
……斬られた感覚があとから来た)
ゲイルはもう構えを解いていた。
刀は静かに鞘へ戻され、呼吸も乱れていない。
淡々とした声音で、カズヤを評価する。
「お前は風に逆らおうとしている。それでは何も見えないだろう」
「はぁ?」
その言葉の真意を、カズヤは全く理解できなかった。
ゲイルの周囲で、翠の風が揺らめいた。空間の密度が変わる。
「〈翠風の残響〉をここに綴る――」
再び――抜刀が煌めく。
今度は正面から。刀が走り、風が遅れて追いつく。
カズヤは剣で防ぐ。
だが、防いだ“はず”の斬撃が、別の角度から次々と襲ってくる。
(――風……!?)
風が、意思を持った生き物のように集束する。
刃の軌道に沿って風が走り、斬撃をいくつも増幅・延長していた。
刀だけではない。
踏み込みも、体勢も、間合いすら――その全てが、風に最適化されている。
「……違え……」
カズヤの胸が重く鳴った。
圧倒的な差。技量だけじゃない。
風と一体化した戦い方。
ただ自身の周りの風を操るのとは、“格”が違う。
カズヤの見方がぐるりと変化する。
今目の前にいる相手は、ただ倒すべき対象ではない。
――自分が今目指すべき、到達点。
辿り着かねばならない場所。風と対話し、風と共に戦う者の姿。
カズヤは、歯を食いしばる。
(……ここにいる。
俺が目指さなきゃいけない“先”が……)
アマネの微笑み、ミレイの差し出してくれた手。
灰の塔で戦ったセイル、筆聖の姿。
そしてメキースとの会話が頭をよぎる。
フーッと大きく大きく、
澱みを全て吐き出すように息をして、剣を握り直す。
風の流れを、必死に感じ取ろうとする。
斬撃を追おうとしても、おそらく意味はない。
刃ではなく、風を見る。踏み込みではなく、その“兆し”を。
一瞬だけ――
ほんの一瞬だけ、風が見えた気がした。
(……来る!!)
ゲイルの抜刀と共に、三つに伸びた翠の流れ。
一つを避ける。一つを剣で受ける。
そして最後の一つは――逃げない。
風を纏い、風の芯へ踏み込む。
「――っ!!」
飛び込んだカズヤの刃と、ゲイルの刀が交わり、金属音が短く鳴った。
翠の風が唸り、カズヤの中の“まだ名もない災厄の風”が、それに抗う。
暴れるだけの風ではない。
今、カズヤは必死に――風を“読もう”としている。
勝敗はまだ遠いが、確かに一つは掴んだ。
――風は見える。感じ取れる。
ゲイルの声が落ちる。
「……良い風だ」
褒め言葉とも、宣告ともつかない一言。
それが次の一撃の合図だった。
翠が走る。
(――もっと見ろ。感じろ!
この先へ行くなら、今ここで、俺は掴まなきゃいけねえ)
風が鳴いた。
今度は、少し――カズヤの方で。




