最後の約束
深代木葬舎を訪れた恒一の表情は、初めて来た日よりも静かだった。迷いが消えたわけではない。妻を見送るという事実は、どれだけ考えても軽くならない。ただ、何を怖がっているのかは分かっていた。
霊柩車から降ろされた玲子の棺が、出迎えてくれた朝霧ともう一人のスタッフ、夏目陸の手で台車に載せられ、静かに館内へ運ばれていく。朝霧は、前回の白衣ではなく、夏目と共に黒い礼服と白い手袋を着用していた。
「高橋様」
受付で藤崎が立ち上がった。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます」
恒一は深く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「必要事項をご確認します。こちらへご記入ください」
藤崎の声はいつも通り淡々としていた。差し出されたペンは恒一が持ちやすいようにそろえられている。
書類には、故人の氏名、続柄、同意の確認、植樹の有無が並んでいる。恒一は一つずつ目を通し、ゆっくり記入した。名前を書くたびに、玲子がもう書類に署名できない人になったのだと思い知らされる。
渡された書類を受け取り、内容を藤崎が確認する。
「還元後の土壌はお引き取りを希望、でよろしいですね」
「はい」
「お引き取りの場合は、土壌をどのようにされるかはご遺族様に委ねられますが、ご自宅での植樹などのご相談は可能です。その際は、代表の朝霧に遠慮なくお声掛けください」
「それは非常に助かります。ありがとうございます」
藤崎は書類をそろえ、確認印を押した。
「手続きは以上です。この後、準備が出来次第、還元ホールへご案内します」
奥の廊下から、朝霧が歩いてきた。
「高橋様」
朝霧は静かに頭を下げた。
「玲子様は、こちらでお預かりします」
「……お願いします」
恒一の声は少し掠れた。美咲も頭を下げる。
「母を、よろしくお願いします」
「はい」
朝霧は短く答えた。それ以上の言葉はなかった。慰めも、励ましもない。ただ、その短い返事だけで、引き受ける重さを分かっているように聞こえた。
暫くの間、受付前の待合所のソファで美咲と二人で待っていると、受付から藤崎が歩いて近付いてくる。
「高橋様、ご準備が出来ましたので、こちらへどうぞ」
二人は藤崎に案内され、先日見た還元ホールへと到着する。扉が開かれるとそこは、以前見学した時と同じように白く静かだった。違うのは、先に待っていた朝霧と夏目と、還元壁の前に置かれた玲子の棺だった。
棺の周囲には小さな花と、玲子が好きだった薄緑の布が添えられていた。それは美咲が持参したものだった。
「これ、お母さんがよく使ってたスカーフなんです」
美咲が言う。
「最後に近くに置いてもいいですか」
「はい」
朝霧はうなずいた。
「ご家族が納得できる形でお別れください」
恒一は棺のそばへ歩み寄った。合わせて夏目が棺の蓋を開ける。棺の中で、土の上に寝かされた玲子がいた。まるで眠っているように穏やかな表情だ。だが玲子はもう起きない。
「この後、少しお時間を取ります」
朝霧は二人へ言った。
「私たちは外におります。どうぞ、ゆっくりお別れをしてください」
恒一は朝霧を見る。
「何か、言った方がいいんでしょうか」
「決まりはありません」
朝霧は静かに答えた。
「言葉が出なければ、そばにいるだけでも構いません」
「……そうですか」
「はい」
朝霧は一礼し、藤崎と夏目へ目配せした。三人は足音を抑えてホールを出ていく。扉が閉まると、そこには恒一と美咲と玲子だけが残った。
美咲は棺のそばに膝をつき、そっとスカーフを玲子の手の上に置いた。
「お母さん」
声に涙が混じる。
「持ってきたよ。これ、好きだったでしょ」
恒一は少し離れた場所に立ったまま、棺を見つめていた。言うべきことは山ほどあるはずだった。
ありがとう。すまなかった。もっと話を聞けばよかった。病気に気づけなくて悪かった。最後まで強がらせてしまって悪かった。
けれど、どの言葉も喉の手前で止まった。
「お父さん」
「うん」
恒一は棺のそばへ座った。木の縁に手を置く。冷たくはなかった。
「玲子」
名前を呼ぶと、胸の奥が大きく揺れた。
「約束は守る」
美咲が静かに父を見る。恒一は続けた。
「お前が望んだ通りにする。ただ、それだけじゃない」
声がかすかに震える。
「俺も、そうしたいと思った。お前に言われたからじゃない。俺が、そうしたいと思ったんだ」
言い終えて、恒一は深く息を吐いた。初めて、妻へ自分の言葉で告げられた気がした。美咲は涙を拭いながら笑った。
「お母さん、喜んでると思う」
「どうだろうな」
「喜んでるよ。たぶん、『大げさね』って言ってる」
「……言いそうだ」
恒一の口元がわずかに緩む。二人はしばらく玲子のそばで過ごした。美咲は小さな声で思い出を話した。母が弁当に入れてくれた卵焼きの味。雨の日に迎えに来てくれたこと。就職で家を出る時、玄関で泣かずに笑っていたこと。
恒一はそのひとつひとつを聞きながら、ときおり短く相槌を打った。時間は静かに流れた。
やがて扉が小さくノックされる。朝霧が戻ってきた。
「お時間ですが、よろしいでしょうか」
恒一は美咲を見る。美咲は涙を拭き、うなずいた。
「はい」
簡易なお別れ式は、驚くほど静かに進んだ。棺の前に立ち、手を合わせ、それぞれが短く言葉を伝える。朝霧は進行を最低限に留め、余計な言葉を挟まなかった。
「これより、高橋玲子様をお預かりします」
朝霧の声がホールに響く。
「ご家族の想いとともに、自然へ還る時間を始めます」
夏目が棺の傍らに置かれた木箱を静かに開いた。中には、黒く細かな還元土壌が納められている。
「最後に、ご家族にもお願いがあります」
朝霧は小さな木皿を恒一と美咲へ差し出した。
「自然へ還る最初の土を、お二人の手で添えていただけますでしょうか」
恒一は木皿を受け取り、しばらく土を見つめた。それから玲子の足元へ、静かに土を落とす。美咲も続いた。
朝霧と夏目は一礼すると、残りの還元土壌を棺の中へゆっくりと加えていく。土は玲子の身体を優しく包み込み、上半身以外が見えなくなっていく。
「最後に、玲子様へお花をお添えください」
朝霧が静かに花籠を差し出した。
美咲は白い花を一輪手に取り、玲子の胸元へそっと置く。
「お母さん、ありがとう」
恒一は薄紫の花を手に取った。しばらく見つめ、小さく息を吐いてから玲子の手元へ添える。
「また会おう」
朝霧は二人が棺から手を離すのを待ち、静かに一礼した。
「お預かりいたします」
夏目が音を立てないようにそっと棺の蓋を閉じる。
恒一は手を合わせた。美咲も隣で目を閉じる。涙は流れていた。けれど、その表情は取り乱したものではなかった。悲しみの中に、どこか穏やかな色が混じっている。現場担当が静かに棺を還元壁の前へ運ぶ。恒一は思わず一歩前へ出かけた。美咲がそっと父の袖に触れる。
恒一は足を止めた。逃げ出したいわけではない。止めたいわけでもない。ただ、これが本当に最後なのだと身体が理解してしまっただけだった。
還元壁の収納庫が引き出される。内部は見えすぎないよう、柔らかな影に包まれていた。そこに、棺を載せた台車を引き出しの横に着け、朝霧がボタンを押すと、台車から棺が横にスライドし、引き出しの上に棺が載せられる。
引き出しを押し、棺がゆっくりと収められる。音はほとんどしなかった。白い壁の中へ、玲子の棺が静かに入っていく。
美咲が声を殺して泣いた。恒一は唇を結び、まっすぐ前を見ていた。扉が閉じる。その瞬間、終わったのだと思った。同時に、始まったのだとも思った。玲子が消えたわけではない。骨壺にも、墓石にもならない。
ただ、別の形へ向かう時間が始まった。恒一にはまだ、それを完全に受け入れられたとは言えなかった。それでも、これでよかったと思えた。
「これから約六か月、こちらで大切にお預かりします。土壌としてお返しできる時期が近づきましたら、改めてご連絡します」
「お願いします」
「はい」
美咲は還元壁を見つめたまま、小さくつぶやいた。
「お母さん、またね」
恒一はその言葉を聞き、少しだけ目を細めた。さようならではないのだと思った。またね。そのくらいの言葉でいいのかもしれない。
ホールを出る時、恒一はもう一度だけ振り返った。白い壁は静かにそこにあった。何も語らない。何も返さない。それでも、玲子との約束を預かってくれているように見えた。外へ出ると、山の風が頬を撫でた。美咲が空を見上げる。
「晴れてよかったね」
「ああ」
恒一は短く答える。深峰村の山並みは、薄い光の中で静かに続いていた。
半年後、玲子の土が返ってくる。その時、自分は何を思うのだろう。まだ分からない。けれど、きっと美咲と一緒に来る。弁当でも持って来いと、玲子なら言うかもしれない。恒一は目を閉じ、深く息を吸った。山の匂いがした。




