苗
半年という時間は、長いようで短かった。恒一にとって、それは妻のいない生活に慣れるための時間ではなかった。
朝起きて、二人分の味噌汁を作りかけて手を止める。洗濯物を干しながら、玲子がよく使っていた薄緑のスカーフがもうないことに気づく。夕方、庭の鉢植えに水をやりながら、枯れた枝を切っていいものか迷う。そんな小さな不在を、一つずつ確かめる時間だった。
深代木葬舎から連絡があったのは、梅雨に入る少し前のことだった。
「高橋様。深代木葬舎の藤崎です」
電話口の藤崎の声は、以前と変わらず落ち着いていた。
「玲子様の自然還元が完了し、確認も終わりました。土壌の返却について、日程をご相談させてください」
恒一は受話器を握ったまま、しばらく黙った。
「……そうですか」
半年経ったのだと思った。あの日、還元壁の中へ収められた棺。白い壁。閉じる扉。美咲が言った「またね」という声。それらが、急に近くへ戻ってきた。
「お受け取りは、こちらへお越しいただく形となります」
「分かりました、娘と伺います」
返却の日、深峰村の空は薄く曇っていた。雨は降っていない。山は湿った匂いを含み、道路沿いの木々は青々と葉を広げている。美咲は助手席から窓の外を見ていた。
「お母さん、こういう天気好きだったね」
「晴れよりか」
「うん。葉っぱが濃く見えるからって」
恒一は小さくうなずいた。深代木葬舎に着くと、玄関前の小さな植え込みに若い枝が伸びていた。初めて来た時には気づかなかった。以前からあったのか、最近植えられたものなのかは分からない。ただ、それが妙に目に残った。
「高橋様」
受付で藤崎が立ち上がる。
「お待ちしておりました」
「お世話になります」
恒一は頭を下げた。藤崎は軽く一礼し、書類を一枚差し出した。
「内容をご確認のうえ、こちらへご署名ください」
前回同様、事務的な言葉だが、その声は急かさずに待ってくれる。恒一が文字を読み終えるまで、藤崎は静かに待っていた。書類には、返却日、返却量、受領者名、今後の取り扱いについての注意が簡潔に記されている。恒一は署名欄に自分の名前を書いた。以前より、少しだけ手が震えなかった。
奥の扉が開き、朝霧が現れた。
「高橋様、本日はお越しいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとうございます」
朝霧とともに夏目が台車に木箱を乗せて運んでくる。想像より遥かに大きいサイズだ。木箱には小さな紙片が添えられ、そこに高橋玲子の名前が丁寧な字で記されていた。恒一の呼吸が浅くなる。
「こちらが、玲子様の土壌です。お引き取りは全量を希望とのことでしたので、車までお運びいたします」
恒一は木箱から目を離せなかった。思わず息を呑む。
「……こんなに、あるんですね」
「はい。半年かけて還元された、玲子様のすべてです。中の土壌は、運びやすいよう内袋に小分けしております。木箱ごと運び出す必要はありません。ご自宅では箱を開け、必要な分ずつ取り出してお使いください」
「なるほど、それはありがとうございます」
恒一はそっと木箱へ手を添えた。木越しに温もりが伝わることはない。それでも、半年ぶりに玲子を迎えに来たのだと、ようやく実感が湧いた。
「……玲子」
小さく声がこぼれた。美咲が隣で口元を押さえる。泣いてはいなかった。ただ、目が赤くなっていた。
「お母さん、帰ってきたね」
「ああ」
骨壺ではない。遺影でもない。触れれば温度があるわけでも、声が返るわけでもない。それでも、どこにもいなくなったわけではないと、今は思えた。朝霧は二人の様子を見て、少し間を置いた。
「この後の使い方は、ご家族でお決めください」
「はい」
「皆様が納得できる場所へ還してあげてください」
恒一は顔を上げた。
「実は、もう決めています」
「そうですか」
「妻が育てていた木があります。庭の端にある、名前もよく分からない木です。花もあまり咲かない。けれど、玲子がずっと気にしていた木で」
美咲が微笑んだ。
「お母さん、『これはまだ若いから、これからよ』って言ってたんです」
美咲の言葉に合わせて、恒一は頷き、続ける。
「その根元へ、還そうと思います。あいつが残していったもののそばが、一番いい気がして」
朝霧はゆっくりうなずいた。
「良い選択だと思います」
外へ出ると、山の風が湿った匂いを運んできた。
朝霧と夏目が台車を車の後ろまで運び、恒一も加わって三人で木箱を荷室へ載せた。車に木箱を積み込んだあと、美咲は朝霧の方を振り返る。
「朝霧さん」
「はい」
「母は、ここでよかったと思います」
「……ありがとうございます」
朝霧は少しだけ目を伏せて、静かに頭を下げた。恒一も頭を下げる。
「ありがとうございました。妻を、丁寧に預かっていただいて」
「こちらこそ、玲子様の、そして皆様の大切な時間をお預けいただき、ありがとうございました」
深くお辞儀する深代木葬舎の三人を背に、車を発進させる。
帰り道、二人はあまり話さなかった。沈黙は重くは感じない。後部座席いっぱいに置かれた木箱が、車が揺れるたび静かに軋んだ。それが不思議で、少しおかしくて、少し寂しかった。
家に着くと、恒一は車の後部ハッチを開けた。朝霧に言われた通り、木箱はそのまま荷室へ残す。蓋を開けると、中には麻の内袋が整然と並んでいた。
一つ目の麻袋を抱え、庭へ向かう。庭の土は雨を待つように柔らかく湿っていた。庭の端には、玲子が大切にしていた木が立っている。背は高くない。幹も太くない。けれど、枝先には新しい葉がいくつも出ていた。
「この木、結局なんの木なんだろうね」
美咲がしゃがみ込みながら言った。
「知らん」
「お母さんも、ちゃんとは知らなかったと思う」
「そんなものを育てていたのか」
「お母さんらしいじゃん。名前より、ちゃんと生きてるかの方が大事って言いそう」
恒一は少し笑った。
「そうだな、言いそうだ」
二人で根元の土を掘った。深く掘りすぎず、木を傷つけないように。
美咲が園芸用の小さなスコップで根元の土を寄せる。恒一は木箱の中から麻袋の一つを両手で抱え、庭へ運ぶ。麻袋の口をほどくと、中には黒く、きめ細かな土が納められていた。指先で触れれば、ほろりと崩れそうな柔らかさだった。見た目は、森の中で見かける黒土のようだ。
「お母さん。帰ってきたよ」
恒一は袋を静かに傾けた。
土が静かに根元へ落ちる。音はほとんどしない。風が葉を揺らす。玲子が笑っているようだ、とは言わなかった。そんな都合のいいことを言えば、逆に嘘になる気がした。ただ、玲子が好きだったもののそばに、玲子を還している。その事実だけで十分だった。
「玲子」
恒一は低い声で言った。
「これからも、よろしく頼む」
美咲が隣で笑った。
「それ、お母さんに頼むこと?」
「あいつは世話焼きだったからな」
「確かに」
二人は土をならし、水をかけた。水が土に染み込んでいく。
その後、何度か車と庭を往復し、一袋ずつ、玲子を木の根元へ還していく。二人は土を広げながら、浅く混ぜ合わせていく。木箱の中の麻袋が、一つ、また一つと減っていく。
それを見ても、恒一は以前ほど怖くなかった。空になったから終わりなのではない。別の場所へ移しただけだと思えた。
「庭、まだ少し空いているよね。ここに新しい木を植えない?」
「そうだな、暖かくなったら新しい苗も植えよう。母さんなら、きっと増やしそうだ」
恒一の言葉に、美咲は小さく笑ってうなずいた。
二人は並んで木を見上げる。風に揺れる若い葉は、雨を待つように静かに揺れていた。玲子が残したものは、思い出だけではない。この庭にも、これから育っていく時間にも、きっと息づいていくのだろう。
「今度、ここでお茶でも飲むか」
恒一が言った。
「庭で?」
「母さんが、元気な時に来いと言っていただろう」
「来いっていうか、家だけどね」
美咲は涙を拭きながら笑った。
「でも、いいね。お弁当も作ろう」
「卵焼きはお前が作れ」
「お父さんも練習してよ」
「……考えておく」
曇り空の下で、二人はしばらく木を見ていた。特別な奇跡は起きなかった。花が咲くことも、鳥が舞い降りることもない。ただ、若い葉が風に揺れていた。それだけで、今はよかった。
数日後、朝霧は深代木葬舎の玄関前を掃いていた。返却を終えた記録を確認し、深代村の植樹予定表に目を通し、いつものように次の相談の準備をする。藤崎が受付から顔を出した。
「朝霧さん、十時から相談予約です」
「分かりました」
「初回相談です。木葬を希望しているかは、まだ不明です」
「はい」
朝霧は箒を壁に立てかけた。
「相談室の準備をします」
藤崎は一度頷き、淡々と付け加える。
「お茶は温かいものにします。ご高齢の方がいらっしゃるようなので」
「お願いします」
朝霧は相談室へ向かった。窓辺の小さな観葉植物の葉に、朝の光が触れていた。
ここへ来る人たちは、皆、何かを失っている。けれど、何を選ぶかは人それぞれだった。墓へ入る人もいる。海へ散る人もいる。納骨堂で眠る人もいる。木となって残る人もいる。朝霧の仕事は、そのどれかを正解にすることではない。残された人が、自分たちの言葉で別れを選べるようにすることだった。
玄関のチャイムが鳴る。藤崎の声が受付から聞こえた。
「おはようございます。ご予約の方ですね」
朝霧はゆっくり息を整え、相談室の扉を開けた。新しい物語が、また静かに始まろうとしていた。




