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残響詩篇  作者: 宗一郎
第一章:共風と共に去りぬ
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一章 第17話:翠風は真実を運ぶ

【1】


まだ、剣が重すぎた頃のこと。



幼いゲイルは、剣を握る手に力が入らなくなり、今日何度目かの素振りでついに膝をついた。


「……はぁ、はぁ……」


その前で、師であるヴァリウスは静かに剣を収める。


「朝からやりすぎだ。

無理をするな。今日はここまでとする」


「でも、師範……!」


ゲイルは顔を上げた。

悔しさよりも、焦りが滲んでいる。


「……師範は全部できるじゃないですか。

僕だって、やらなきゃ……」



ヴァリウスは一瞬だけ、言葉を探すように目を伏せた。


「できるのなら、やるべきだ。

それが……皆の前に立つ者の役目だ」


ゲイルは唇を噛みしめる。



ヴァリウスは剣先で、軽く地面を指した。


「剣はな、敵を倒す為だけに持つものではない。

まずは己が倒れない為に持つ。そういうものだ」


そして、少年の手にそっと剣を重ねる。


「誰かを支えたいと思った時、

その“立っていられる力”が、お前達を助ける」



幼き瞳が揺れた。


「なら、僕は……。

強くなって、師範に恩返ししたいです。

全部やらなくていいって……言えるくらい」



ヴァリウスは、ほんの少しだけ笑った。


「俺に恩を返す、か。

……難儀な弟子を持ったものだな」


だがその声は、どこか柔らかかった。


「いいだろう。なら、立て。

次は――倒れない為の剣を、教えてやる」


「はいっっ!!」


少年は、何度も頷いた。



背中はまだ小さかったが、その風は確かに、未来へと吹いていた。




【2】


《ソリスタの聖壁》、その上層部。



誰もいない風見塔の上で――


《ファルティア》族長代理。

ゲイル・ファルティアはただひとり、風の中に立っていた。



遠くに、裂けた大地の渓谷が見える。

さらにその果て、草原の地平も霞んで見えた。


浮島と地上。

高みと底。断ち切られた距離。


それでも――

風だけは、何事もなかったかのように、隔たりを越えて行き来している。


(……風は、隔てない)


胸の奥で、同じ思考が何度も反芻される。


(争わない。選別しない。

高きも、低きも、同じように運ぶ)



軽く目を閉じる。



脳裏に、あの日の景色が蘇る。


暴走した共鳴風。

裂ける空。泣き叫ぶ風。

何もできなかった幼き自分。


そして。


――その中央で、必死に風を抑え込む男。

歯を食いしばっていたヴァリウスの姿。


泣くことしかできなかった自分を、救ってくれた存在。



(……師よ。

あなたはあの日からずっと……自分を赦していない)



誰も責めていない。

だが誰よりも厳しく、彼自身が、彼を裁き続けている。


だからこそ。

ヴァリウスは今、“全ての感情を統制する”という極端な道を選ぼうとしている。


その動機に道理がないとは、言えなかった。


もし、あの夜のような惨事が二度と起きないのなら。

もし、誰も泣かなくて済むのなら。

誰かひとりが本当に、皆を正しい方向へ導くことができるのなら。


風を縛ることも、正しいのかもしれない。



だが風を止めても、心は止まらない。

人々の感情を制御すれば、争いが消えるわけではない。


人とは――誰かひとりが全て受け止められるほど、単純な存在ではない。



ゲイルは遠く、草原の端を見つめる。


筆聖ヴァリウスの弟子。

そして《ファルティア》の族長代理であり、風を詠む者。


風は、命令するものではない。

支配するものでもない。



――運ぶものだ。



ゲイルは静かに残響を綴った。

翠色の紋が瞳に宿る。



「〈翠風すいふうの残響〉をここに綴る――」



大気が従うように流れを変え、風艇の翼が起動する。

彼だけが駆れる特殊な風艇だ。


誰にも聞こえぬ宣言を風へ預け、翠の風は聖壁から解き放たれた。



それは、墜ちる為ではない。

導く為に。隔たりを越える為に。


彼は“アークティアの裂け目”へと舞い降りていった。




【3】


強風が渦巻く断崖の上。


戦士達の叫びが響いた。



「風艇だ!浮島の使者だ!!」

「構えろ!草原の連中が呼んだかもしれねえ!!」



槍が構えられ、弓が引かれようとする。


それを制するように、

翠の尾を引き、ゲイルの駆る風艇が砂礫を巻き上げて着地した。




先頭でイーリスが槍を握り――踏み込む一歩を止めた。



脅威として吹く風ではない。

ただ――彼らの前に“吹く為だけの風”。



「……久しいな。渓谷の戦士達」


風艇の縁から降り立つ男。

黒の髪を後ろで束ね、落ち着きを宿した翠眼。


戦士達の喉が動き、数名がその名を呟く。


「……ゲイル……」

「《ファルティア》の……翠風……!」



イーリスは武器を下ろさないまま、低く言う。


「用件をはっきりと言え。

ここは浮島でも草原でもない。

“筆聖の影”が、黙って来て良い土地ではない」


「知っている。

だからこそ俺は影ではなく、“風詠み”として来た」



ゲイルは進み出て、宣言した。


「まずは伝令だ。

筆聖ヴァリウスより――

《感情の統制》を実行する準備が整いつつある、と」



渓谷に緊張が走る。

戦士達の掌に汗が滲み、ざわめきが武器の柄を鳴らす。


イーリスの眉間に皺が刻まれた。


「草原の使いからもう伝え聞いた。今更だ。

お前達がそうするのなら、私達も考えがある」



ゲイルは即答しない。


代わりに――悔いるように、ほんの少しだけ目を伏せた。


「……ああ。

()()()()()()、お前達が思う通りになるだろう」


渓谷の風が唸る。


怨嗟と怒号に変わる寸前、ゲイルは静かに続けた。



「だから俺は……、その前に()()だけは伝えに来た」



戦士達の目が彼へと突き刺さる。

イーリスも眼を鋭くした。



「真実、だと?」



ゲイルはゆっくりと頷く。


翠の風が、静かに流れ出す。




【3】


「――あの日」


渓谷の空が裂けた日。

草原も渓谷も、世界の輪郭が歪んだ日。



「共鳴風の暴走などではない。

共鳴風の“人工制御実験”だ。

それは草原でも浮島でもない――大書院の上層部が主導した計画だった」



イーリスも、渓谷の戦士達も、全員が目を見開く。



ゲイルは、今と過去を重ねるように続けた。


「その制御実験の担い手に選ばれたのは、

当時、《風詠みの代表者》だった俺の師――現筆聖のヴァリウスだ」



渓谷の空気が震え、イーリスの喉が詰まる。


「……あいつが………?」


「師範は反対したさ。

“感情を束ねることなど、人がやることではない”とな。


だが――当時から、部族間の争いの兆候があった。

共鳴風で心を分かち合うのも、限界が見えていた。

だから……“大陸の未来の為”という言葉が、全ての退路を絶った」



故に――ヴァリウスは担い手となった。

“人々の感情を受け止める、ひとつの器”として。



「そして――失敗した」



渓谷の風が、痛みを思い出したように軋む。


「師範は……。

人々の痛みも怒りも悲しみも、全部、自分が受け止められると思っていた」


ゲイルの声が滲んでいく。


「だが、強靭な肉体と精神を持つあの人でも無理だった」



感情は、人の形では抱えられない。

世界の叫びは、ひとりの魂を簡単に壊すほど、苛烈だった。



共鳴風は溢れ出し――渓谷を裂いた。



それは、ただの事故ではない。


世界が、人に背負わせるには重すぎた痛みだった。



「渓谷は傷を負い、アークティアは絶望した。

そして――大書院は記録を隠蔽して、全ての責任を師範と、

協力関係にあった《ファルティア》と《エルダレン》に押し付けた」



話を聴く戦士達の表情が変わる。

怒りだけではない。

理解、混乱。


同じ痛みを知る者を見る目が、そこにあった。



「……だからと言って、

あの日、渓谷が受けた傷が正当化されるわけじゃない」


風を切るように言葉が落ちる。

ゲイルははっきりと告げた。


「渓谷は被害者だ。

だが同時に師範――ヴァリウスもまた、

罪を背負わされたまま生き続けている加害者だ」



沈黙。



武器や装飾が擦れる音だけ。

風が岩にぶつかる声だけ。



イーリスは、しばらく声を出せなかった。


やっと吐き出せた言葉は――


「……あいつ自身も……、

あの日に、取り残されてるとでも言うのか」


ゲイルはただ、イーリス達を見つめる。



「だから師範は統制を選んだ。

次は、もう誰も自分のようにならないように。

もう誰も、壊れないように、な」




【4】


イーリスの声が震えた。


「……それを私達に教えて、お前はどうする。

贖罪のつもりか」



ゲイルは静かに、翠色の瞳を光らせる。


「いや。

俺は別に謝りに来たわけでも、師範を裏切りに来たわけでもない」


何か想いを翔ばそうとするように、蒼空を見上げる。


「師範を信じている。恩人だからな。

この身が滅びるまで、あの人に付いていくつもりだ。

だが――()()()()()()()()()()()()()()()



これが、今の状況で《翠風》の選んだ中庸。



誰かの意志に全面肯定もせず。

しかし、否定し切り捨てもしない。



ただ――運ぼうとする風。



「だから俺は、お前達に伝えに来た。

真実を知らないまま終わらせるのは、風の選ぶやり方じゃない」



イーリスは――


槍を、そっと地へ突き立てた。

視線はまだ鋭いが、その奥には拒絶ではない灯火が付いていた。


「あとは私達に委ねる、ということか」


渓谷に吹く風が和らいだ。

戦士達の手から、すこしずつ力が抜けていく。


イーリスは背後の仲間達に振り返り――短く告げた。



「……皆、話を続けよう。

《エルダレン》との協力。本気で考える余地をな」


まだ怒りは消えないが、それでも前へ進むための風が吹く。



ゲイルは静かに、再び浮島へと帰ってゆく。

翠の風が、優しく渓谷を撫でた。



そして――物語は動き出す。



統制か、自由か。

赦しか、拒絶か。

復讐か、共存か。



想いは大地から翔び立ち、蒼空にてぶつかり合おうとしていた。

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