未来を失った日
その日は、憎たらしいほどに晴れ渡った空だった。白い病室に、明るい日の光が差し込む。
「律」
普段の柔らかな面影がないほどに、泣き腫らした目をした橘彩葉は、愛する我が子からの返事を求めた。
「律、もう朝だよ」
ベッドの上で、病で痩せ細った橘律の顔は、眠っているときと変わらない。閉じた瞼も、少し開いた唇も、ずっと見てきたものだった。
握った手を両手で包み、指先を擦る。
「冷たいよ。ちゃんとお布団かけないと」
看護師が直した掛け布団を、彩葉はもう一度、律の肩まで引き上げた。
「帰ろう。もう病院、終わったんでしょう?」
返ってくるはずのない答えを求めて、彩葉は何度も問いかける。
「おうち帰って、元気になったら公園行こうね。自転車も練習するって言ったでしょ。補助輪、外すんだよね」
ただひたすら、独り語りのように、彩葉は何度も話しかける。
珍しく無精髭を残したままの橘智也は、ベッドを挟んで彩葉の反対側に立ち、ただ無言で、律の前髪を指で撫でつける。
「一年生になったら、黄色い帽子かぶって……ランドセル、まだ決めてなかったね。何色がいい?」
律は虫を見つけると、こちらが止めるより先にしゃがみ込んだ。花壇の隅に小さな蕾を見つけただけで、彩葉の手を引いて戻った。
病院では、魚の煮付けを箸で端へ追いやった。抜けた髪を掌に載せて、智也の頭と見比べ、『パパとおそろい』と笑っていた。
けれど、いつも笑顔だった訳ではない。
治療室へ入る前には泣き、彩葉の服を掴んで離さなかった。嫌だ、帰りたいと何度も訴えた。彩葉が、律の隣で泣いていた日には、動かしにくくなった指を伸ばし、頬に触れようとしてくれた。
「まだ、何もしてない」
彩葉の口から、掠れたようなか細い声が漏れた。
「もっと食べられるもの、作れたかもしれない。もっと遊んであげられた。あのとき怒らなければよかった。病院も、ほかに……」
「彩葉」
「私、お母さんなのに」
智也の呼びかけた声は、彩葉の悲痛な声にかき消された。
温めれば戻る気がした。温めていれば、そのうち指を握り返して、眠そうに目を開ける気がした。彩葉はそう思って、律の手を擦り続ける。
医師と看護師は少し離れた場所に立っていた。やがて看護師が、一歩だけ近づいて言う。
「橘さん。もう少ししたら、お身体をお運びする準備をさせていただきます」
「……ええ、分かりました。それは」
智也が、話しかけた看護師の方へと向かった。
「どこに?」
彩葉は律の手を胸元へ引き寄せ、顔を上げずにそう言った。
「この後は、搬送をお願いする葬儀社が決まりましたら――」
「搬送先は……」
智也はそう呟き、言葉を失い、何かに気付いたように、そのまま動かなくなる。
「連れて帰ります」
彩葉は顔を上げると、ただ看護師の目を見て、力強くそう言った。
「家に。律を部屋に連れて帰ります」
「ああ」
それを聞いて、我に返ったのか、智也はすぐに頷いた。
「連れて帰ろう」
「違う」
智也の言葉に、彩葉は首を振った。
「そうじゃない。このまま。ずっと家にいるの。私が見てるから。ご飯も着替えも、私がするから」
あまりにも悲痛なその言葉に、誰も返答することができなかった。彩葉が握り続けている律の掌は、ずっと冷たいままだ。
後から来た看護師が、逝去後の処置をしようと律へ近付いた。
「触らないで!」
彩葉が律の身体へ覆いかぶさって叫ぶ。
「まだこの子、ここにいるから。私が離したら、一人になっちゃうから」
智也は彩葉の肩へ手を伸ばそうとしたが、触れる直前で止まり、その手を自分の口元へ押し当てた。
「準備の間だけ、お身体から離れていただけますか」
「嫌です」
「彩葉」
「嫌」
智也が声をかけても、彩葉は律に覆いかぶさったまま、がんとして動こうとしない。
看護師も、医師も黙り、ただ時間だけが進む。
やがて彩葉は、顔を上げると、律の指を一本ずつ確かめるように撫でた。爪の形も、小さな関節も、掌の線も、確かめるように何度も何度も触れる。
「ごめんね」
何への謝罪なのか、彩葉は自分でも分からなかった。けれど、その言葉は溢れ出る涙と共にこぼれ落ちる。
そんな彩葉を、智也は後ろから抱きしめ、宥め続けた。
長い時間が過ぎたあと、少し気が落ち着いたのか、握り続けていた律の手をそっと布団の上へ戻す。指先が離れた瞬間、彩葉は空になった掌を見つめ、強く握り締めた。
看護師が処置を終え、お気に入りのパジャマに身を包んだ律を見て、彩葉の目から再び静かに涙がこぼれ落ちた。
医師から死亡診断書が手渡される。軽いはずのそれは、智也には酷く重く感じられた。彩葉はそれに見向きもせず、着替えた律を抱き上げる。
二人は深く一礼する看護師に見送られ、自分達の車へと乗り込んだ。
「律くん、お疲れ様でした。お家まで、気をつけて帰ってね」
帰り際の、看護師の優しい声が、智也の胸に刺さる。
数ヶ月間、張り詰めた空気と医療機器の音の中に閉じ込められていた律が、ついに病院の敷地を出て、懐かしい我が家へと向かう長い帰路についた。




