残された想い
自宅は、今朝も見たはずなのに、長らく帰ってきていない場所のような気がした。
彩葉は帰宅するなり律を連れて、律の部屋へと直行する。そんな彩葉の様子を尻目に、智也は、帰宅途中で購入した冷却枕を冷凍庫へと運び込んでいた。
智也が彩葉の様子を窺うと、彩葉は律を丁寧にベッドに寝かせ、上から布団をかけた。そしてその場に座り込み、律の居た病室と同じように律の手を握っている。
その様子を見て、智也は思わず冷蔵庫へと走る。冷凍庫の氷をビニール袋に詰めて、即席の氷嚢を作った。今の様子では、このまま彩葉は律を腐らせてしまいそうな気がして、気が気でなかった。
「彩葉」
智也の呼びかけに、彩葉は答えない。
「冷房つけるぞ」
一声かけて、エアコンの設定温度を最低まで下げる。氷嚢を持って律のベッドへと向かい、律にかけられた布団をめくった。
「捲らないでよ!律が冷えちゃうでしょ!」
彩葉はこれまで見たことのないほどの剣幕で、智也へと吠える。
こいつは一体何を言っている。智也は内心、そう怒鳴りたくなる気持ちを抑えて歯を食いしばって言葉を飲み込んだ。
「……冷やすんだよ。お前こそ、律が腐っても良いのか?」
「腐らない。律は死んでない」
「死んだよ。死亡診断書もここにある」
言いたくない言葉を口にする。智也は、彩葉のことをずるいと思ってしまった。
「温めれば、きっと良くなる」
「腐るだけだ。むしろ状態が悪くなるからやめろ」
「ふざけたこと言わないで!」
「お前こそいい加減にしろ!!」
ついに怒鳴ってしまった。智也は、それだけはしてはならない、と頭では思っていたが、現実を見ようとしない彩葉に苛立ちが募っていた。
二人は肩で息をしながら、互いの顔を無言で見つめ合う。
「お前は、律に自分が腐っていくのを見せたいのか?本当に律のことを想うなら、どうすべきかちゃんと考えてくれ」
「だって……だって、律は」
「俺だって、信じたくない」
こんなことしか言えない自分が嫌になる。
「頼むから、自分のことも大切にしてくれ。律もきっとそう願ってる」
「……やめてよ、ずるいよ、そんなの」
彩葉がその場で泣き崩れる。
智也は寝室のクローゼットから、毛布を取り出して彩葉にかける。氷嚢をタオルで包んで律のお腹に載せたあと、その上から布団をかけ直した。
「ここに居ていいから、せめて毛布をかぶっていてくれ」
智也はそれだけ伝えて、律の部屋を出る。
座りもせず、リビングをうろつき、時折り壁に凭れ掛かる。そして深いため息をついたあと、スマホを取り出した。
検索履歴から、目的のホームページを見つける。その問い合わせ窓口の電話番号を入力し、電話をかけた。
「はい、こちら深代木葬舎です」
スマホの向こうから、若く落ち着いた女性の声が聞こえる。智也は、無意識のうちにほっとして、少し落ち着きを取り戻した。
「すみません、本日、息子を亡くしまして」
「左様でございますか。この度は御愁傷様でございます」
受け答えは淀みなく、とても聞きやすく優しい声をしていた。ただ、どこか機械的で冷たい印象だ。
「ありがとうございます。えっと、それで、以前ネットで問い合わせていたのですが、一度お伺いできないか、と」
「はい、問題ございません。本日お越しになりますか?」
智也は、彩葉のいる、律の部屋の方をちらりと見る。
「いえ、今日はちょっと……妻の状態が良くないので」
「なるほど、心中お察しいたします」
「明日の十二時頃でも良いでしょうか?」
「はい、問題ございません。では、明日の十二時頃にご来場をお待ちしております。ところで、葬儀社の手配は済ませられましたか?」
「いえそれが、今は自宅に連れ帰っていまして、まだ何も……」
「左様でございますか。よろしければ、弊社と提携しております葬儀社を手配いたしましょうか?」
「それは助かります。けれど、まだ深代木葬舎さんを利用させてもらうかは決めかねておりまして」
「そちらも問題ございません。あくまで提携先のご紹介ですので、弊社をご利用なさらない場合でも、今回手配させていただく葬儀社へ直接ご相談いただければ結構です」
事務員の返答には、引き止めようとする様子も、不快感を示す気配も、全くなかった。寄り添うことなく、しかし気が利くような。その淡白な親切さに、智也は救われるような、同時に少し突き放されるような奇妙な感覚を覚えた。
「そうなんですね。それは大変助かります」
「では、葬儀社から橘様へ連絡し、お伺いさせていただくよう手配いたします。本日、律様をお預かりする形で手配してよろしいでしょうか?」
「いえ、それも、本日はちょっと……」
「承知いたしました。ではその旨を伝えて手配させていただきます。このあと、葬儀社から連絡いたしますので、ご対応いただけますか?」
「分かりました。ありがとうございます」
「その際に、葬儀社から、お預かりに伺う日時を確認するよう伝えておきますね」
「それは助かります」
「では明日、弊社にてお待ちしております」
「よろしくお願いします」
「失礼いたします」
電話を切って、智也は深く息を吐く。とりあえずどうにかなりそうだ。スムーズに、過不足なく決まるやり取りに、少し心が落ち着いた。
心の重荷が少しだけ軽くなった気がして、智也は無性にタバコが吸いたくなった。律が生まれてからというもの、一度も吸っていない。その理由を疲れた頭でぼんやりと考える。
「あぁ、何かに逃げたいんだ」
誰にも届かないことを良いことに、情けない言葉を独り呟く。彩葉が律の部屋から出てくる気配はない。
朝に付けたテレビがずっと流れ続けている。




