二章 第21話:異常都市 - 観測終了
【1】
白が砕ける。
空を覆っていた雪時計は、無数の白い欠片となって空へと散っていった。
時間の歪みは解け、空気は静まり、
力の供給源を失った残響の異形たちも、ゆっくりと霧散していく。
消滅すると同時に、地上で交戦していた人々の緊張も解けていった。
オルフェンと交戦していたフードの人物もまた同じく。
浮遊する剣と共に、初めから何もなかったかのように、宙からその存在を消した。
その光景の中心。
上空に聳える氷の花の上、カズヤとアマネは並んで倒れていた。
呼吸はあるものの、意識がない。
宿す記憶の深層へと踏み込み、災厄の連鎖をその身に通し、そして現実へと綴った反動はあまりにも大きかった。
限界を超えてなお力を引き出した代償として、ふたりの意識は完全に途切れていた。
地上の中央広場。
時計が砕け散る様子を見上げていたキリヤは、静かに手をかざす。
すると、広場一帯に咲いていた氷の花が応じ、微かに震えた。
ふたりを乗せた花弁が、ゆっくりと高度を落とし始める。
急がず衝撃を与えないよう、慎重に。
大切なものを運ぶように、丁寧に地上へと降ろしていった。
やがて、静かに着地する。
同時にキリヤは短く、通信で指示を飛ばした。
「医療班をすぐに。中央広場へ担架をお願いします。
残響行使の過負荷による昏倒ですので、無理に起こさないでください」
大書院の者、監査局の者、住民達。
混乱の最中にあったはずの都市は、すぐに“後始末”へと動き始めていた。
⸻
【2】
やって来た医療班によって、カズヤとアマネはすぐに運ばれていく。
その姿を確認し――キリヤはようやく肩の力を抜くことができた。
そのままゆっくり、ゆっくりと歩き出す。
足取りはとてつもなく重い。
広場の脇。
雪の上に、一人の男が仰向けに寝転がっていた。
――オルフェンだ。
その姿に、キリヤは小さく息を吐く。
隣へと歩み寄ると、オルフェンが声をかけた。
「や。大仕事だったね、キリヤ」
いつも通りの軽い声音だが、やや力が無い。
キリヤはその様子を一瞥し、淡々と告げる。
「もうダメです。カップも持てません」
そう言って、糸が切れたように。
――ドサッと。
オルフェンの隣で、キリヤも雪の上に寝転がった。
「はは、だろうね。あの規模で残響を使ったんだ。初めてじゃない?」
笑ってはいるが、オルフェンの声にも明らかな疲労が滲んでいた。
「……あなたも、相当無理をしたのでは?」
「いやーそうなんだよ。
しばらくは、ろくに残響も使えないね。はしゃぎすぎたみたいだ」
オルフェンの使っていた“光”。
あれは常に、残響の深層から引き出して綴っていたもの。
記憶に深く潜り続ければ、その分反動は大きい。
「戦闘向きじゃないものを、無理に行使すればこうなる」
だから彼は、戦いにあまり関心を置かない。
二人の上に、雪が降る。
キリヤの頭によぎっていたのは、過去の思い出。
「……昔一度だけ。
こんな風に、雪に寝っ転がった気がしますね」
「そう?」
「私が初めて書いた論文を、母に酷評された時です。
泣いて食事もできなかった私を、あなたが珍しく慰めた」
「……そんなこともあったっけ」
どこか他人事のように笑う。
だがその空気は、どこか柔らかい。
しばしの沈黙の後、オルフェンが呟く。
「とにかく、彼らは上手くやれたみたいだ。
筆聖らしく助言した甲斐があったってもんだね」
空を見上げたまま。
「――助かったよ。ふたりとも」
その言葉は、確かな本音だった。
グレイシオンは傷を負ったが、壊れてはいない。
遠くでは瓦礫の撤去が始まり、負傷者の搬送が続き、各所で指示と応答が飛び交っている。
混乱は収束へと向かい、日常を取り戻す動きが着々と始まっていた。
筆聖オルフェン、キリヤ、カズヤとアマネ。
そして都市に生きる人々の尽力により、異常は確かに終わったのだ。
⸻
【3】
――。
ゆっくり。
意識が浮上していく。
深い水の底から引き上げられるような感覚。
まず最初に戻ってきたのは、呼吸の重さだった。
喉が乾いている。
頭と身体の奥に残る鈍い痛みが、まだ完全には抜けていないことを告げていた。
「ん……っ……」
まぶたが重い。
それでもなんとか持ち上げると、視界に広がったのは見慣れない部屋だった。
清潔な匂いと、規則正しく整えられた空間。
そこが医療施設であることを理解するのに、時間はかからなかった。
「……ここ、は」
掠れた声が漏れる。
少し遅れて、隣からも微かな気配が動く。
同じく意識を取り戻したアマネが、ゆっくりと身体を起こそうとする。
その様子に、カズヤはホッと息を吐いた。
良かった、無事だ。
「アマネ、何ともねえか?」
「うん、身体がすごく重いけど……カズヤは?」
「俺も……上手く動かせねえな」
カズヤもまた身体を起こすが、すぐに力が抜けてベッドに手をついた。
「あれ、どんくらい寝てたんだ……俺ら?」
その問いに答えられる者はいなかったが――代わりに、静かに扉が開いた。
「一週間です」
落ち着いた声。
部屋の入り口に立っていたのはキリヤだった。
アマネの顔がパッと晴れる。
「キリヤさん!」
いつもの佇まいだが、その表情にはわずかな安堵が滲んでいる。
「おふたりとも、無事で何よりです」
その言葉に、カズヤは小さく肩の力を抜いた。
「一週間……マジかよ」
思った以上に長い。
身体をなんとか起こしたカズヤとアマネの視線が、窓の外へ向く。
そこにはグレイシオンの街並みが広がっている。
崩れた建物はまだ残っているが、その多くにはすでに足場が組まれ、修復作業が進められているのが見える。
寒い中でも、行き交う人々の姿。
包帯を巻いた者、資材を運ぶ者、指示を飛ばす者。
そしてその中に、子どもが笑う姿もある。
そう、一週間経ったのだ。
昨日はもう、変わっていない。
時間が正しく、等しく、続いて紡がれている。
「復旧に関しては問題ないでしょう。
オルフェンが直接綴り層を調査し、“時の綴り”が正常であることも確認済みです。
おふたりが破壊したあの時計が、やはり異常の鍵だったかと」
完全に元通りではないが、着実に前へ進んでいる。
しばしの静寂の後、
差し入れの菓子や飲み物を机に置きながら、キリヤが口を開く。
「体調については問題ありませんが、無理はなさらないでください。
退院は明日になるでしょう。
過負荷の影響は、まだ完全には抜けていませんので」
そして。
「……それと、筆聖が呼んでいます。
明日、大書院のグレイシオン支部へおふたりを、と。
朝になったら、またお迎えにあがりますので」
カズヤは一度、アマネを見る。
アマネも静かに頷く。
「……分かった」
短く応じる。
災厄の外典と、世界の異物。
今の世界にとって、ふたりが大書院へ足を踏み入れる、その意味は重い。
しかし、行くしかない。
ようやくその時がきた。
この大陸へやってきた二つの目的。
一つは、異常を解決して人々を救うこと。
そしてもう一つ、オルフェンが握っているというアマネの情報。
――世界の知られざる部分、その一端に、カズヤとアマネは触れる。




