第二話「名前は確か……あれれ、口から妖刀が」
「————危な……!」
本当に危なかった。
刃が頬の横を抜け、髪が数本、宙へ舞った。
ああ、俺の髪……
ニアが目を見開く。
避けるとは思わなかった、という顔だ。
奇遇だな。俺もだ。
すぐに横から次の一撃。
腰を落とすと、頭の上を剣が通った。
「ちょ、待っ————」
「お静かに」
「殺されかけてる奴に静かにしろって無茶だろ!」
右から来た刃をかわす。すると、水がうねり、剣が下から跳ね上がってきた。
そういうのは駄目だろ。曲がるなら言え。
文句を考えている間にも、身体は勝手に避けていた。
「なんで当たらないんだ……?」
「こちらが聞きたいのですが」
「だよな」
見えてはいる。でも、速い。
絶対に間に合わないと思うのに、なぜか間に合う。
首を引き、肩をずらし、足がちょうどいい場所へ収まる。
凄いぞ、俺。
どうやってるかは知らんが、その調子で頼む。
「……やはり、惜しいですね」
「何が?」
「これほど強いお方が、変性してしまったことです」
「じゃあ殺すなよ!」
「それとこれとは別問題です」
「一緒にしてくれ!」
気の毒そうな顔で、首を狙ってくる。
慰めるか斬るか、どっちかにしろ。できれば前者で。
「亜人や獣人の変性は珍しくありません。虫や獣、木や岩もモンストロになります。ですが、人間は極めて稀なのです」
「今それ説明する必要ある!?」
「貴方が元は人間だった可能性を考えています」
「まだ人間やってるよ!」
頬を刃が掠めた。
熱い。遅れて、血が顎を伝った。
ちゃんと痛い。残念ながら、夢ではなさそうだ。
「お気の毒に思います」
「今の傷、お前がつけたんだけど?」
「苦しまないよう努めています」
「まずその努力やめらんねぇかなぁ!?」
この女にとって俺は、不運にも怪物になってしまった誰からしい。
だから、せめて苦しまずに殺してあげよう、と。
早いんだよ。せめて治療とか挟んでくれ。
何でお見舞いより先に葬式の段取りが始まってるんだ。
「……ですが、貴方、会話が成立しすぎていますね」
「よく喋る方なんで」
「住民を襲わず、衛兵にも反撃していない。私の質問にも答えている」
「おう。いい奴だろ。帰して」
「お名前を教えていただけますか」
「帰す方向で話が進んでる?」
「身元が分かれば、一時拘束に切り替える理由になります。貴方ほどの実力なら、軍や学院に記録があるかもしれません」
剣先が胸へ迫る。
思わず手で払おうとして、慌てて引っ込めた。
いやいや、素手だって。調子に乗るな、俺の身体。
「つまり、思い出せればワンチャンある?」
「ワンちゃん……?」
その発音とその顔で、この女が何を想像しているかが分かった。
「犬は貴方を助けませんが……?」
「助かるかも、って意味!」
「不思議な方言ですね。結論としては、そうです。ただし、命の保証はできません」
あるのか。じゃあ、もう全部思い出そう。
名前も住所も初恋の相手も、
必要ならまとめて教えてやる。
今はどれも出てこないけど。
「一回、剣止めてくれない? 集中したいんだけど」
「市街地で変性者を自由にはできません」
「じゃあ、生き残りたけりゃ避けながら思い出せと?」
「理解が早くて助かります」
「助かりてえ〜……」
ただ、刃の行き先は少し変わった。
首だけではなく、肩や手首、脚を狙う一撃が増えている。
捕まえる気にもなってくれたらしい。
ありがとう。でも、できれば五体満足で捕まえてほしい。お願いばかりで悪いね。
「お名前は?」
「分からない!」
「本当に記憶がないのですか?」
「この状況でそんなキャラ作りする奴いるかねぇ!?」
「貴方を存じ上げませんので」
まだ疑うか。こっちは名前すら決まってないのに。
「出身地は?」
「日本!」
「聞いたことがありません。ご家族は?」
「牛乳二本!」
ニアの剣が、一瞬鈍った。
「……貴方は、牛だったのですか?」
「人間! 牛乳買ってこいって頼まれた記憶しかないの!」
「他には?」
「いま探してる!」
胸元が裂け、スーツの布が飛んだ。
聞いてるなら待て。
俺の布面積を減らしたって、記憶は増えねえぞ。
陰陽師。鬼。妖怪。術。
知っている言葉なら、いくらでも出てくる。
なのに、教えてくれた人の顔がない。
その人が俺を何と呼んでいたのかも――
ふと、何かが引っかかった。
声だ。
誰かが、俺を呼んでいる。
————君は今日から八咫烏だ。
遠い。女の声だった気がする。
それでも、何度も聞いた気のする響きだった。
ニアが踏み込む。
それどころではない、今聞いた言葉を反芻するように、
「――八咫烏」
口から漏れ出た言葉を前に、ニアの剣が止まった。
左目の、すぐ前で。
「……ヤタガラス……?」
ニアが聞き返す。
俺も、口にした言葉を頭の中でもう一度なぞった。
八咫烏。
「それが貴方のお名前ですか?」
分からない。だが、確かに俺と関係がある。
名前なのか。肩書きなのか。それとも————
「っ……?」
喉が、おかしい。
「八咫烏さん?」
口を押さえた。
硬いものが、奥からせり上がってくる。
吐き気はする。だが、明らかに吐くようなものじゃない。
何食ったんだ、俺。
昨日の飯くらい思い出しておけばよかった。
「ぉえ……ッ!」
咳と一緒に、唾液がこぼれた。血が混じっている。
喉が内側から押し広げられる。
ニアが一歩下がりつつ剣を構え直し、
「変性症状……?」
違う、と言いたい。
言いたいけど、ちょっと待って。
俺も初めてのやつだからこれ。
なになになに、何が起こってんの。
————コツン、と硬い何かが歯の内側に当たった。
たまらず口へ指を突っ込む。
掴めたので少し引く。
黒い柄が、出てきた。
ズルズルズルズルと、長物が口から出てくる。
「…………はい?」
ニアの間抜けな声が聞こえるが、俺の台詞だ。
今、口が使えたら絶対に言ってる。
古びた組紐を巻いた、刀の柄。
何度見てもそうだった。
ニアを見る。
「私に聞かないでください」
まだ聞いてないだろ。
聞こうとはしたけど。
仕方ない。抜くか。
このままじゃ会話もできないし、何より、ずっと気持ち悪い。
柄を握り直し、腕を引く。
「っ、ぐ……!」
腕を伸ばし、体を仰け反って、ようやく。
ずるり、と、俺の口から出てきた刀を引き抜いた。
ニアの顔から、どんどん表情が消えていった。
分かる。俺も今、自分の身体と距離を置きたい。
「げほっ……! あー、くそ……!なんだ、これ……!」
咳き込みながら、手元を見る。
日本刀だった。
反った刃は陽の光を返し、傷一つない。
口から出てきたにしては、立派すぎるものが出てきた。
どこに入ってたんだ。
俺の胃袋、縦長にもほどがあるだろ。
だが、握り直した瞬間、ふっと言葉が浮かんだ。
「……童子切」
指が柄に馴染む。
「童子切安綱」
鬼を斬った刀。
日本に古くから名を残す一振りだ。
知っている。
名前も、その由来も、なぜかすらすら出てくる。
俺の名前はあんなに苦労したのに。
持ち主より持ち物の情報が充実してるって、どうなんだ。
「……口から」
顔を上げると、ニアが俺を見ていた。
「うん……」
「剣が……」
「出たね……これ刀だけど」
彼女は自分の剣を見た。
次に俺の口。最後に、童子切。
彼女が何を考えているか、だいたい分かる。
言うな、言うなよ。絶対言うなよ。
そこは大人として、ぐっと飲み込んでくれ。
「気持ち悪……」
「はい言ったー!本人が一番気にしてんだよ!」
「申し訳ありません」
「今、一回敬語忘れたよな?」
「本当に気持ち悪いです」
「そこ直せって意味じゃねえよ」
謝れと言ったつもりが、丁寧に追い打ちされた。
この女、さっきから俺を傷つけるのが上手すぎる。
いやしかしこれ……まずいな。
人間だと言い張ったそばから、口で武装してしまった。
俺が向こうの立場なら、とりあえず距離を取る。
ニアが一歩下がった。
でしょうね。
「八咫烏さん。その武器と、お名前に関係は?」
「分からん。そもそも八咫烏が名前かどうかも怪しい」
「では、ひとまずそうお呼びします。ほかに手がかりもありませんので」
「お好きにどうぞ」
牛乳二本さん、と呼ばれるよりはいい。
俺の人生、今のところ候補がその二つしかない。
「それより、その剣ですが」
「分かってる。俺も説明が欲しい」
異世界へ来た。記憶が消えた。怪物扱いされた。
ここまでは、まだ文句を言う側でいられた。
口から刀を出した件は、俺もちょっと悪かった気がする。
いや、悪くはないか。びっくりさせてごめん、くらいだ。
「……勘弁してくれよ」
童子切を持ち直す。
ヤケに、落ち着く。
自然に、本当に自然に口から出た。
「久しいな、安綱」
……え??
なんで俺、刀に挨拶してんの???
「……?」
ほら、ニアもキョトンとしてるって。
恥ずかしいって。
それでもやっぱり、この刀は、手に馴染んでしょうがなかった。
げろげろげろ




