↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの日、一本の木を植えた  作者: 泣き癖
未来へ贈る命

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/17

未来を失った日

 その日は、憎たらしいほどに晴れ渡った空だった。白い病室に、明るい日の光が差し込む。

「律」

 普段の柔らかな面影がないほどに、泣き腫らした目をした橘彩葉は、愛する我が子からの返事を求めた。

「律、もう朝だよ」

 ベッドの上で、病で痩せ細った橘律の顔は、眠っているときと変わらない。閉じた瞼も、少し開いた唇も、ずっと見てきたものだった。

 握った手を両手で包み、指先を擦る。

「冷たいよ。ちゃんとお布団かけないと」

 看護師が直した掛け布団を、彩葉はもう一度、律の肩まで引き上げた。

「帰ろう。もう病院、終わったんでしょう?」

 返ってくるはずのない答えを求めて、彩葉は何度も問いかける。

「おうち帰って、元気になったら公園行こうね。自転車も練習するって言ったでしょ。補助輪、外すんだよね」

 ただひたすら、独り語りのように、彩葉は何度も話しかける。

 珍しく無精髭を残したままの橘智也は、ベッドを挟んで彩葉の反対側に立ち、ただ無言で、律の前髪を指で撫でつける。

「一年生になったら、黄色い帽子かぶって……ランドセル、まだ決めてなかったね。何色がいい?」

 律は虫を見つけると、こちらが止めるより先にしゃがみ込んだ。花壇の隅に小さな蕾を見つけただけで、彩葉の手を引いて戻った。

 病院では、魚の煮付けを箸で端へ追いやった。抜けた髪を掌に載せて、智也の頭と見比べ、『パパとおそろい』と笑っていた。

 けれど、いつも笑顔だった訳ではない。

 治療室へ入る前には泣き、彩葉の服を掴んで離さなかった。嫌だ、帰りたいと何度も訴えた。彩葉が、律の隣で泣いていた日には、動かしにくくなった指を伸ばし、頬に触れようとしてくれた。

「まだ、何もしてない」

 彩葉の口から、掠れたようなか細い声が漏れた。

「もっと食べられるもの、作れたかもしれない。もっと遊んであげられた。あのとき怒らなければよかった。病院も、ほかに……」

「彩葉」

「私、お母さんなのに」

 智也の呼びかけた声は、彩葉の悲痛な声にかき消された。

 温めれば戻る気がした。温めていれば、そのうち指を握り返して、眠そうに目を開ける気がした。彩葉はそう思って、律の手を擦り続ける。

 医師と看護師は少し離れた場所に立っていた。やがて看護師が、一歩だけ近づいて言う。

「橘さん。もう少ししたら、お身体をお運びする準備をさせていただきます」

「……ええ、分かりました。それは」

 智也が、話しかけた看護師の方へと向かった。

「どこに?」

 彩葉は律の手を胸元へ引き寄せ、顔を上げずにそう言った。

「この後は、搬送をお願いする葬儀社が決まりましたら――」

「搬送先は……」

 智也はそう呟き、言葉を失い、何かに気付いたように、そのまま動かなくなる。

「連れて帰ります」

 彩葉は顔を上げると、ただ看護師の目を見て、力強くそう言った。

「家に。律を部屋に連れて帰ります」

「ああ」

 それを聞いて、我に返ったのか、智也はすぐに頷いた。

「連れて帰ろう」

「違う」

 智也の言葉に、彩葉は首を振った。

「そうじゃない。このまま。ずっと家にいるの。私が見てるから。ご飯も着替えも、私がするから」

 あまりにも悲痛なその言葉に、誰も返答することができなかった。彩葉が握り続けている律の掌は、ずっと冷たいままだ。

 後から来た看護師が、逝去後の処置をしようと律へ近付いた。

「触らないで!」

 彩葉が律の身体へ覆いかぶさって叫ぶ。

「まだこの子、ここにいるから。私が離したら、一人になっちゃうから」

 智也は彩葉の肩へ手を伸ばそうとしたが、触れる直前で止まり、その手を自分の口元へ押し当てた。

「準備の間だけ、お身体から離れていただけますか」

「嫌です」

「彩葉」

「嫌」

 智也が声をかけても、彩葉は律に覆いかぶさったまま、がんとして動こうとしない。

 看護師も、医師も黙り、ただ時間だけが進む。

 やがて彩葉は、顔を上げると、律の指を一本ずつ確かめるように撫でた。爪の形も、小さな関節も、掌の線も、確かめるように何度も何度も触れる。

「ごめんね」

 何への謝罪なのか、彩葉は自分でも分からなかった。けれど、その言葉は溢れ出る涙と共にこぼれ落ちる。

 そんな彩葉を、智也は後ろから抱きしめ、宥め続けた。


 長い時間が過ぎたあと、少し気が落ち着いたのか、握り続けていた律の手をそっと布団の上へ戻す。指先が離れた瞬間、彩葉は空になった掌を見つめ、強く握り締めた。

 看護師が処置を終え、お気に入りのパジャマに身を包んだ律を見て、彩葉の目から再び静かに涙がこぼれ落ちた。

 医師から死亡診断書が手渡される。軽いはずのそれは、智也には酷く重く感じられた。彩葉はそれに見向きもせず、着替えた律を抱き上げる。

 二人は深く一礼する看護師に見送られ、自分達の車へと乗り込んだ。

「律くん、お疲れ様でした。お家まで、気をつけて帰ってね」

 帰り際の、看護師の優しい声が、智也の胸に刺さる。

 数ヶ月間、張り詰めた空気と医療機器の音の中に閉じ込められていた律が、ついに病院の敷地を出て、懐かしい我が家へと向かう長い帰路についた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。