第七話「見えない貴方はモンストロ」
「————寝不足ですな」
医者の結論は、至って簡単なものだった。
寝台のサクサは、静かに息をしている。
診察を終えた老医師は鞄を閉じ、
枕元に立つ二人を順に見た。
「病でも、怪我でもありません。休まずに身体を使い続けたのでしょう。今は眠らせてあげなさい」
「……目を覚ましますか」
「ええ。ですが、起きたからといって、また稽古をさせてはいけませんよ」
ニアが深く頭を下げた。八咫烏も小さく頷く。
医者が帰った後も、ニアはサクサの手を握っていた。
八咫烏は窓際の椅子へ座る。
寝息と、庭の木々が揺れる音だけが聞こえた。
「……今日の稽古は中止だな」
「今日だけではありません」
ニアは妹の手を布団へ戻した。
「これで終わりにします」
◆
話の続きは、サクサの部屋から少し離れた回廊ですることになった。
夕方の光が、窓から床へ長く伸びている。
何時間か眠れば少女は起きるだろう。
その時、枕元でこんな話をしていたくはなかったからだ。
「まだ一日あるだろ」
「残り一日で、過労で倒れた子に何をさせるのですか」
「寝かせるよ」
「では、結論は変わりません」
ニアの声は静かだった。
「記憶は戻らず、身元の証明もできない。陰陽師というものが何なのか、私たちには分からないままです。そして、サクサも魔力を捉えられなかった」
「だから、もう終わり?」
「はい。円卓へ報告します」
八咫烏は壁から背を離した。
「報告だけで済む話じゃねえんだろ」
「はい。より厳格な拘束体制に応じていただきます」
「素直に監禁って言えよ」
「では、貴方の両手足を縛り付け、当家で監禁します」
「断っても?」
「貴方に、その権限はありません」
少しの間、二人とも黙った。
「じゃあ、俺は逃げる」
八咫烏が言った。
「その場合、討伐対象として追われます」
「知ってる」
「王国の中で、身を隠せる場所など――」
「一生モルモットより、一生指名手配の方がマシだよ」
調べたい側からすれば、大迷惑な選択なのだろう。
調べられる側としては、多少迷惑をかけても手足を自分のものにしておきたかった。
「全力で抵抗する。止める奴がいるなら、そいつとも戦う」
ニアの指が、剣の柄へ触れた。
「……私とも、ですか」
「お前が止めるならな」
額に冷たい汗が浮いた。
ニアは、彼の右手を見ていた。今は何も持っていない。だが、その男に武器がないことなど、何の安心にもならない。
あの一撃を、覚えている。
自分の剣が返された瞬間。何が起きたのかも分からず、石畳へ倒れたことを。
次も勝てないかもしれない。
それどころか、今度は互いに事情を理解した上で戦うのだ。
殺し合いになるかもしれない。
それでも、行かせるわけにはいかなかった。
「……私だって」
言葉が、思いがけず零れた。
「好きで、こんなことをしているわけではありません」
同じ家で食事をした。くだらないことを言われ、何度も呆れた。稽古の途中で昼食の心配をし、妹に袖を引かれると、結局もう一度だけと付き合っていた。
命惜しさの取引だった。
それでも、サクサを騎士にすると言ってくれた。
これの、どこがモンストロなのか。
何度考えても、その後には別の答えが続く。
あの変性反応を見て、見なかったことにはできない。
「私には、姉がいます」
八咫烏が、わずかに眉を動かした。
「……姉?また血の繋がってない家族か?」
「実の姉です。私よりずっと強くて、何をするにも、先に立ってくれる人でした。本来の、エルデット家の当主です」
ニアは視線を落とした。
「モンストロに襲われた時、姉が私を庇いました。私が動けなかったから。逃げることも、剣を握ることもできなかったから」
「死んだのか」
「いいえ」
答えは、すぐに返ってきた。
「生きています。今も。ただ、一度も目を覚まさない」
死んでいない。
けれど、返事もない。
相談したいことが増えるたび、姉の寝台の前へ行った。何を言っても、姉は眠っていた。
家のことも、サクサのことも、ニアが決めるようになった。
あの怪物を思い出すだけで、今も奥歯を噛み締める。モンストロを一体討つたび、少しは晴れると思っていた憎しみは、ちっとも薄れなかった。
「姉を頼ることは、もうできません。エルデット家の当主は私です。サクサを守る姉も、今は私一人しかいない」
剣の柄を握る指に、力がこもった。
「私がしっかりしなければならないんです」
八咫烏は、しばらくニアを見ていた。
この屋敷に来て初日に感じた、寝たきりの強い魔力は、その姉とやらなのだったのだろう。
そうして、小さく息を吐いた。
「そりゃ、つらいだろうな」
ニアの肩が、かすかに動いた。
「でも、俺には関係ないよ」
目が上がる。
「お前の姉貴を襲ったのは俺じゃない。そいつの代わりに監禁されたり、切り刻まれたりする理由はこれっぽっちも無いんでな」
可哀想だとは思う。
だからといって、自分がこれから酷い目に遭うことを、仕方がないとは思えなかった。
「俺を逃がしたせいで、お前が困るってのも分かる。でも、だからって俺に一生捕まってろってのは、そりゃ無理な相談だ」
「……ええ」
ニアは頷いた。
「分かっています」
許してもらうために話したのではない。
話せば自分が何をしているのか、少しは整理できるかもしれないと思った。
けれど結局、目の前の男が憎い相手ではないことを、確かめただけだった。
それでも国益。
それでも、あの反応はモンストロのもの。
自分には責任がある。
ニアは剣を抜いた。
「ここで逃がすわけには、いきません」
「……そっか」
八咫烏が一歩、窓際から離れた。足の向きが変わる。先ほどまでの気だるさが、少しも残っていなかった。
「俺も、大人しく捕まるわけにはいかないんだよ」
八咫烏は口元に手を当てる。
何かが迫り上がってくる。
両者、言わずともそれが分かる。
————童子切安綱
あの奇妙な刀が出てくる。
ニアは彼から目を離さなかった。
「風水律・展開」
足元に風が走り、剣身へ集まった水が細い流れとなって刃を巡る。
————不思議と、剣を握ってみれば、迷いがなかった。
これでもう迷わなくてよくなる。
八咫烏は『モンストロ』だ。
姉の仇と同じ存在だ。
やめてと言ったのに、サクサに夢を見させた。
それは同時に、ニア自身にも、夢を見させたことになってしまった。
今度こそ、今回こそ、サクサの人生が少しでもよくなるかもしれない。
八咫烏なら何か違うかもしれない。
そう思わせたこの男に、ニアは怒りを抱いていた。
見当違いな怒りであると分かっている。
この逆恨みでさえ、非情な国命を全うするための都合の良い言い訳となった。
「今度こそ、抵抗しないでくださいね。八咫烏さん」
「断るね。生き汚いのが取り柄だって最近わかってきたんだよ」
八咫烏が口へ指を突っ込む。
ニアが大きく踏み込む。
————その時。
剣を握るニアの右手首を、誰かが掴んだ。
◆
ニアは反射的に、刃先を外へ逃がした。
「サクサ……?」
寝間着のまま、少女が立っていた。
呼吸が少し速い。両足は裸足だった。寝起きの髪が頬へかかり、その下を涙が伝っている。
サクサは姉の右手首を、両手で掴んでいた。
「起きていたのですか。駄目です、部屋へ――」
首を横に振る。
激しく。
「サクサ」
少女は、怒っていた。
眉を寄せ、唇を噛み、ニアの手を引き下ろそうとしている。
普段の困ったような笑顔は、どこにもない。
剣を下ろして。
この人に、そんなことをしないで。
声がなくても、何を訴えているのか分かった。
「危ないですから、手を離して――」
ニアの言葉が止まった。
サクサが、こちらを見ていた。
声のする辺りへ顔を向けているのではない。
少し右でも、肩の辺りでもない。
ニアの両目を、正面から見据えていた。
「……サクサ?」
彼女はわずかに顔を動かした。
サクサの顔も動いた。
視線が、外れない。
ニアの呼吸が止まった。
右手首を掴んだ手。
探ることも、袖に触れて辿ることもなく、まっすぐ伸びてきた手。
「貴方……」
声が揺れた。
「私が、見えているのですか?」
サクサはもう一度、首を振ろうとした。
今はそんなことより、剣を。
その人に向けた、その剣を————
そこで初めて、動きが止まった。
分かる。
姉の手が、どこにあるのか。
握っている剣が、どちらへ伸びているのか。
声を聞くより先に、分かっていた。
サクサは片手を離し、自分の目へ当てた。
暗いはずだった。
手で覆っても、瞼を閉じても、ずっと変わらないはずだった。
けれど今は、消えないものがある。
青い。
そう呼ぶべきものなのか、確信はなかった。
色など初めて見たからだ。
それでも、これまで知らなかった何かが、そこにあった。
姉の身体の中を、細い流れが巡っている。
右腕から剣へ。脚へ。顔へ。
とりわけ目元にある二つの淡い光を、自分は、ずっと見ていた。
「……見えるのですね?」
ニアがもう一度尋ねた。
サクサは目を押さえたまま、頷いた。
小さく。一度。
それから、何度も。
姉の輪郭さえ、ところどころが薄れている。
服の色も、髪の形も分からない。
普通の人に見える世界とは、きっと違う。
けれど、ニアがいる。
手を伸ばす前から、そこにいると分かる。
サクサの口が開いた。
やはり、声は出なかった。
涙だけが、次々に零れた。
ニアは膝をついた。
剣を鞘に収めることすら忘れ、手から滑り落ちる。
何か言おうとした。何が言いたかった。
唇は動いたが、あまりに多くの言葉であったからか、終ぞ言葉にはならず、
「………っ……!」
そのまま、サクサを抱き締めた。
少女の額が肩へ埋まる。
いつもなら触れて初めて分かる姉の腕が、
触れる前から近づいてくるのが分かった。
そこへ、知っている温もりが重なった。
サクサは姉の背中へ両手を回した。
ニアの服を握り、声のないまま泣いた。
怒っていたことは忘れていない。
それでも今は、この人がどこにいるのか分かることが、どうしようもなく嬉しかった。
◆
八咫烏は、開きかけていた口を閉じた。
喉へ伸ばしていた手も下ろす。
喉頭蓋まで迫っていた刀が、胃の中に戻っていく感覚。
危なかった。
主に自分の人生が。
けれど今は、そこを大声で主張する場面ではない。さすがに、それくらいの空気は読める男だった。
サクサがニアの肩から顔を上げる。
周りを見る。
回廊の壁には、ごく薄く何かが流れていた。窓の向こうは、遠いものほど曖昧になる。それでも、今まで何もなかったところに、何かがある。
では、八咫烏さんは————
さっき、声が聞こえた。
確かにここにいた。
サクサは顔を左右へ動かした。
見つからない。
ニアは、分かる。
壁も、床も、薄っすらと。
どれもこれも、自分が想像してい通りの形をしていた。
なのに、八咫烏だけがいない。
姉の服を握る指に、力が入った。
その時、頭に何かが触れた。
サクサが、びくりと肩を跳ねさせる。
「おっと」
八咫烏の声だった。
「悪い。そうか、俺だけ見えないのか」
目の前にいるらしい。
けれど、やはり何も分からない。
この人には、魔力がない。
三日目、ニアと並べられた手を思い出した。
温かくて、脈もある。
それでも魔力はないのだと、八咫烏は言っていた。
サクサが恐る恐る手を伸ばす。
八咫烏の袖に触れた。そこから辿ると、確かに腕があった。
「いるいる。どこも行ってねえよ」
今度は声を掛けてから、八咫烏が頭を撫でた。
いつもの、少し雑な撫で方だった。
何か分からないことがあっても、
分からないと言えた時に、こうしてくれた。
「よくやった」
その声に、サクサの顔が歪んだ。
「お前は俺を救ったぞ。いや、マジで」
軽い言い方だった。
けれど、途中で吐いた息だけは、心底ほっとしたものだった。
サクサは、八咫烏の袖を握った。
間に合った。
見つけられた。
その人自身の姿だけは、まだ、どうしても見えないけれど。
握った布の向こうに、先生はいた。
少女はまた泣いた。今度は、止めようとも思わなかった。
「……そんなに泣かれると、俺、何か言い間違えたかと思うんだけど」
サクサが首を横に振る。
何度も、何度も。
「なら、いいか」
八咫烏は笑って、ニアへ向き直った。
「と、いうわけで。何がきっかけかは知らんが…… サクサ、見れるようになったぞ、魔力」
「………」
ニアは拳を握った。
「……はい」
見えている。間違いなく、サクサは魔力を捉えている。
この世界で、八咫烏以外のものは全て見えている。
「じゃあ、さっきの発言、取り消せる?」
ニアはようやく、滑り落ちた剣を手に取る。
唇を噛み、掌を眺め、強く剣を握った。
嬉しい。
涙が出そうなほど嬉しい。
サクサが自分を見てくれる。
サクサが自分を見つけてくれる。
サクサが歩く度に何かにぶつかり、
毎日、体中に痣を作ることはなくなる。
サクサが他人と同じものを、
方法は違えど、同じように見ることができる。
サクサが、ようやく自分の人生を、歩めるかもしれない。
決めなければ。決めなければ、ならない。
恩人を守り、国に背くか。
恩人を売り、国に従うか。
「————私は……」




