第一話「現代魔術師、異世界に落つはいいが、記憶も金も甲斐性もない」
————陰陽師は、今もいる。
千年前の御伽噺ではない。
現代日本にも、普通にいる。
テレビで悪霊退散を叫ぶ人々にも、
本物が混ざっているかもしれない。
俺の実家もそうだった。
平安の昔から千年以上、
人ならざるものを祓ってきた家である。
「……と、言われてもねぇ」
教室らしき場所で、俺は頬杖をついていた。
窓硝子には、寝癖の残った黒髪と眠たげな目が映っている。
千年分の神秘も、午後の眠気には勝てないようだ。
末裔がこれなのだから、先祖には申し訳ない。
人の暮らしのすぐ隣に、知らない世界は口を開けている。
幼い頃から、そう教わってきた。
ただし、向こう側へ落ちた時の挨拶までは、教わっていない。
◆
「変性反応! 最高位級だ!」
瞬きをしただけだった。
「モンストロだ!人間じゃない! 住民を下がらせろ!」
カンカンと鐘の音が、頭上から降ってくる。
窓硝子は消えていた。机も椅子もない。
代わりに目の前へ並んでいるのは、四本の槍だった。
「……どこだ、ここ」
石造りの家が並び、
赤茶けた瓦屋根の間を人々が逃げていく。
中世ヨーロッパ。
そんな言葉が浮かんだが、
感想を述べる場ではなさそうだった。
甲冑姿の男が、槍を握り直す。
その切っ先が、小さく震えていた。
怖いのは、こちらなのだが。
「ちょっと待って。これ、俺に向けてる?」
手を上げかけて、止まった。
袖が黒い。
制服ではなく、着崩したスーツだった。
足元には白いスニーカー。
どちらも着た覚えがない。
額へ触れると、
目元まで垂れていた前髪まで左右に分かれていた。
場所だけではない。
自分にも、何かが起きている。
「動いたぞ!」
「そりゃ動くだろ。人を何だと思ってんだ」
騒いでいた男たちが、黙った。
槍は下がらない。むしろ、一本が半歩近づいてきた。
「……喋れるのか?」
「今のところ。そっちも話せるなら、まず――」
「名を名乗れ! ロンドールの者ではないな!」
馬鹿にしやがって、ここがどこかはともかく、
名乗るくらいならできる。
「俺は…………あれ」
できませんでした。
口を開けたまま、次の音を待つ。
出てこない。
陰陽師の家に生まれた。
千年以上続く家系だ。
怪異について学んだ。
霊気と妖気の違いも、穢れを避ける作法も分かる。
では、その家は何という名前だったか。
「…………」
誰に教わった。
どこへ帰ればいい。
「どうした!」
「……ちょっと待て。今、こっちも揉めてる」
自分と。
何でもいい。家族の顔でも、昨日の晩飯でも。
記憶を探ろうと目を閉じると————
一つだけ、妙にはっきりした言葉が浮かんだ。
『帰りに牛乳買ってきて。二本』
それきりだった。
誰に頼まれたのかは分からない。
声だったのか、文字だったのかも曖昧だ。
二本。そこだけは間違いない。
「……人生、ほかにもあっただろ」
名もなき陰陽師に、牛乳二本の使命だけが残った。
申し訳ないが、今のところ達成できそうにない。
「何を思ってこの記憶を残したんだ、俺……」
通りの向こうで、トカゲ頭の男が転んだ子供を助け起こしていた。
思わず、そちらを見る。
角の生えた女。豚の顔をした大男。
人間ではないものが、人間と一緒に逃げている。
誰もそちらへ槍を向けない。
どうやらこの街では、あちらが普通らしい。
「……異世界転移、で仮置きするか」
「何を言っている!」
「あー、名前は思い出せない。日本から来たんだけど————」
言葉を切った。
知らない力が、近づいてくる。
霊気でも妖気でもない。それでも、方角は分かった。
屋根へ目を向けた、一拍後。
「来た!」
衛兵が叫んだ。
紺色の裾が翻る。人影が屋根を渡り、最後の一つを蹴った。
十メートルはある高さから、そのまま落ちてくる。
女性の影だった。
「おい、そんな距離から落ちたら————」
思わず手を伸ばしたが、無用な心配だったようだ。
長衣がふわりと膨らみ、落下の勢いだけが消える。
少女は音もなく着地した。
猫でも、もう少し気を遣う。
「……魔法かよ」
青緑の瞳が、こちらを向いた。
淡い灰銀の髪。紺の長衣。
その下に白銀の軽装鎧が覗く。
綺麗な女だった。もう少し眺めていたいところだが、目はすぐに腰の剣へ戻った。
衛兵たちより無造作に立っている。
なのに、一番近づきたくない。
「ニア・エルデット。到着しました。報告を」
「対象は人型! 変性値は測定不能! 負傷者はいません!」
「避難を続けてください」
男たちの顔に、初めて安堵が浮かんだ。
話の分かる上司が来たのなら、こちらとしても助かる。
ニアと名乗った少女が、こちらへ向き直る。
「あまり抵抗しないでくださいね。苦しまないよう、首を刎ねますから」
助からなかった。
「いらねえよ、その気遣い」
「……会話ができるんですね」
「アンタが話しかけたんだろ」
「返答は想定していませんでした」
丁寧なのは、言葉遣いだけらしい。
ニアが右目へ手をやった。
そこへ未知の力が集まり、
瞳に小さな幾何学模様が浮かぶ。
模様が回り、赤く染まる。
彼女の眉が、わずかに寄った。
「魔力が……ない?」
初めて、予定外のものを見た顔になった。
それが俺にとって良い知らせかどうかは、次の質問で分かった。
「貴方、人間ですか?」
「ひでぇ質問だな。人間だよ」
「人間には必ず魔力があります」
「ない場合は?」
「人間ではありません」
とんでもない悪口だ。
名前すら思い出せない今、人間以外の何を名乗ればいいのか、こちらも困る。
「事情を説明しても?」
「どうぞ」
「気づいたらここにいた。来た方法は分からない。記憶もない。魔力って言葉も、今聞いた」
並べてみると、信用できる部分がなかった。
自分で聞いても、もう少し設定を詰めてから来いと言いたくなる。
だが、ニアは笑わなかった。
むしろ少し、気の毒そうな顔をした。
「急速な魔力変性で、記憶を失う事例はあります」
「……変性?」
「魔力が変質し、思考や衝動を制御できなくなることです。そうなった人や動物を、モンストロと呼びます」
説明したつもりが、診断されていた。
「でも、その魔力が俺にはないんだろ?」
「はい。極めて異常です」
「だから、誤解じゃないかって話を」
「測定器を壊すほどの変性反応が出ています。原因が分からないからといって、安全とは判断できません」
なるほど正論。
彼女の目が、一度だけ俺の背後へ動いた。
最後に残った衛兵が、老人を屋内へ押し込んでいる。
扉が閉じた。
「……まだ何もしてないぞ、俺」
「はい」
ニアの手が、剣の柄へ掛かる。
「ですから、今のうちに」
澄んだ音が響いた。
剣先に生まれた水が、刃を伝う。
綺麗だった。
これで殺されるのでなければ、仕組みを聞いてみたかった。
もう悲鳴は聞こえない。通りには二人だけが残っていた。
話を聞いてくれていたのは、避難が終わるまでのことだったらしい。
「……参ったな」
「貴方をモンストロと判断し、討伐します」
「人違いだった場合の窓口ってどこ?」
「……申し訳ありません」
「謝るくらいなら、もう少し迷ってくれよ」
ニアが腰を落とした。
思わず一歩、足を引く。
そこで、自分の動きがおかしいことに気づいた。
逃げるなら、もっと大きく下がればいい。
なのに身体は、剣の届く距離のすぐ外を選んでいた。
剣先。肩。踏み込む足。
どこを見ればいいか、考えるより先に分かっている。
名前も思い出せないくせに。
————俺は、どうしてこれを見慣れている。
「異世界って……」
靴底の下で、小石が鳴った。
「もうちょっと、歓迎されるもんじゃなかったっけ」
風が唸る。
次の瞬間、ニア・エルデットの姿が視界から消えた。
しかし、自分でも面白くなってしまうほど
————恐怖がなかった。
使い古されたネタです。
作者がストレス耐性ないので、基本主人公が苦戦することなくサクサク進めていきます




