迷い
家に戻ると、玄関の空気が少しだけ重く感じた。病院から戻った日も、葬儀社へ連絡した日も、この家は同じ匂いがした。
洗剤と畳と、玲子が好きだった薄い緑茶の匂い。それなのに、どこか知らない家のようだった。
恒一は靴を脱ぎ、しばらく玄関に立ったまま動かなかった。
「お父さん」
美咲が声を掛ける。
「ああ」
短く答えて、恒一は廊下を進んだ。居間には、玲子が使っていた膝掛けが畳まれたまま置かれている。片付けなければならない。分かっている。けれど、片付けるということは、玲子がもう戻らないと認めることのようで、恒一は何度も先延ばしにしていた。
「今日は、少しだけでいいよ」
美咲が言った。
「無理しなくていいから」
「……いや」
恒一は首を振る。
「やる。やらないと、何も決められない」
二人は玲子の部屋に入った。窓際には小さな鉢植えが並んでいた。どれも大きな花はつけていない。細い葉を伸ばすもの、丸い葉を重ねるもの、枝だけになっているのに捨てられなかったもの。
玲子はよく、花が終わった鉢を見ながら「ここからが本番なのよ」と笑っていた。
「お母さんらしいね」
美咲が鉢植えに触れる。
「枯れたと思ったやつも、ずっと置いてた」
「捨てようとすると怒られたな」
恒一は棚の上の写真立てを手に取った。十年ほど前、三人で山へ行った時の写真だった。玲子は帽子を押さえながら笑っている。美咲はまだ学生で、恒一は今より少し若い。
「お母さん、あの時も木ばっかり見てたよね」
「景色を見に行ったのに、葉っぱの裏を見ていた」
「虫がついてるって騒いでたの、お父さんだよ」
「騒いではいない」
「騒いでたよぉ」
美咲が少し笑った。恒一も、ほんの少し口元を緩めた。笑ったあとで、胸の奥が痛んだ。思い出は温かいのに、触れるたびに冷たさも連れてくる。
美咲は押し入れから箱を出した。古い手紙、通帳、保険の書類、使いかけの裁縫箱。玲子の暮らしが、箱の中に折り畳まれている。
「お父さん」
美咲が書類を分けながら言った。
「木葬のこと、どう思った?」
恒一はしばらく黙ったまま、答えなかった。
「……思っていたより、嫌ではなかった」
「うん」
「変な言い方だが、ちゃんとしていた。あそこなら、雑に扱われることはないんだろうと思った」
「私も、そう思った」
「でもな」
恒一は写真立てを戻した。
「骨が残らないんだ」
美咲の手が止まる。
「墓に入れない。骨壺もない。仏壇に置くものもない。俺は、それが怖い」
恒一は低い声で言った。
「母さんがどこにもいなくなってしまう気がする」
美咲は何も言えなかった。母の願いを叶えたい。その気持ちは変わらない。けれど、父の迷いをわがままだとは思えなかった。
「私は、お母さんの望みを叶えたい」
美咲はゆっくり言った。
「でも、お父さんに無理してほしいわけじゃない」
「……すまんな」
「謝らないで。お母さんも、きっと同じことを言うよ」
恒一は苦く笑った。
「お前は母さんのことをよく分かってるな」
「娘だからね」
「夫だったんだがな、俺は」
その声には、自嘲が混じっていた。
「お父さんも分かってるよ。ただ、お母さんが隠すの上手だっただけ」
「隠す?」
「心配させたくないことは、いつも最後まで言わなかった」
美咲は箱の奥から、小さな布袋を取り出した。
「病気のことも、最初は私にも言わなかったし」
「……そうだったな」
恒一は目を伏せた。玲子はいつもそうだった。大変なことほど軽く言う。痛みも不安も、笑い話に変えてしまう。恒一はそれを強さだと思っていた。けれど今になって思えば、あれは優しさでもあり、遠慮でもあったのかもしれない。
「お母さんがね」
美咲がぽつりと呟く。
「スマホに、自分で撮影した動画があるんだって」
「動画…?」
「そう。お父さんは多分難しく考えるだろうから、迷ったら見てねって」
「どうして俺には……」
「照れくさいからって笑ってた」
美咲は少し困ったように笑う。
「私も、まだ見てない」
「見てないのか」
「二人で見てほしいって言われたから」
美咲はそう言って、箱の中から玲子のスマホを取り出す。
「……見る?」
恒一はしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
「見よう」
美咲は無言で頷き、充電器のケーブルを差した。しばらくして画面に電池のマークが浮かぶ。二人は無言でそれを見つめた。起動には少し時間がかかった。起動すると、いつ撮っていたのか、山道を散歩している木漏れ日の写真だった。恒一と美咲が写っている。ロックは掛かっていなかった。
「相変わらず無防備だな」
「お母さんらしいね」
美咲は写真フォルダを開いた。料理、鉢植え、散歩道、恒一の寝顔、美咲の卒業式。どうでもいいような写真がたくさん残っていた。大量の写真の中に、動画が一つだけあった。撮影日は、玲子が入院する少し前。美咲の指が止まる。
「押すね」
恒一は無言で頷く。
美咲が再生ボタンを押すと、画面の中に玲子が映った。自宅の居間だ。髪は少し短くなっている。顔色はよくない。それでも、玲子はいつものように柔らかく笑っていた。
『これ、ちゃんと撮れてるのかな。ふふっ、まるでYouTuberになったみたい』
最初の一言に、美咲が小さく息を詰まらせた。玲子は画面の向こうで、少し照れたように視線を泳がせる。
『こういうの、苦手なんだけどね。言葉にしておかないと、二人とも困ると思うから』
恒一は膝の上で手を握った。
『木葬のこと。急に言って、ごめんね』
玲子は少し間を置いた。
『お父さんは、きっと困ると思う。お墓のこともあるし、親戚のこともあるし。ちゃんとした形で送ってやりたいって、思ってくれるんだと思う』
恒一の喉が震えた。玲子は分かっていた。自分が迷うことも、反対することも、全部。
『でもね、私は、お墓が嫌なわけじゃないの。火葬が嫌なわけでもないの。今までのやり方を否定したいわけじゃない』
玲子はゆっくり首を振った。
『ただ、私がいなくなったあと、二人が私のために無理をし続けるのが嫌だった』
美咲が口元を押さえた。
『命日だから行かなきゃとか、お墓を守らなきゃとか、そういうことで、二人の時間が縛られるのは嫌なの。もちろん、会いに来てくれたら嬉しい。でも、義務みたいになったら、私はたぶん落ち着かない』
玲子は少し笑った。
『私、昔からそういうの苦手だったでしょう。誰かに気を遣わせるの』
恒一は画面を見たまま動けなかった。
『自然へ還りたいって言ったのは、きれいな言葉を使いたかったわけじゃないの。ただ、二人がこれから生きていく場所のどこかに、私が少し混ざれたらいいなと思ったの』
玲子は窓の方を見た。動画の中で、薄い光が頬に差している。
『木になったら、私はしゃべれないし、返事もできないけど。春に葉っぱが出たり、夏に影ができたり、秋に色が変わったりしたら、少しは分かりやすいかなって』
美咲の目から涙が落ちた。
『悲しい時だけ来なくていいの。元気な時に、お弁当でも持って来てくれたらいい。忙しかったら、来なくてもいい。たまたま道端の木を見て、ああ、私はこういうのが好きだったなって思ってくれたら、それで十分』
玲子は照れくさそうに笑った。
『恒一さん』
名前を呼ばれ、恒一の肩がかすかに震えた。
『あなたはきっと、最後までちゃんとしようとしてくれると思います。でも、私のことで頑張りすぎないでください。私は、あなたがちゃんと泣ける場所より、ちゃんと笑える時間を残したいです』
恒一は顔を伏せた。握った手に力が入る。
『美咲』
画面の中の玲子が続ける。
『お父さんを責めないであげてね。あの人は頑固だけど、怖がりなだけだから』
「お母さん……」
美咲が泣きながら笑った。恒一は何も言えなかった。
『二人で決めてください。木葬じゃなくてもいい。お墓でもいい。私は、二人が納得してくれるなら、それでいいです』
玲子はそこで一度言葉を切った。
『でも、もし木を植えてくれるなら』
画面の中で、玲子は少しだけいたずらっぽく笑った。
『あまり立派すぎない木がいいな。私、そんなに偉そうな人間じゃなかったから』
動画はそこで終わった。
部屋には、玲子のスマートフォンの黒い画面だけが残った。美咲は声を殺して泣いていた。恒一はしばらく動かなかった。涙は出なかった。ただ、胸の奥に詰まっていたものが、ゆっくり形を変えていくのを感じていた。
「……俺は、母さんの願いを勘違いしていたのかもしれない」
美咲は顔を上げた。
「自然へ還りたいと言っていたのは、墓に入りたくないからだと思っていた」
恒一は画面を見つめる。
「違ったんだな」
「あいつは、俺たちを縛りたくなかったんだな」
美咲は涙を拭きながらうなずいた。恒一は深く息を吸った。妻のいない部屋で、初めて妻の本心に触れた気がした。生きている間に聞けなかったことを、死んだあとに聞く。それは悔しくて、情けなくて、それでも少しだけ救いだった。
「美咲」
「うん」
「母さんを、木葬で送ろう」
美咲は目を見開いた。
「いいの?」
「まだ怖くないと言えば嘘になる」
恒一は言った。
「骨が残らないことも、寂しくないわけじゃない。でも、母さんが残したかったものは、骨じゃなかったんだと思う」
「……うん」
「俺たちが、母さんを忘れないこと。母さんのことで、無理に立ち止まり続けないこと。そういうことだったんだろう」
恒一はスマートフォンを丁寧に置いた。
「だったら、俺はそれを選ぶ」
美咲は泣きながらうなずいた。
「ありがとう、お父さん」
「礼を言うな」
恒一は少しだけ困ったように言った。
「俺も、あいつをちゃんと送りたいだけだ」
窓の外では、夕方の光が鉢植えの葉を照らしていた。小さな葉が、かすかに揺れる。風が入ってきたわけではない。それでも恒一には、玲子がそこで笑ったように見えた。
数日後、恒一は深代木葬舎へ電話を掛けた。呼び出し音を聞きながら、手の中のメモを一度だけ見下ろす。
電話が繋がる。
「高橋です」
恒一は静かに名乗った。
「先日はありがとうございました」
少しだけ息を整える。
「妻を、お願いします」




