一章 第15話:痛みが残り続ける場所で
【1】
断層へ向かう道中に、あらかじめ立てていたキャンプ。
そこに、アマネとミレイは戻ってきていた。
空の色がすっかり変わり、夕暮れの赤は消え、
まだ夜には至らない深い群青が静かに落ちてくる。
焚き火に宿った光はとても小さい。
だが、あの断層の底に吹いていた風よりも、ずっと安心できる温度を持っていた。
ふたりはここで、アインとカムイの合流を待つことにした。
ミレイは、焚き火の光の輪の少し外側に座っていた。
両手を胸に抱くようにして、小さく息を整えている。
痛みは、さっきよりはかなり薄くなっている。
だが、完全には消えていない。
胸の奥に、棘の欠片だけが残ってしまったようだった。
「……ミレイちゃん?」
不意に、柔らかい声が落ちてきた。
顔を上げると、水の入ったコップを持ってアマネがそこにいた。
心配そうだが、無理に踏み込むことはしない目だった。
「さっきよりは落ち着いたように見えるけど、どうかな?」
「……はい。
だいぶ、治まってきました」
ミレイは言葉を選ぶように、視線を揺らす。
焚き火の音が、間を埋める。
ミレイは、視線を落としたまま――
それでも、勇気を掬い上げるみたいに声を出した。
⸻
【2】
「……あの、アマネさん」
「なぁに?」
アマネは柔らかく振り返る。
躊躇が喉に詰まりそうになる。
でもここで逃げたら、また同じところで痛むだけだ。
この人になら聞けると思った。
“あの人”のこと。
平気な顔の底に、痛みを背負う人のこと。
ミレイは、言葉を選ぶように、ゆっくりと。
「アマネさんと……カズヤさんって、どういう関係なんですか?」
それは恋の匂いを探るようなものではなく。
ただ――どうして、あの人の隣に立てるんだろう、というもの。
純粋な疑問と、ほんの少しの羨望が混じった響きだった。
アマネは目を瞬かせ、そして――小さく笑った。
「……恩人、かな」
「恩人……ですか」
「うん。死にそうになってた私を助けてくれたの。
私が追われてるって知っても、安全な場所まで連れて行ってくれて。
何度も助けられたし、私の心を支えてくれた。
……手を差し伸べてくれた」
思っていた通りの人。
それでも、彼から感じる痛みを思い出す。
そして――あの夜に言ってしまった言葉も。
勇気は、痛みと同じ場所からしか出てこない。
「アマネさん」
「うん」
「……カズヤさんのこと、怖くないんですか?」
ようやく出てきた問いは、あまりにも率直。
そして――少しだけ、悲しい色をしていた。
アマネは、すぐには答えなかった。
焚き火を見つめ、一度だけ小さく息を吐いた。
「……怖い気持ちはあったよ。ちゃんとね」
ミレイの目が見開かれた。
「……え?」
「最初は特にね。
外典は怖い人達って思ってた。
カズヤも、住んでた集落の人も、話してみたらみんな優しいけど、
明日にはどうなっているか分からないかも、って……」
少しだけ肩をすくめる。
「正直、一緒に旅すると決まった時は――
本当に大丈夫かなって、どこかで思ってた」
「……そんなこと、あったんですね」
「うん。でもね」
アマネの表情が、柔らかくなる。
「一緒にいて、色々話していくうちにね。
私、なんで“外典は怖い”なんて思っちゃってたんだろうって……。
それが当たり前だったのに、ちゃんとその人達のことを知ったら、全然違った」
アマネはゆっくりと、ミレイの頭を撫でた。
「だから、ミレイちゃん。
怖いって思うのを悩んでるなら――
それは“ちゃんと見てる証拠”だよ」
「……!」
アマネは焚き火越しに、カズヤの背を目に浮かべる。
「カズヤはね。
怖がられてても、一緒に戦うことはできる人だけど……。
怖がられたまま放っておくことは、きっと苦手だよ。
なんとかしなきゃ、って悩んじゃうと思う」
それは、胸に刺さる言葉だった。
だが同時に、ミレイの胸に、僅かな光が差し始めた瞬間でもあり。
「だから、もし――
ちゃんと向き合いたい、って思うなら」
アマネは、優しく笑う。
「怖いままでいいから、もっと話してあげて。
取り繕った言葉より、その方がきっと、カズヤは嬉しいと思う」
ミレイの吐息には、まだ迷いが混ざっている。
でも、それだけではない。
ほんの少しだけ――決意の温度が灯っていた。
「……カズヤさんのこと、もっと知りたい、です」
アマネはニコリと頷く。
「うん、喜ぶと思うよ!
私も見守ってあげるから、戻ったら一緒に、カズヤと話そ?」
ミレイは、嬉しそうにそっと胸に手を当てた。
痛みの感覚は、まだ残っている。
でもそれはもう――ただの“恐怖だけの痛み”ではなかった。
それはきっと、誰かに手を伸ばす前に走る、ほんの少しの怖さと同じものだ。
焚き火の向こう。
“あの人”の背中が、静かにそこにある気がした。
⸻
【3】
焚き火の炎が、ぱちっと小さく弾いた。
その光が揺れた瞬間――アマネは、ふと何かを思いついたように顔を上げた。
「ねえ、ミレイちゃん」
「はい?」
「私の感情を、風詠みでミレイちゃんに伝えることって……できる?」
ミレイは瞬きをする。
予想外の提案に、声が裏返りそうになる。
「ど、どうしてですか?」
アマネは少し照れたように笑った。
「……私がカズヤに安心してる気持ち。
それを、ミレイちゃんにも分けてあげられたらと思って。
共感が絆になる、って言ってくれてたでしょ?」
言葉に嘘はなく――ただ、とても優しかった。
「ミレイちゃんがもっと知りたいって思ってくれたから。
だったら私も、できる限りのこと、してあげたいなって」
ミレイは、胸をぎゅっと押さえる。
温かい。でも同時に――少しだけ怖い。
「……できると思います。
でも、共鳴風が……」
ミレイは焚き火の向こう、夜の風を見た。
「大丈夫。ここには私達しかいないし、
ミレイちゃんを信じてるから」
その言葉が、背中を軽く押した。
「なら……分かりました。やってみます」
ミレイは静かに目を閉じる。
風詠みの姿勢をとり、そっと空へ手を伸ばす。
周囲を流れる風を感じて、アマネのいる方向へ意識を向ける。
(――アマネさんの、心)
優しさ、信頼、安心。
それらが、風に乗って届いてくる。
とても心地の良い風。
――のはずだった。
「…………あれ?」
風の流れは詠める。
アマネの存在も、ちゃんと感じる。
なのに。
(感情が、詠めない?)
感じられないのではない。
“詠み取れない”。
風がただ流れているだけで、その奥へ踏み込めない。
まるで透明な壁に阻まれているような――
「だめ、です」
ミレイは息を漏らした。
「アマネさんの感情……風から、詠めません」
アマネの目が丸くなる。
「え……?」
嫌な予感が背を凍らせる。
ミレイの声は困惑に揺れていた。
「感じることができない相手なら、今までもいました。
心を完全に閉ざしている人とか。
けど、“感じてるのに詠み取れない”なんて……」
ふたりは顔を見合わせる。
不安でもなく、恐怖でもなく、
ただただ理解できないという種類の沈黙。
その沈黙を――
「やーーっぱ、詠み取れないんすね」
「キャァ!!!??」
「わっ!?」
ふたりの間からひょっこりと、カムイが生えてきた。
「え!?カ、カムイさん?いつから……!!?」
「ついさっきっす。
なんかエーテルの位相が変わったな〜と思って来てみたら……。
なるほどー、やっぱりやっぱり」
やっぱりって何?と言う前に――
「お前、急に走り出したと思ったら……」
呆れ声とともに、アインも戻ってきていた。
カムイは完全に自分の世界へ入っている。
周囲の空気など一切気にせず、ただ思考だけが回っている目だ。
ふと、その思考がミレイの方へぎゅんと向く。
「ミレイちゃん。
……今は、痛むっすか?」
「あ、えっと……いえ。もう、治りました」
「そっか〜。それは良かったっす!」
ほっと笑う――が、すぐに真顔へ戻る。
「でも、そんならやっぱ……仮説は正しそうっすね」
カムイはまた、ぶつぶつと呟きながら、思考の海へ沈んでいった。
その姿は頼もしくもあり――
そして、少しだけ不安でもあった。
カムイには及ばないが、
アマネの脳裏にも仮説が浮かび上がっていた。
リムランドでの事件、“存在の消失”と同じ。
自分の感情だけが詠み取ってもらえない。
それはつまり――“綴り”の異常なのではないか。
ミレイのものとはまた違う、胸の痛み。
心がざわつく。
世界から阻害される感覚。
世界を傷つけている感覚。
(……カズヤ、私……)
焚き火の炎が、静かに揺れる。
風はまだ、夜の底でざわめいていた。




