一章 第25話:渓谷に捧げる赦しの炎
【1】
大書院の綴士が普段業務を行っている区画は、今まさに戦場と化していた。
戦いにより崩れかけた書架。
機材や端末の破片が床に転がり、ひび割れている。
エーテル灯は不規則に明滅し、
紙とインクと、焦げた風の臭いが混じり合っていた。
その中心で――
三人は、互いを挟むように戦っていた。
地を踏みしめるアイン。
天井近くを旋回するイーリス。
そして、そのどちらにも視線を外さない監査局の男――ジャン・ポール。
「立体的な連携……いいだろう」
眼鏡が鋭く光り、ジャンの拳が低く構え直される。
呼吸は乱れていないが、肩の上下がわずかに深くなっている。
「だが私には届かない。
合理的であるだけだ。上回る論理で砕けば良い」
言葉と同時に、床が爆ぜた。
ジャンには相変わらず無駄がない。
最短距離、最適動作。
アインの槍を真正面から砕きに行く論理の拳。
「調子に乗ってんじゃねぇぞ…眼鏡坊主!」
ジャンの攻撃に、アインは槍を引いて横へ跳ぶ。
着地と同時に火槍を薙ぎ、鋭くジャンを襲う。
槍と拳が床を穿ち、衝撃波が走る。
同時に――風が切り裂かれた。
「そこ!」
イーリスが急降下する。
蒼い翼が弧を描き、槍先がジャンの死角へと迫る。
だが見えずとも、ジャンには読めていた。
半身を捻り、拳を振るう。
イーリスの双刃槍と、拳が激突する。
ギィン――!!
金属と骨がぶつかる音。
「くっ……!」
踏ん張りが効かない分、耐えられなかったのはイーリスの方だった。
身体が空中で弾かれ、壁際へと跳ねた。
「空が優位であれば、降り立つ瞬間を狙うだけだ」
ジャンの声に、疲労は一切ない。
ただ、その額を伝う汗が、床に一滴落ちた。
アインは攻めの姿勢を緩めない。
「おらあぁっっ!!!」
火を纏った槍が、真正面から突き出される。
避けない。退かない。
ジャンは拳で受ける。
強い衝撃が走り、火花が舞う。
ジャンを逃がぬ勢いで、火の突きが立て続けに刺す。
「む……!!」
アインの連撃に差し込むように、
イーリスも空中から駆け抜け――翼を曲げ、軌道をずらした一撃。
タイミングが狂って揺らいだ隙に、
アインの槍がジャンを大きく押し返した。
ジャンの足が滑る。
「……やるな。連携の質が上がりつつある」
それは敵への敬意ですらあった。
⸻
【2】
連携は、もはや偶然ではなかった。
アインが前に出れば、イーリスは角度を変えて死角を作る。
イーリスが風を裂けば、アインは地を踏み、退路を断つ。
地と空。
互いの呼吸と踏み込みが噛み合い、
時にはずらし合い、攻撃の間が確実に短くなっていく。
ジャンは、その中心で捌き続けていた。
拳で受け、身でいなし、最短距離で反撃。
だが――
その動きに、わずかな“重さ”が混じり始めている。
「……ぬッ!?」
アインの槍を弾いた拳が、以前よりほんの僅かに遅れる。
イーリスがその隙を刺そうとする。
「――捉えた!」
翼を畳み、急角度で落ちる。
蒼い風が一直線に収束し、双刃槍がジャンの肩口を狙う。
だがジャンは、ギリィっと歯を食いしばった。
脚に思い切り力を入れて踏み込み、回転。
そして――向かってくるイーリスへの反撃の拳。
ドンッ!!と空気が爆ぜた。
論理の拳が、真正面からイーリスを捉えてしまった。
「――ゔっっっッ!!!!」
衝撃が、空間そのものを揺らした。
イーリスの身体は弾丸のように吹き飛び、背後の巨大な書架へと叩きつけられる。
ガァァァァァァン――
金属製の支柱が歪み、積み上げられていた記録束が宙を舞う。
耐えきれなくなった書架が、悲鳴のような音を立てて崩れ落ちた。
床が震え、紙片と封蝋と破片が、雪のように降り注ぐ。
エーテル灯が激しく明滅し、業務区画の一角が崩落した。
「やべえ………!大丈夫かっ!!!!」
アインが慌てて叫んだ。
ジャンもまた、静かに呼吸を整えていた。
拳を下ろした腕が、ほんの一瞬震える。
額から滴る汗が、床に落ちる。
「……空と地。
確かに厄介な組み合わせだが、それでも我が拳には敵わない」
紙片が舞う中で、イーリスは片膝をついていた。
息がしづらい。何かを吐きそうになる。
翼の輪郭が、わずかに乱れている。
今も拳がめり込んでいるような、鈍い痛みが残る。
だが――倒れない。
鋭さを失わないその目に浮かぶは、渓谷の誇りそのもの。
⸻
【3】
イーリスが痛みを飲み込み、震える膝を抑え。
槍を支えに立ち上がろうとした時。
――ばさり。
衝撃で崩れた書架の奥。散乱した文書の束。
何かが、床に落ちる音。
その中の数枚が、イーリスの足元で風に捲れた。
それは大書院の公式様式。
当時の筆聖印章。補助筆の署名。
――改竄の余地がない、正式記録。
イーリスの視線が、自然とそこへ吸い寄せられた。
『共鳴風実験・第三段階
感情増幅および長距離伝播試験』
『目的:
複数感情の同時束化による感情安定性の検証。
ならびに外縁地域への影響測定』
『事故発生時の感情流入先:渓谷地帯』
『理由:地形的閉鎖性が高く、かつ政治的発言力が低い為、情報統制が容易』
――渓谷。
イーリスの喉が、ひくりと鳴る。
『制御不能に陥った場合、渓谷側を切り離し、風路遮断を優先。
人的損耗は“観測結果”として記録』
『関係部族への説明は行わず、当該事象は“自然災害”として扱う』
――そこで、追うのをやめた。
言い訳も、躊躇も、後悔もなく、
ただ“そうすることを決めた”という事実だけが、整然と並んでいる。
イーリスの視界が、大きく揺れた。
(……父は……母は……最初から……)
実験の犠牲として、選ばれていた。
読まなくてもよかったはずの文字が、読めてしまった。
知らなくてもよかったはずの真実の奥が、理解できてしまった。
視界に散乱する、忌まわしい記録。
拳を握る。
血が、掌から滲んだ。
イーリスの喉が、裂けた。
「――――――――ッ!!」
家族や仲間達と共に愛していた渓谷の地。
風とせめぎ合うことを誇りとしていた民達。
傷つきながらも、皆で立ち上がり、誇り高くあろうとした。
憎むことで、悲しみで崩れそうになる心を支えた。
家族を喪った涙を、未来へ飛び立つ強き翼としたはずだった。
腹部の痛みすら忘れ去るほどの、湧き上がる怒り。
ずっと抑えていた、声にならないはずだった慟哭。
生き物の奥底から絞り出された音。
「ふざ……けるなぁぁぁぁぁっ!!」
膝が崩れ、涙が溢れる。
「私達を……渓谷を……!!家族を……!!」
拳が床を叩く。
血が飛び、それでも、構わず叩き続ける。
「返せぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!!!!」
怒り。悲しみ。後悔。奪われた時間。
全てが混ざり合い、慟哭が空間を震わせた。
⸻
【4】
――風が、変わった。
熱ではない。音でもない。
だが確かに、“何か”が空気の密度を押し上げた。
イーリスは、はっと顔を上げる。
――アインだった。
彼は何も言わず、槍を構えている。
ただ無言で、視線だけで、彼女の肩を支えるような。
優しくも、熱く鋭い、断罪の眼差し。
彼の内側で炎が、灯った。
罪を断ずるための炎が“証人”を得たことで、ようやく意味を持った。
イーリスの胸が、強く脈打つ。
これは彼女を慰める温もりではない。
あの夜を、なかったことにした連中を裁く炎。
彼女は目に涙を浮かべたまま、ただの一言も発さぬまま。
ゆっくりと頷く。
言葉は不要。アインはそれを受け止める。
アインの足元で、赤黒い火の粉が静かに舞い上がった。
書架の影。散乱した文書。
その一枚一枚が、炎に照らされて、歪んで見えた。
アインの残響が、完全に立ち上がる。
「〈罪火の残響〉をここに綴る―――
罪は……俺が焼き尽くしてやるッッ!!!!」
“罪源”は、この場に散らばる記録文書。
世界が、燃やすべきものをはっきりと示した。
炎が、罪人であるアインを包み込み焼いた。
「ぐっ……おぉぉぉぉぉッッッ!!!!!」
それでもアインは、炎槍を振るった。
黒き炎はジャンに向かわず、代わりに記録を焼く。
それは怒りではない。叫びでもない。
――秩序の化身へ向けた、告発。
「馬鹿なことはやめろ……!!」
ジャンの周りで燃え盛る黒き炎。
彼自身も炎に呑まれそうになる中、初めて声を荒げた。
「それは秩序だ!!
記録は、世界を綴っていく為の――!」
「違う」
立ち上がったイーリスが、断言する。
「これは――罪だ!!!」
燃え上がる炎の中で、彼女は立っていた。
怒りは消えていないが、もう暴れてもいなかった。
向ける場所を、得たからだ。
ジャンの拳が、わずかに下がる。
強烈な炎の勢いに巻かれただけではない。
保っていた〈責務の残響〉が揺らいだ。
守ってきた秩序、信じている正しさが――罪として燃えている。
アインとイーリスはこの瞬間、鋭く勝機を見出した。
「やるぞ!!!!」
「ああ!!!!!」
身を焼く炎と共に、アインが地を蹴る。
イーリスが蒼い翼を大きく広げ、空へ舞い上がり降る。
空と地。
二つの攻撃が、同時に叩き込まれる。
――ジャンは、適切に構えきれなかった。
焼かれた記録の灰が舞い、炎が身体を鈍らせる。
衝撃。
拳が、膝が、床に落ちる。
「……ッ…ぐ………」
崩された論理の拳。
監査局第五課・封災課長。
ジャン・ポールは数年ぶりに、地に臥した。
⸻
【5】
炎は消える。
残ったのは――
燃え尽きた記録と、静まり返った業務区画。
紙だったものは、もはや文字を持たない。
封じられていた罪も、言い訳も、全てが同じ色の灰に還っている。
イーリスは、深く深く、息を吐いた。
胸の奥に溜まり続けていたものが、ようやく外へ流れ出たような呼吸だった。
拳の血を、ゆっくりと拭う。
「私は……渓谷は、もう迷わない」
その声に震えも怒りも、泣き声も、もう残っていない。
「行け」
イーリスは、前を見据えたまま言う。
「ここは私達が抑える。
渓谷は、もう背を向けない。
お前は――まだ、やるべきことがあるはずだ」
アインは、槍を肩に担い直した。
「……ああ。背中は、任せたぜ」
アインが駆け出す前に、イーリスは声を投げた。
「お前。名は何という」
「あ?そういや、名乗ってなかったな。
アインだ。来てくれて助かったぜ」
イーリスは柔らかな表情を返した。
「私はイーリス。
《カレッシャ》を代表して、お前という戦士に感謝する。
――ありがとう、アイン」
「俺もな。全部終わったら、酒でも飲もうぜ」
互いに笑顔を交わした後、アインは駆け出した。
駆けるアインの背後で、背を押すように鳴いた風。
それはもう、嘆きの風ではなかった。
決断を支え、心を共にする渓谷の風。強き翼。
瓦礫と灰を踏み越え、崩れた業務区画を抜け、《ソリスタの聖壁》のさらに上へ。
おそらく今、メキース達もそこへ向かっている。
本当に止めるべき相手。
アークティアの“綴り”を握ろうとする者。
――筆聖の元へ。




