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あの日、一本の木を植えた  作者: 泣き癖
最後の約束

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2/17

還元施設

 朝霧の後に続き、応接室を出ると、廊下の空気は少しだけ冷たくなった。朝霧は先に立ち、白い壁に沿ってゆっくり歩く。高橋恒一は娘の美咲と並びながら、その背中を見ていた。

 病院とも、葬儀場とも違う。足音がよく響くのに、不思議と落ち着く。

 窓の外には山の緑が見えた。翡翠沢村の山並みは、六月の薄い光を受けて静かに揺れている。


「こちらです」


 朝霧が立ち止まった先に、重厚そうな大きな扉があった。扉の横には小さな札が掛かっている。

 還元ホール。恒一はその文字を目で追い、喉の奥がわずかに詰まるのを感じた。


 還元。妻が、土へ還る。


 その言葉の意味が、急に現実のものとして迫ってきた。


 朝霧が扉を開けると、その中は白を基調とした広い空間だった。天井は高く、照明は柔らかい。正面の壁の上部には、横長の大きな一枚の窓があり、そこから青い空が見え、光が差し込んでいる。

 そしてその下には、装飾の付いた黄金色の輪の形の取っ手が等間隔に並んでいる。それが縦に四段、横に十二列。合計四十八個の取っ手が壁に付いていた。


「ここが、還元ホールです」


 朝霧の声が、その広いホールに静かに響く。


「最後のお別れをしていただく場所です。宗教的な形式を希望される方には、それに合わせた形を取ることもあります。ただ、こちらから何かを決めて押し付けることはありません」


 恒一はゆっくりと足を踏み入れ、室内を見回した。ただ広く、柔らかな光の差す広場だ。正面の壁以外、本当に何も無い。


「……もっと、研究所みたいな場所だと思っていました」

「そう言われることは多いですね。しかし、故人を送るための場所ですので、利用者の方々が落ち着いた気持ちで居られるような場所にしているんです」


 美咲は正面の壁を見つめていた。よくよく目を凝らすと、取っ手の周りに四角い溝がある。


「あれが、還元する場所……ですか?」

「はい。棺に納めた故人を、一定期間こちらでお預かりします」


 朝霧は壁へ近づき、手で示した。それを見た恒一の表情が固くなる。


「普通の棺と変わらないんですね」

「そうですね。皆様に馴染みのあるデザインにしております」


 朝霧は言葉を選ぶようにゆっくりと話す。


「故人はここで、微生物の働きによって少しずつ土へ還っていきます。およそ六か月後、私たちは還元後の土壌を確認し、ご家族へお返しします」


 美咲が息を呑んで、言葉を漏らす。


「六か月……」

「目安です。状態によって前後する場合があります」

「土として、返ってくるんですか」

「はい。基本的には、還元後の土をご家族にそのままご返却致します。その土をどうされるかは、ご家族で決めていただきます。ご自宅の庭に使う方もいますし、植木鉢に入れる方もいます。希望される場合は、弊社で管理している木葬地で植樹することも可能です」

「木を植える……」


 美咲の声はかすかに揺れていた。


「母が言っていました。桜じゃなくていいから、山にある木がいいって。派手じゃなくて、毎年ちゃんと葉が出る木がいいって」


 恒一は娘の横顔を見た。

 そんな話は聞いていなかった。玲子は自分に言わず、娘にだけそんなことを残していたのか。

 恒一はそう思ったが、責める気持ちはなかった。ただ、知らなかったことが、少しだけ胸に刺さった。


「その、植樹する場合、植える木は選べるんですか」

「何でも好きに選べる訳ではありません。土地に合う種類の中からになります」


 美咲の質問に、朝霧は続けて答える。


「弊社で管理する木葬地である深代村は、山の斜面が多く、土砂災害も起きやすい場所です。見た目だけで選ぶのではなく、その土地で長く生きられる木を一緒に考えます」

「何でも植えられるわけじゃないんですね」

「はい。木葬は、故人のためだけのものではありません。植えた後も木は生き続け、山の一部になります。ですから、その土地に無理をさせる選び方はできません」


 恒一は正面の還元壁を見つめた。白い壁。静かな空間。想像していたような不気味さはない。むしろ、清潔で、丁寧で、落ち着いている。だが、それでも胸の奥に残るものがあった。


「骨は……骨は、残らないんですか」


 恒一は低い声で言った。朝霧はすぐには答えなかったが、恒一の準備が出来るのを待つように、まっすぐに目を合わせ、ゆっくりと答える。


「はい。木葬では、遺骨は一切残りません」

「……そうですか」

「火葬なら、骨を拾えます。墓に納めることもできる。骨壺を手元に置いておくこともできる」

「でも、ここだと……土になる」


 恒一は小さい声で、言葉を探すように続けた。


「妻がどこにいるのか、分からなくなる気がします」


 美咲は唇を結んだ。反論したい気持ちはあった。母の願いを叶えたい。けれど、父の言葉も分かってしまった。形が残らないということは、想像していたよりずっと重い。


「そう感じる方は、少なくありません。木葬は、必ずしもすべての方に向いている方法ではありません」

「向いていない、ですか」

「はい。遺骨を手元に置きたい方。代々のお墓を大切にしたい方。形あるものに手を合わせたい方。そのような方法で、気持ちを保てる方にとって、木葬はつらい選択になることがあります」


 美咲が少し驚いたように朝霧を見た。


「良い点、悪い点。両方を知って、どうかしっかりと考えてください。後から後悔するのはご家族です。私ではありませんから」


 静かな部屋の中で、空調の低い音だけが聞こえる。美咲はゆっくり還元壁へ近付く。触れていいのか迷うように、手を伸ばしかけて止める。


「ここで、お別れするんですね」

「はい」

「普通のお葬式みたいに、家族だけで過ごす時間はありますか」

「あります。お別れの時間は、必ず取ります。形式はご家族ごとに違いますが、読経を望まれる方もいますし、手紙を読む方もいます。ただ静かに座って過ごす方もいます」

「母は……たぶん、静かな方が好きです。大人数で泣かれるの、苦手な人だったから」


 美咲は小さく笑って言った。

 恒一の胸の奥に、妻の顔が浮かんだ。親戚の集まりで、賑やかな輪から少し離れ、庭の木を眺めていた姿。花よりも葉を見る人だった。派手なものより、長く残るものを好む人だった。


「……そうだったな」


 恒一は懐かしむように、ぽつりと言った。


「だが、だからといって、すぐに決められる話じゃない」

「今日決める必要はありません」


 朝霧は微笑み、優しく伝える。その言葉は、先ほど応接室で聞いたものと同じだったが、この場所で聞くと、少し違って聞こえるような気がした。


「一度、ご家族だけでお考えください。木葬を選ぶかどうかだけではなく、奥様をどう送りたいのか。その時間を取ってください」

「いつまでに決めるべきでしょうか」

「ご遺体のこともありますし、現実的な猶予は少ないでしょう。ただ、こちらから急がせることはありません。必要なことは弊社の藤崎から改めてご案内します」


 恒一は小さく息を吐いた。木葬への抵抗は、来る前より薄れていた。知らないものへの怖さは、少しだけ形を変えたような気がする。けれど、遺骨が残らない。その一点だけが、どうしても胸から離れなかった。


「……分かりました」


 還元ホールを出る直前、恒一は一度だけ振り返った。白い壁は、ただ静かにそこにある。妻がここにいる未来を想像しようとしたが、うまくできなかった。


***


「今日は見学までさせていただいてありがとうございました」

「こちらこそ、お越しいただきありがとうございました」


 施設の出入り口で、隣の事務員の藤崎とともに朝霧は頭を下げる。恒一と美咲は軽く会釈をして、外へと向かう。施設を出ると、外の空気は少し湿っていた。山の匂いがする。

 美咲は車へ向かいながら、父の隣を歩いた。


「お父さん」

「なんだ?」

「すぐに決めなくていいって言ってくれて、よかったね」

「……そうだな」


 恒一は短く答えた。それから少し間を置いて、空を見上げた。


「母さんが何を望んでいたのか、もう少し考える」

「うん」

「それと、俺が何を怖がっているのかもな」


 美咲は何も言わず、ただうなずいた。二人の後ろで、深代木葬舎の建物は静かに山の光を受けていた。決断はまだ遠い。けれど、蟠りは少し晴れた気がした。

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