一章 第22話:空に開戦
【1】
夜が、薄く剥がれてかけていく。
擬似的な大風脈を駆け上がった風艇の群れは、黒い嵐の層を突き抜けた。
湿った暗闇が背後へ遠ざかり、
代わりに――冷たく乾いた空気が肺を刺す。
夜明け前の空は、まだ青に至らない。
群青の底に、僅かな銀が混じり始めた頃。
そこには――浮かんでいた。
大陸の空を切り裂いたように伸びる巨大な影。
空の中に佇む、あり得ないはずの大地。
アークティア浮島群。
ひとつ、ふたつではない。
《ソリスタの聖壁》を中心として、
大小の島が空に点在し、風脈の糸に吊られたように静かに漂っている。
島の縁は断崖となり、下はそのまま虚空。
岩肌には古い刻印のような紋様が走っている。
夜明け前だからか、ところどころ、エーテル灯の淡い光が脈打っていた。
浮島にも、草原と同じく草葉は生い茂っていたが、地上のものとはまるで異なる匂いがする。
金属や鉱石、そして乾いた風の匂い――それが、肺の奥まで冷たく澄んでいた。
草葉は根を張るというより、まるで風脈に縫い止められているかのように、草が薄く密に群れている。
葉は細く、硬く、銀を含んだようにうっすら青白かった。
そして――島の奥。
岩を削って造られた段々状の地形に、
石と木で組まれた建物が、寄り添うように並んでいる。
屋根は風を受け流す角度に整えられ、壁には風除けの布が張られていた。
煙はなく、声もない。
窓辺に吊るされた風鈴のような飾りだけが、冷たい風に揺れて、かすかに鳴った気がした。
眠っている集落。
空に浮かぶ部族の生活が、確かにそこにある。
風だけが鳴っている。
地上の草原とは違う、鋭く研がれた風だ。
吹き抜けるたびに、耳の奥で世界が軋む。
「……これが、浮島……」
カズヤが、思わず声を漏らした。
目の前の景色は、
島が居場所を地上ではなく、空に選んだようだった。
見下ろせば、雲の裂け目の遥か下。
地上の草原が、淡い影のように霞んでいる。
あまりにも遠く、もはや帰る場所ではなく――下界の記憶のように見えた。
その光景に息を呑む者がいる。
胸に手を置き、祈りを呟く者がいる。
だが、恐怖だけが空を満たしているわけではない。
この高さには、覚悟の匂いが混じっていた。
エルダレンの族長は寂しく呟いた。
「何度見ても、壮観だな。
今は少し、見え方が違うが……」
その声は震えておらず、むしろ静かな熱を帯びていた。
⸻
【2】
事前の作戦通り、彼らが着地した地点は、浮島群の中央。
そこは《ソリスタの聖壁》に最も近い浮島。
聖壁へ向かう橋が幾重にも絡み、風脈が太い血管のように集束する。
まさに空の玄関口。
本来なら、最も警備が厚い場所だ。
橋の起点には関所があり、監視塔が立ち、哨戒艇が常に旋回しているはずだった。
――だが今、この玄関口は奇妙なほど静かだった。
理由は単純だ。
誰も、“湧き上がる侵入”など想定していない。
地上からの大風脈は閉じられ、帰還すら保証できないという前提。
その常識そのものが、防壁になっていた。
そこにカズヤの災厄の嵐と、
ミレイの拾った声が編んだ、擬似大風脈が刺さった。
《ソリスタの聖壁》。
円環の輪郭だけが、夜明け前の空に黒く浮かび、
その存在感は――島というより、空そのものの骨格だった。
アインはその光景に、ゴクリと息を呑んだ。
「これを攻略すんのかよ……変な感覚だな」
見ているだけで、胸の奥がざわつく。
理屈ではなく、魂が拒む。
踏み込めば戻れない、と本能が理解してしまう。
風艇はその恐怖を振り切るように、風を切った。
船体が軋み、翼が鳴く。
下に草原、上に空。
左右には浮島の断崖が迫り、岩と風が擦れる音が走る。
風脈が巡り、紋様が光り、
雲海の上で静かに心臓を鳴らしていた。
幸い、まだ完全に迎撃網は出来ていない。
夜明け前の静寂は、まだ本来の秩序を取り戻していない。
メキースが短く声を上げる。
「――さあ、我々なら行ける!
風を掴め。止まるな。
ここから空の中心へ、一直線だ!」
草原の戦士達が声を上げる。
風艇が一斉に加速し、浮島の上空を駆けた。
彼らは、空の戦場へ足を踏み入れた。
⸻
【3】
同時刻――《ソリスタの聖壁》。
夜の警戒灯が赤へ切り替わり、
鐘が鳴り、伝令の声が塔から塔へ走る。
「地上側から風脈が発生!」
「確認!……数十艇規模の風艇が浮島へ向かって急上昇した模様!!」
「はぁ?地上から!?どうやって風を――」
現場は、混乱していた。
大風脈は本来、浮島が管理するもの。
それを地上が人工的に生み出すなど、想定されていない。
寝ぼけ眼の浮島の民――《ファルティア》の部族の戦士達。
武器を掴みながらも理解が追いつかない者。
彼らは口々に叫ぶ。
「一体なんだ!?」
「地上の連中が来るわけないだろ!!」
「誰が風を起こした!?」
「朝っぱらからなんて奴らだ!」
そこへ――冷たい声が割り込む。
「落ち着け。混乱している暇はない」
派遣されていた、監査局の隊員達だ。
白い外套が戦場の区別を明確にするように揺れ、
彼らは容赦なく命令を叩きつける。
「迎撃準備!」
「起きてこない者は放置しろ!動ける戦力を前線へ!」
「監査局隊、配置につけ!」
そして――重く落ち着いた靴音が響く。
監査局第五課、封災課長。
ジャン・ポール。
剃り上げた坊主頭に、灯火が反射する。
その足取りはなめらかで、迷いがない。
「状況を」
部下が背筋を正して答える。
「は!
浮島圏の外縁で、複数の風脈変動を確認。
大風脈に近い規模の噴き上げが、地上側で発生しています」
ジャンは眼鏡を押し上げる。
だが目の奥だけが、研がれた刃のように冷えていた。
「相手は部族の戦士か。あるいは――外部勢力か」
「現時点では断定できません。
ただ、地上の部族だけでこの規模の風を起こせるとは……」
ジャンの眼鏡が光る。
「できないはずのことをする者がいる。
――筆聖の話していたメキースという男。
そして、目撃情報のあった“災厄の外典”。
奴らが組んでいるのならば……」
沈黙の間、聖壁の風が低く唸った。
ジャンは推測ではなく、結論を下す。
「侵入者の正体が誰であれ、備えは同じだ。
迎撃配置を。全区画、封鎖準備を進めろ」
「はっ!」
⸻
【4】
聖壁の奥――儀式の間。
そこには、筆聖ヴァリウス・オルドレイクの姿。
報告が届く。
「報告っ!
地上で非正規の大風脈が発生!原因調査中!
中規模戦力が浮島へ侵入しています!!」
ヴァリウスは目を閉じ――わずかに、笑った。
「……夜明け前から動くとは、実に奴らしい」
その名を呼ぶ。
「メキース。
やはりお前は、俺の前に立つ男だ」
そのまま、側にいたゲイルへと目をやる。
「守備はお前とジャン・ポールに任せる。誰も、上へ通すな」
「承知した……師範」
それだけ言い残し、風の中へ消えるように走り出した。
そして――
「儀式は簡易式に切り替える。
“掌握”までに必要な工程を半分にする」
側近の風詠みが慌てて声を上げる。
「しかし、それでは不安定化のリスクが――!」
「構わん」
ヴァリウスは言い切った。
「片手間で止められる男ではない」
その背に、ただひとつの意志だけが宿っていた。
⸻
【5】
少し時は戻り。
エルダレンの集会所。
机の上には、《ソリスタの聖壁》内部構造図。
橋の位置、昇降機、業務区画、搬入口。
幾重にも引かれた線が、空の要塞を形作っている。
誰も無駄口を叩かない。
紙の上に落ちる呼吸だけが、作戦の緊張を支えていた。
「目的はただ一つだ」
メキースの指が――地図の頂点へ滑る。
《ソリスタの聖壁》最頂部。
「私が、ヴァリウスの元へ辿り着く」
短い。だが、誰も軽く受け取れない言葉だった。
アインが口の端を吊り上げる。
「結局、一番危険な役目はあんたかよ」
「当然だよ」
メキースは淡く笑い、目だけは鋭く据えた。
「友を叱るのは、私の役目だからね」
戦士達の顔は険しい。
けれどその険しさは、恐れというより“覚悟”だった。
メキースは、構造図の上に一本の線を引く。
聖壁の外縁、連絡橋、そして正面へ。
「警備の兵士達は必ず迎撃に出る。
――ならば、彼らの視線をここに縛る」
彼の指が、正面の鉄橋を叩く。
「陽動と突破口を兼ねて、正面から力ずくで突入する」
アインが鼻で笑った。
「――俺だな」
「ああ」
メキースは即答する。
肯定は軽いが、任せる重みは重い。
「乱暴で結構。ただし、無謀にはしない。
夜明け前に速攻をかける。
備えが整うより早く踏み込めば、歓迎は薄いだろう」
視線が集まる。
戦士達の中で“刃役”に相応しい者は、誰がどう見ても一人だった。
「指揮はアイン、君に託す。
族長も――戦士達を頼む」
族長がゆっくり頷き、戦士達を見渡す。
「うむ、任せてくれたまえ。
道は命で繋いででも開こう」
その言葉に、誰も声を上げない。
代わりに、拳が握られる音が、いくつも重なった。
そしてメキースの視線は、カズヤへ。
「一方で、私とカズヤ君。
少数の戦士達にもフォローを頼み、正面の鉄橋を迂回する」
指は構造図の外周へ滑り、下部の一点で止まる。
「ここだ。物資搬入口。
警備は薄いが、内部へ入れば複雑だ。
だが――通るべき道さえ知っていれば頂上には近い」
分かった、とカズヤは短く頷いた。
余計な熱を乗せない返事が、彼の覚悟を示していた。
メキースは続ける。
「どのルートであれ、内部構造は最終的に頂部へ収束する。
アインは正面から。私達は脇から。
――頂上へと向かう」
紙の上で、二本の矢印が一つの点へ向かう。
「時間はかけない。
朝のうちに、全てを終わらせよう」
⸻
【6】
そして、今の風。
空の大地を裂いて疾走する風艇の群れ。
《ソリスタの聖壁》が、
正面へ巨大な壁として立ちはだかる。
翠碧、巨大。天空と地上を繋ぐ“楔”。
そこから光が漏れていた。
陣が組まれており、迎撃は始まっている。
眼前に迫るのは――決戦の扉。
メキースが叫ぶ。
「突入だ!!!」
風艇が叫びのように吠え、
怒涛のように《ソリスタの聖壁》へ雪崩れ込む。
――風を取り戻す為の決戦、開幕。




