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あの日、一本の木を植えた  作者: 泣き癖


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最後の約束

# 相談


「私ね、お墓には入りたくないの」

 いつだったか、とある休日の午後、庭の花へ水をやりながら妻が話した内容が、頭から離れない。

 俺は、何と返したんだったか。

「でも、私はそういう終わり方が好き」

 妻は、最後にそう言っていた気がする。


 玲子が亡くなって三日。

 病院から提携先の安置施設へ遺体を預け、葬儀の日程もまだ決めきれずにいた。

 先祖代々の墓へ入れる。それが当然だと思っていた。

「お父さん」

娘の美咲が静かに声を掛けた。

「今日、相談可能だって」

恒一は返事をしなかった。向かう先は、普通の葬儀社ではない。遺体を土へ還し、その土で木を育てるという、聞いたこともない葬送を行う場所。

 深峰村にある深代木葬舎。玲子が最後に望んだ場所だった。


 その建物に入ると、木の香りがほのかに漂っていた。

白を基調にした室内には派手な装飾はなく、窓辺には小さな観葉植物が置かれている。壁には小さな絵画や、四季折々の森を写した写真が静かに並んでいた。

 葬儀場というより、簡素な美術館のような雰囲気だった。

「高橋様ですね」

 受付の女性が立ち上がり、一礼する。

「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

 深代木葬舎の事務員、藤崎真緒は落ち着いた声でそう告げると、二人を応接室へ案内した。

 必要以上に笑顔を作ることもなく、しかし冷たさも感じさせない、事務員らしい丁寧な対応だった。

「お飲み物をお持ちします。お掛けになって少々お待ちください」

 扉が静かに閉まる。部屋には、高橋恒一と娘の美咲だけが残された。恒一は落ち着かない様子で室内を見回す。

 応接室は決して広くはないが、不思議と窮屈さは感じなかった。白い壁と無垢材の床が柔らかな印象を与え、窓から差し込む午後の日差しが室内を穏やかに照らしている。

 中央には木製のローテーブルを挟んで落ち着いた色合いのソファが置かれ、壁際には小さな本棚があった。そこには植物や森林、終活に関する本や写真集が飾られている。

「……葬儀屋、なんだよな」

「うん。電話した時もそう言ってたよ」

「思っていたのと違うな」

 二人は無言のまま、静かな時間だけが流れている。

 ほどなくして扉が開き、一人の男性が入ってきた。

「お待たせしてしまい申し訳ございません。初めまして、ここの代表の朝霧悠と申します」

 深く頭を下げ、向かいの席へ腰を下ろす。

 年齢は三十代半ばほどだろうか。ジャケットではなく、黒いスラックスに白衣という、葬儀屋らしからぬ姿だった。

「本日はお越しいただき、ありがとうございます」

 恒一も軽く頭を下げた。

「こちらこそ。急な連絡にも対応頂き、ありがとうございます」

「いえ、仕事ですから」

 少し沈黙が流れる。朝霧は急かすことなく、二人の様子を静かに見ていた。やがて恒一が口を開く。

「妻が……ここに来たいと言っていたそうなんです」

 恒一は、一言そう呟いたあと、また黙ってしまった。その様子を見て、痺れを切らしたように美咲が静かに続ける。

「お母さん、生前に私へ話していたんです。『もし私が死んだら、木になりたい』って」

 朝霧は小さくうなずいた。

「そうでしたか」

 それだけだった。驚くことも、勧めることもない。ただ、話の続きを待っている。

 恒一は膝の上で手を握りしめた。

「正直、私は反対でした」

 ゆっくりと、泡のように湧く言葉を選ぶように続ける。

「うちは代々の墓があります。親も、その親も、みんなそこへ入っています」

「はい」

「妻だけ別の場所へ行くなんて……それで本当にいいのか、どうしても分からなくて」

美咲は父の横顔を見つめた。

「お父さんは、お母さんのことを考えてないわけじゃないのね」

「……当たり前だ」

 恒一は苦く笑った。

「だから困ってる」

 その一言に、美咲も何も返せなかった。

 朝霧は少し間を置いてから口を開く。

「迷われるのは、ごく自然なことです」

 二人は顔を上げた。

「故人の願いと、ご家族のお気持ちが一致するとは限りません」

「……」

「どちらが正しいという話でもありません」

 朝霧の声は穏やかで、自然と心に入るような声だった。

「残される方が悩まれるのも、大切な時間だと私は思っています」

 恒一は視線を落とした。責められている気はしなかった。かといって、木葬を勧められているわけでもない。ただ、自分の迷いを否定されなかった。そのことに少しだけ肩の力が抜けた気がした。

「今日は……契約の話になるんでしょうか」

 恒一がおそるおそる尋ねる。その問いに、朝霧は首を横に振った。

「いいえ、今日は決めなくて構いません。」

 恒一は思わず顔を上げた。

「決めなくても……?」

「はい」

 朝霧は静かに続ける。

「私は木葬を選んでいただくために、ここにいるわけではありません」

 その言葉は営業の常套句のようには聞こえなかった。

「火葬でも、お墓でも、納骨堂でも。皆様が納得して選ばれることが、一番大切だと思っています」

 部屋が静まり返る。美咲は少し安心したように息を吐いた。朝霧は穏やかな表情のまま立ち上がる。

「もしよろしければ」

 二人へ視線を向ける。

「まずは施設をご覧になりませんか」

「施設……ですか」

「はい」

「言葉だけでは伝わらないこともあります」

 朝霧は扉へ向かって歩き出した。

「見ていただいて、その上で考えてください。それからお断りいただいても構いませんので」

 恒一は美咲と顔を見合わせた。娘は小さくうなずく。

「……見せていただけますか」

「もちろんです」

 朝霧は静かに微笑む。

「こちらへ」


# 還元施設


 朝霧の後に続き、応接室を出ると、廊下の空気は少しだけ冷たくなった。朝霧は先に立ち、白い壁に沿ってゆっくり歩く。高橋恒一は娘の美咲と並びながら、その背中を見ていた。

 病院とも、葬儀場とも違う。足音がよく響くのに、不思議と落ち着かない感じはなかった。

 窓の外には山の緑が見えた。深峰村の山並みは、六月の薄い光を受けて静かに揺れている。

「こちらです」

 朝霧が立ち止まった先に、重厚そうな大きな扉があった。扉の横には小さな札が掛かっている。還元ホール。恒一はその文字を目で追い、喉の奥がわずかに詰まるのを感じた。

 還元。妻が、土へ還る。

 その言葉の意味が、急に現実のものとして迫ってきた。

 朝霧が扉を開ける。中は白を基調とした広い空間だった。天井は高く、照明は柔らかい。正面の壁の上部には、横長の大きな一枚の窓があり、そこから青い空が見え、光が差し込んでいる。

 そしてその下には、装飾の付いた黄金色の輪の形の取っ手が等間隔に並んでいる。それが縦に4段、横に12列。合計48個の取っ手が壁に付いていた。

「ここが、還元ホールです」

 朝霧の声が静かに響く。

「最後のお別れをしていただく場所です。宗教的な形式を希望される方には、それに合わせた形を取ることもあります。ただ、こちらから何かを決めて押し付けることはありません」

 恒一はゆっくりと足を踏み入れ、室内を見回した。ただ広く、柔らかな光の差す広場だ。正面の壁以外、本当に何も無い。

「……もっと、研究所みたいな場所だと思っていました」

「そう言われることは多いですね。しかし、故人を送るための場所ですので、利用者の方々が落ち着いた気持ちで居られるような場所にしているんです」

 美咲は正面の壁を見つめていた。よくよく目を凝らすと、取っ手の周りに四角い溝がある。

「あれが、還元する場所?ですか?」

「はい」

 朝霧は壁へ近づき、手で示した。

「棺に納めた故人を、一定期間こちらでお預かりします」

 恒一の表情が固くなる。

「普通の棺と変わらないんですね」

「そうですね。皆様に馴染みのあるデザインにしております」

 朝霧は言葉を選ぶようにゆっくりと話す。

「故人はここで、微生物の働きによって少しずつ土へ還っていきます。およそ六か月後、私たちは還元後の土壌を確認し、ご家族へお返しします」

 美咲が息を呑んだ。

「六か月……」

「目安です。状態によって前後する場合があります」

 恒一は眉を寄せた。

「土として、返ってくるんですか」

「はい」

 朝霧は静かに答えた。

「基本的には、還元後の土をご家族にそのままご返却致します。その土をどうされるかは、ご家族で決めていただきます。ご自宅の庭に使う方もいますし、植木鉢に入れる方もいます。希望される場合は、弊社で管理している木葬地で植樹することも可能です」

「木を植える……」

 美咲の声はかすかに揺れていた。

「母が言っていました。桜じゃなくていいから、山にある木がいいって。派手じゃなくて、毎年ちゃんと葉が出る木がいいって」

 恒一は娘の横顔を見た。そんな話は聞いていなかった。玲子は自分に言わず、娘にだけそんなことを残していたのか。責める気持ちはなかった。ただ、知らなかったことが、少しだけ胸に刺さった。

「その、植樹する場合、植える木は選べるんですか」

 美咲が尋ねる。

「土地に合う種類の中からになります」

 朝霧は続けて答える。

「弊社で管理する木葬地である深代村は、山の斜面が多く、土砂災害も起きやすい場所です。見た目だけで選ぶのではなく、その土地で長く生きられる木を一緒に考えます」

「何でも植えられるわけじゃないんですね」

「はい」

 朝霧はうなずいた。

「木葬は、故人のためだけのものではありません。植えた後も木は生き続けます。山の一部になります。ですから、その土地に無理をさせる選び方はできません」

 恒一は正面の還元壁を見つめた。白い壁。静かな空間。想像していたような不気味さはない。むしろ、清潔で、丁寧で、落ち着いている。だが、それでも胸の奥に残るものがあった。

「骨は……」

 恒一は低い声で言った。

「骨は、残らないんですか」

 美咲が父を見る。朝霧はすぐには答えなかった。恒一の準備が出来るのを待つように、まっすぐに目を合わせ、ゆっくりと答える。

「はい。木葬では、遺骨は一切残りません」

「……そうですか」

 恒一の声が小さくなる。

「火葬なら、骨を拾えます。墓に納めることもできる。骨壺を手元に置いておくこともできる」

「でも、ここだと……土になる」

 恒一は言葉を探すように続けた。

「妻がどこにいるのか、分からなくなる気がします」

 美咲は唇を結んだ。反論したい気持ちはあった。母の願いを叶えたい。けれど、父の言葉も分かってしまった。形が残らないということは、想像していたよりずっと重い。

「そう感じる方は、少なくありません」

 朝霧は静かに言った。

「木葬は、すべての方に向いている方法ではありません」

 恒一は顔を上げた。

「向いていない、ですか」

「はい」

 朝霧は迷いなく答える。

「遺骨を手元に置きたい方。代々のお墓を大切にしたい方。形あるものに手を合わせたい方。そのような方法で、気持ちを保てる方にとって、木葬はつらい選択になることがあります」

 美咲が少し驚いたように朝霧を見た。

「良い点、悪い点。両方を知って、どうかしっかりと考えてください。後から後悔するのは、ご家族です。私ではありませんから」

 その言葉に、恒一は何も返せなかった。静かな部屋の中で、空調の低い音だけが聞こえる。美咲はゆっくり還元壁へ近づいた。触れていいのか迷うように、手を伸ばしかけて止める。

「ここで、お別れするんですね」

「はい」

「普通のお葬式みたいに、家族だけで過ごす時間はありますか」

「あります」

 朝霧は答えた。

「お別れの時間は、必ず取ります。形式はご家族ごとに違います。読経を望まれる方もいますし、手紙を読む方もいます。ただ静かに座って過ごす方もいます」

「母は……たぶん、静かな方が好きです」

 美咲は小さく笑った。

「大人数で泣かれるの、苦手な人だったから」

 恒一の胸の奥に、妻の顔が浮かんだ。親戚の集まりで、賑やかな輪から少し離れ、庭の木を眺めていた姿。花よりも葉を見る人だった。派手なものより、長く残るものを好む人だった。

「……そうだったな」

 恒一がぽつりと言った。美咲は父を見た。

「だが」

 恒一は続けた。

「だからといって、すぐに決められる話じゃない」

 朝霧は微笑み、優しく伝える。

「今日決める必要はありません」

 その言葉は、先ほど応接室で聞いたものと同じだった。だが、この場所で聞くと、少し違って響いた。

「一度、ご家族だけでお考えください。木葬を選ぶかどうかだけではなく、奥様をどう送りたいのか。その時間を取ってください」

「期限はありますか」

 恒一が尋ねる。

「現実的な猶予は少ないでしょう。ただ、こちらから急がせることはありません。必要なことは弊社の藤崎から改めてご案内します」

 恒一は小さく息を吐いた。木葬への抵抗は、来る前より薄れていた。知らないものへの怖さは、少しだけ形を変えた。けれど、遺骨が残らない。その一点だけが、どうしても胸から離れなかった。

「……分かりました」

 還元ホールを出る直前、恒一は一度だけ振り返った。

白い壁は、ただ静かにそこにある。妻がここにいる未来を想像しようとしたが、うまくできなかった。


「今日は見学までさせていただいてありがとうございました」

「こちらこそ、お越しいただきありがとうございました」

 施設の出入り口で、隣の事務員の藤崎とともに朝霧は頭を下げる。恒一は軽く会釈をして、外へと向かう。美咲も続いて礼をしていた。施設を出ると、外の空気は少し湿っていた。山の匂いがする。

 美咲は車へ向かいながら、父の隣を歩いた。

「お父さん」

「なんだ?」

「すぐに決めなくていいって言ってくれて、よかったね」

「……そうだな」

 恒一は短く答えた。それから少し間を置いて、空を見上げた。

「母さんが何を望んでいたのか、もう少し考える」

「うん」

「それと」

 恒一は娘を見た。

「俺が何を怖がっているのかもな」

 美咲は何も言わず、ただうなずいた。二人の後ろで、深代木葬舎の建物は静かに山の光を受けていた。決断はまだ遠い。けれど、蟠りは少し晴れた気がした。


# 迷い


 家に戻ると、玄関の空気が少しだけ重く感じた。病院から戻った日も、葬儀社へ連絡した日も、この家は同じ匂いがした。

 洗剤と畳と、玲子が好きだった薄い緑茶の匂い。それなのに、どこか知らない家のようだった。

 高橋恒一は靴を脱ぎ、しばらく玄関に立ったまま動かなかった。

「お父さん」

美咲が声を掛ける。

「ああ」

 短く答えて、恒一は廊下を進んだ。居間には、玲子が使っていた膝掛けが畳まれたまま置かれている。片付けなければならない。分かっている。けれど、片付けるということは、玲子がもう戻らないと認めることのようで、恒一は何度も先延ばしにしていた。

「今日は、少しだけでいいよ」

美咲が言った。

「無理しなくていいから」

「……いや」

恒一は首を振る。

「やる。やらないと、何も決められない」

二人は玲子の部屋に入った。窓際には小さな鉢植えが並んでいた。どれも大きな花はつけていない。細い葉を伸ばすもの、丸い葉を重ねるもの、枝だけになっているのに捨てられなかったもの。

 玲子はよく、花が終わった鉢を見ながら「ここからが本番なのよ」と笑っていた。

「お母さんらしいね」

 美咲が鉢植えに触れる。

「枯れたと思ったやつも、ずっと置いてた」

「捨てようとすると怒られたな」

 恒一は棚の上の写真立てを手に取った。十年ほど前、三人で山へ行った時の写真だった。玲子は帽子を押さえながら笑っている。美咲はまだ学生で、恒一は今より少し若い。

「お母さん、あの時も木ばっかり見てたよね」

「景色を見に行ったのに、葉っぱの裏を見ていた」

「虫がついてるって騒いでたの、お父さんだよ」

「騒いではいない」

「騒いでたよぉ」

 美咲が少し笑った。恒一も、ほんの少し口元を緩めた。笑ったあとで、胸の奥が痛んだ。思い出は温かいのに、触れるたびに冷たさも連れてくる。

 美咲は押し入れから箱を出した。古い手紙、通帳、保険の書類、使いかけの裁縫箱。玲子の暮らしが、箱の中に折り畳まれている。

「お父さん」

 美咲が書類を分けながら言った。

「木葬のこと、どう思った?」

 恒一はしばらく黙ったまま、答えなかった。

「……思っていたより、嫌ではなかった」

「うん」

「変な言い方だが、ちゃんとしていた。あそこなら、雑に扱われることはないんだろうと思った」

「私も、そう思った」

「でもな」

 恒一は写真立てを戻した。

「骨が残らないんだ」

美咲の手が止まる。

「墓に入れない。骨壺もない。仏壇に置くものもない。俺は、それが怖い」

 恒一は低い声で言った。

「母さんがどこにもいなくなってしまう気がする」

 美咲は何も言えなかった。母の願いを叶えたい。その気持ちは変わらない。けれど、父の迷いをわがままだとは思えなかった。

「私は、お母さんの望みを叶えたい」

 美咲はゆっくり言った。

「でも、お父さんに無理してほしいわけじゃない」

「……すまんな」

「謝らないで。お母さんも、きっと同じことを言うよ」

 恒一は苦く笑った。

「お前は母さんのことをよく分かってるな」

「娘だからね」

「夫だったんだがな、俺は」

 その声には、自嘲が混じっていた。

「お父さんも分かってるよ。ただ、お母さんが隠すの上手だっただけ」

「隠す?」

「心配させたくないことは、いつも最後まで言わなかった」

 美咲は箱の奥から、小さな布袋を取り出した。

「病気のことも、最初は私にも言わなかったし」

「……そうだったな」

 恒一は目を伏せた。玲子はいつもそうだった。大変なことほど軽く言う。痛みも不安も、笑い話に変えてしまう。恒一はそれを強さだと思っていた。けれど今になって思えば、あれは優しさでもあり、遠慮でもあったのかもしれない。

「お母さんがね」

 美咲がぽつりと呟く。

「スマホに、自分で撮影した動画があるんだって」

「動画…?」

「そう。お父さんは多分難しく考えるだろうから、迷ったら見てねって」

「どうして俺には……」

「照れくさいからって笑ってた」

 美咲は少し困ったように笑う。

「私も、まだ見てない」

「見てないのか」

「二人で見てほしいって言われたから」

 美咲はそう言って、箱の中から玲子のスマホを取り出す。

「……見る?」

恒一はしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。

「見よう」

 美咲は無言で頷き、充電器のケーブルを差した。しばらくして画面に電池のマークが浮かぶ。二人は無言でそれを見つめた。起動には少し時間がかかった。起動すると、いつ撮っていたのか、山道を散歩している木漏れ日の写真だった。恒一と美咲が写っている。ロックは掛かっていなかった。

「相変わらず無防備だな」

「お母さんらしいね」

 美咲は写真フォルダを開いた。料理、鉢植え、散歩道、恒一の寝顔、美咲の卒業式。どうでもいいような写真がたくさん残っていた。大量の写真の中に、動画が一つだけあった。撮影日は、玲子が入院する少し前。美咲の指が止まる。

「押すね」

 恒一は無言で頷く。

 美咲が再生ボタンを押すと、画面の中に玲子が映った。自宅の居間だ。髪は少し短くなっている。顔色はよくない。それでも、玲子はいつものように柔らかく笑っていた。

『これ、ちゃんと撮れてるのかな。ふふっ、まるでYouTuberになったみたい』

 最初の一言に、美咲が小さく息を詰まらせた。玲子は画面の向こうで、少し照れたように視線を泳がせる。

『こういうの、苦手なんだけどね。言葉にしておかないと、二人とも困ると思うから』

 恒一は膝の上で手を握った。

『木葬のこと。急に言って、ごめんね』

 玲子は少し間を置いた。

『お父さんは、きっと困ると思う。お墓のこともあるし、親戚のこともあるし。ちゃんとした形で送ってやりたいって、思ってくれるんだと思う』

 恒一の喉が震えた。玲子は分かっていた。自分が迷うことも、反対することも、全部。

『でもね、私は、お墓が嫌なわけじゃないの。火葬が嫌なわけでもないの。今までのやり方を否定したいわけじゃない』

 玲子はゆっくり首を振った。

『ただ、私がいなくなったあと、二人が私のために無理をし続けるのが嫌だった』

 美咲が口元を押さえた。

『命日だから行かなきゃとか、お墓を守らなきゃとか、そういうことで、二人の時間が縛られるのは嫌なの。もちろん、会いに来てくれたら嬉しい。でも、義務みたいになったら、私はたぶん落ち着かない』

 玲子は少し笑った。

『私、昔からそういうの苦手だったでしょう。誰かに気を遣わせるの』

 恒一は画面を見たまま動けなかった。

『自然へ還りたいって言ったのは、きれいな言葉を使いたかったわけじゃないの。ただ、二人がこれから生きていく場所のどこかに、私が少し混ざれたらいいなと思ったの』

 玲子は窓の方を見た。動画の中で、薄い光が頬に差している。

『木になったら、私はしゃべれないし、返事もできないけど。春に葉っぱが出たり、夏に影ができたり、秋に色が変わったりしたら、少しは分かりやすいかなって』

 美咲の目から涙が落ちた。

『悲しい時だけ来なくていいの。元気な時に、お弁当でも持って来てくれたらいい。忙しかったら、来なくてもいい。たまたま道端の木を見て、ああ、私はこういうのが好きだったなって思ってくれたら、それで十分』

 玲子は照れくさそうに笑った。

『恒一さん』

 名前を呼ばれ、恒一の肩がかすかに震えた。

『あなたはきっと、最後までちゃんとしようとしてくれると思います。でも、私のことで頑張りすぎないでください。私は、あなたがちゃんと泣ける場所より、ちゃんと笑える時間を残したいです』

 恒一は顔を伏せた。握った手に力が入る。

『美咲』

 画面の中の玲子が続ける。

『お父さんを責めないであげてね。あの人は頑固だけど、怖がりなだけだから』

「お母さん……」

 美咲が泣きながら笑った。恒一は何も言えなかった。

『二人で決めてください。木葬じゃなくてもいい。お墓でもいい。私は、二人が納得してくれるなら、それでいいです』

 玲子はそこで一度言葉を切った。

『でも、もし木を植えてくれるなら』

 画面の中で、玲子は少しだけいたずらっぽく笑った。

『あまり立派すぎない木がいいな。私、そんなに偉そうな人間じゃなかったから』

 動画はそこで終わった。

 部屋には、玲子のスマートフォンの黒い画面だけが残った。美咲は声を殺して泣いていた。恒一はしばらく動かなかった。涙は出なかった。ただ、胸の奥に詰まっていたものが、ゆっくり形を変えていくのを感じていた。

「……俺は、母さんの願いを勘違いしていたのかもしれない」

 美咲は顔を上げた。

「自然へ還りたいと言っていたのは、墓に入りたくないからだと思っていた」

 恒一は画面を見つめる。

「違ったんだな」

「あいつは、俺たちを縛りたくなかったんだな」

 美咲は涙を拭きながらうなずいた。恒一は深く息を吸った。妻のいない部屋で、初めて妻の本心に触れた気がした。生きている間に聞けなかったことを、死んだあとに聞く。それは悔しくて、情けなくて、それでも少しだけ救いだった。

「美咲」

「うん」

「母さんを、木葬で送ろう」

 美咲は目を見開いた。

「いいの?」

「まだ怖くないと言えば嘘になる」

 恒一は言った。

「骨が残らないことも、寂しくないわけじゃない。でも、母さんが残したかったものは、骨じゃなかったんだと思う」

「……うん」

「俺たちが、母さんを忘れないこと。母さんのことで、無理に立ち止まり続けないこと。そういうことだったんだろう」

 恒一はスマートフォンを丁寧に置いた。

「だったら、俺はそれを選ぶ」

 美咲は泣きながらうなずいた。

「ありがとう、お父さん」

「礼を言うな」

 恒一は少しだけ困ったように言った。

「俺も、あいつをちゃんと送りたいだけだ」

 窓の外では、夕方の光が鉢植えの葉を照らしていた。小さな葉が、かすかに揺れる。風が入ってきたわけではない。それでも恒一には、玲子がそこで笑ったように見えた。


 数日後、恒一は深代木葬舎へ電話を掛けた。呼び出し音を聞きながら、手の中のメモを一度だけ見下ろす。

 電話が繋がる。

「高橋です」

 恒一は静かに名乗った。

「先日はありがとうございました」

 少しだけ息を整える。

「妻を、お願いします」


# 最後の約束


 深代木葬舎を訪れた高橋恒一の表情は、初めて来た日よりも静かだった。迷いが消えたわけではない。妻を見送るという事実は、どれだけ考えても軽くならない。ただ、何を怖がっているのかは分かっていた。

 霊柩車から降ろされた玲子の棺が、出迎えてくれた朝霧ともう一人のスタッフ、夏目陸の手で台車に載せられ、静かに館内へ運ばれていく。朝霧は、前回の白衣ではなく、夏目と共に黒い礼服と白い手袋を着用していた。

「高橋様」

 受付で藤崎が立ち上がった。

「本日はお越しいただき、ありがとうございます」

 恒一は深く頭を下げた。

「よろしくお願いします」

「必要事項をご確認します。こちらへご記入ください」

 藤崎の声はいつも通り淡々としていた。差し出されたペンは恒一が持ちやすいようにそろえられている。

 書類には、故人の氏名、続柄、同意の確認、植樹の有無が並んでいる。恒一は一つずつ目を通し、ゆっくり記入した。名前を書くたびに、玲子がもう書類に署名できない人になったのだと思い知らされる。

 渡された書類を受け取り、内容を藤崎が確認する。

「還元後の土壌はお引き取りを希望、でよろしいですね」

「はい」

「お引き取りの場合は、土壌をどのようにされるかはご遺族様に委ねられますが、ご自宅での植樹などのご相談は可能です。その際は、代表の朝霧に遠慮なくお声掛けください」

「それは非常に助かります。ありがとうございます」

 藤崎は書類をそろえ、確認印を押した。

「手続きは以上です。この後、準備が出来次第、還元ホールへご案内します」

 奥の廊下から、朝霧が歩いてきた。

「高橋様」

 朝霧は静かに頭を下げた。

「玲子様は、こちらでお預かりします」

「……お願いします」

 恒一の声は少し掠れた。美咲も頭を下げる。

「母を、よろしくお願いします」

「はい」

 朝霧は短く答えた。それ以上の言葉はなかった。慰めも、励ましもない。ただ、その短い返事だけで、引き受ける重さを分かっているように聞こえた。

 暫くの間、受付前の待合所のソファで美咲と二人で待っていると、受付から藤崎が歩いて近付いてくる。

「高橋様、ご準備が出来ましたので、こちらへどうぞ」

 二人は真緒に案内され、先日見た還元ホールへと到着する。扉が開かれるとそこは、以前見学した時と同じように白く静かだった。違うのは、先に待っていた朝霧と夏目と、還元壁の前に置かれた玲子の棺だった。

 棺の周囲には小さな花と、玲子が好きだった薄緑の布が添えられていた。それは美咲が持参したものだった。

「これ、お母さんがよく使ってたスカーフなんです」

 美咲が言う。

「最後に近くに置いてもいいですか」

「はい」

 朝霧はうなずいた。

「ご家族が納得できる形でお別れください」

 恒一は棺のそばへ歩み寄った。合わせて夏目が棺の蓋を開ける。棺の中で、土の上に寝かされた玲子がいた。まるで眠っているように穏やかな表情だ。だが玲子はもう起きない。

「この後、少しお時間を取ります」

 朝霧は二人へ言った。

「私たちは外におります。どうぞ、ゆっくりお別れをしてください」

 恒一は朝霧を見る。

「何か、言った方がいいんでしょうか」

「決まりはありません」

 朝霧は静かに答えた。

「言葉が出なければ、そばにいるだけでも構いません」

「……そうですか」

「はい」

 朝霧は一礼し、藤崎と夏目へ目配せした。三人は足音を抑えてホールを出ていく。扉が閉まると、そこには恒一と美咲と玲子だけが残った。

 美咲は棺のそばに膝をつき、そっとスカーフを玲子の手の上に置いた。

「お母さん」

 声に涙が混じる。

「持ってきたよ。これ、好きだったでしょ」

 恒一は少し離れた場所に立ったまま、棺を見つめていた。言うべきことは山ほどあるはずだった。

 ありがとう。すまなかった。もっと話を聞けばよかった。病気に気づけなくて悪かった。最後まで強がらせてしまって悪かった。

 けれど、どの言葉も喉の手前で止まった。

「お父さん」

「うん」

 恒一は棺のそばへ座った。木の縁に手を置く。冷たくはなかった。

「玲子」

 名前を呼ぶと、胸の奥が大きく揺れた。

「約束は守る」

 美咲が静かに父を見る。恒一は続けた。

「お前が望んだ通りにする。ただ、それだけじゃない」

声がかすかに震える。

「俺も、そうしたいと思った。お前に言われたからじゃない。俺が、そうしたいと思ったんだ」

 言い終えて、恒一は深く息を吐いた。初めて、妻へ自分の言葉で告げられた気がした。美咲は涙を拭いながら笑った。

「お母さん、喜んでると思う」

「どうだろうな」

「喜んでるよ。たぶん、『大げさね』って言ってる」

「……言いそうだ」

 恒一の口元がわずかに緩む。二人はしばらく玲子のそばで過ごした。美咲は小さな声で思い出を話した。母が弁当に入れてくれた卵焼きの味。雨の日に迎えに来てくれたこと。就職で家を出る時、玄関で泣かずに笑っていたこと。

 恒一はそのひとつひとつを聞きながら、ときおり短く相槌を打った。時間は静かに流れた。

 やがて扉が小さくノックされる。朝霧が戻ってきた。

「お時間ですが、よろしいでしょうか」

 恒一は美咲を見る。美咲は涙を拭き、うなずいた。

「はい」

 簡易なお別れ式は、驚くほど静かに進んだ。棺の前に立ち、手を合わせ、それぞれが短く言葉を伝える。朝霧は進行を最低限に留め、余計な言葉を挟まなかった。

「これより、高橋玲子様をお預かりします」

 朝霧の声がホールに響く。

「ご家族の想いとともに、自然へ還る時間を始めます」

 夏目が棺の傍らに置かれた木箱を静かに開いた。中には、黒く細かな還元土壌が納められている。

「最後に、ご家族にもお願いがあります」

 朝霧は小さな木皿を恒一と美咲へ差し出した。

「自然へ還る最初の土を、お二人の手で添えていただけますでしょうか」

 恒一は木皿を受け取り、しばらく土を見つめた。それから玲子の足元へ、静かに土を落とす。美咲も続いた。

 朝霧と夏目は一礼すると、残りの還元土壌を棺の中へゆっくりと加えていく。土は玲子の身体を優しく包み込み、上半身以外が見えなくなっていく。

「最後に、玲子様へお花をお添えください」

 朝霧が静かに花籠を差し出した。

 美咲は白い花を一輪手に取り、玲子の胸元へそっと置く。

「お母さん、ありがとう」

 恒一は薄紫の花を手に取った。しばらく見つめ、小さく息を吐いてから玲子の手元へ添える。

「また会おう」

 朝霧は二人が棺から手を離すのを待ち、静かに一礼した。

「お預かりいたします」

 夏目が音を立てないようにそっと棺の蓋を閉じる。

 恒一は手を合わせた。美咲も隣で目を閉じる。涙は流れていた。けれど、その表情は取り乱したものではなかった。悲しみの中に、どこか穏やかな色が混じっている。現場担当が静かに棺を還元壁の前へ運ぶ。恒一は思わず一歩前へ出かけた。美咲がそっと父の袖に触れる。

 恒一は足を止めた。逃げ出したいわけではない。止めたいわけでもない。ただ、これが本当に最後なのだと身体が理解してしまっただけだった。

 還元壁の収納庫が引き出される。内部は見えすぎないよう、柔らかな影に包まれていた。そこに、棺を載せた台車を引き出しの横に着け、朝霧がボタンを押すと、台車から棺が横にスライドし、引き出しの上に棺が載せられる。

 引き出しを押し、棺がゆっくりと収められる。音はほとんどしなかった。白い壁の中へ、玲子の棺が静かに入っていく。

 美咲が声を殺して泣いた。恒一は唇を結び、まっすぐ前を見ていた。扉が閉じる。その瞬間、終わったのだと思った。同時に、始まったのだとも思った。玲子が消えたわけではない。骨壺にも、墓石にもならない。

 ただ、別の形へ向かう時間が始まった。恒一にはまだ、それを完全に受け入れられたとは言えなかった。それでも、これでよかったと思えた。

「これから約六か月、こちらで大切にお預かりします。土壌としてお返しできる時期が近づきましたら、改めてご連絡します」

「お願いします」

「はい」

 美咲は還元壁を見つめたまま、小さくつぶやいた。

「お母さん、またね」

 恒一はその言葉を聞き、少しだけ目を細めた。さようならではないのだと思った。またね。そのくらいの言葉でいいのかもしれない。

 ホールを出る時、恒一はもう一度だけ振り返った。白い壁は静かにそこにあった。何も語らない。何も返さない。それでも、玲子との約束を預かってくれているように見えた。外へ出ると、山の風が頬を撫でた。美咲が空を見上げる。

「晴れてよかったね」

「ああ」

 恒一は短く答える。深峰村の山並みは、薄い光の中で静かに続いていた。

 半年後、玲子の土が返ってくる。その時、自分は何を思うのだろう。まだ分からない。けれど、きっと美咲と一緒に来る。弁当でも持って来いと、玲子なら言うかもしれない。恒一は目を閉じ、深く息を吸った。山の匂いがした。


# 苗


 半年という時間は、長いようで短かった。恒一にとって、それは妻のいない生活に慣れるための時間ではなかった。

 朝起きて、二人分の味噌汁を作りかけて手を止める。洗濯物を干しながら、玲子がよく使っていた薄緑のスカーフがもうないことに気づく。夕方、庭の鉢植えに水をやりながら、枯れた枝を切っていいものか迷う。そんな小さな不在を、一つずつ確かめる時間だった。

 深代木葬舎から連絡があったのは、梅雨に入る少し前のことだった。

「高橋様。深代木葬舎の藤崎です」

 電話口の藤崎の声は、以前と変わらず落ち着いていた。

「玲子様の自然還元が完了し、確認も終わりました。土壌の返却について、日程をご相談させてください」

 恒一は受話器を握ったまま、しばらく黙った。

「……そうですか」

 半年経ったのだと思った。あの日、還元壁の中へ収められた棺。白い壁。閉じる扉。美咲が言った「またね」という声。それらが、急に近くへ戻ってきた。

「お受け取りは、こちらへお越しいただく形となります」

「分かりました、娘と伺います」


 返却の日、深峰村の空は薄く曇っていた。雨は降っていない。山は湿った匂いを含み、道路沿いの木々は青々と葉を広げている。美咲は助手席から窓の外を見ていた。

「お母さん、こういう天気好きだったね」

「晴れよりか」

「うん。葉っぱが濃く見えるからって」

 恒一は小さくうなずいた。深代木葬舎に着くと、玄関前の小さな植え込みに若い枝が伸びていた。初めて来た時には気づかなかった。以前からあったのか、最近植えられたものなのかは分からない。ただ、それが妙に目に残った。

「高橋様」

 受付で藤崎が立ち上がる。

「お待ちしておりました」

「お世話になります」

 恒一は頭を下げた。藤崎は軽く一礼し、書類を一枚差し出した。

「内容をご確認のうえ、こちらへご署名ください」

 前回同様、事務的な言葉だが、その声は急かさずに待ってくれる。恒一が文字を読み終えるまで、藤崎は静かに待っていた。書類には、返却日、返却量、受領者名、今後の取り扱いについての注意が簡潔に記されている。恒一は署名欄に自分の名前を書いた。以前より、少しだけ手が震えなかった。

 奥の扉が開き、朝霧が現れた。

「高橋様、本日はお越しいただき、ありがとうございます」

「こちらこそ、ありがとうございます」

 朝霧とともに夏目が台車に木箱を乗せて運んでくる。想像より遥かに大きいサイズだ。木箱には小さな紙片が添えられ、そこに高橋玲子の名前が丁寧な字で記されていた。恒一の呼吸が浅くなる。

「こちらが、玲子様の土壌です。お引き取りは全量を希望とのことでしたので、車までお運びいたします」

 恒一は木箱から目を離せなかった。思わず息を呑む。

「……こんなに、あるんですね」

「はい。半年かけて還元された、玲子様のすべてです。中の土壌は、運びやすいよう内袋に小分けしております。木箱ごと運び出す必要はありません。ご自宅では箱を開け、必要な分ずつ取り出してお使いください」

「なるほど、それはありがとうございます」

 恒一はそっと木箱へ手を添えた。木越しに温もりが伝わることはない。それでも、半年ぶりに玲子を迎えに来たのだと、ようやく実感が湧いた。

「……玲子」

 小さく声がこぼれた。美咲が隣で口元を押さえる。泣いてはいなかった。ただ、目が赤くなっていた。

「お母さん、帰ってきたね」

「ああ」

 骨壺ではない。遺影でもない。触れれば温度があるわけでも、声が返るわけでもない。それでも、どこにもいなくなったわけではないと、今は思えた。朝霧は二人の様子を見て、少し間を置いた。

「この後の使い方は、ご家族でお決めください」

「はい」

「皆様が納得できる場所へ還してあげてください」

 恒一は顔を上げた。

「実は、もう決めています」

「そうですか」

「妻が育てていた木があります。庭の端にある、名前もよく分からない木です。花もあまり咲かない。けれど、玲子がずっと気にしていた木で」

 美咲が微笑んだ。

「お母さん、『これはまだ若いから、これからよ』って言ってたんです」

 美咲の言葉に合わせて、恒一は頷き、続ける。

「その根元へ、還そうと思います。あいつが残していったもののそばが、一番いい気がして」

 朝霧はゆっくりうなずいた。

「良い選択だと思います」

 外へ出ると、山の風が湿った匂いを運んできた。

 朝霧と夏目が台車を車の後ろまで運び、恒一も加わって三人で木箱を荷室へ載せた。車に木箱を積み込んだあと、美咲は朝霧の方を振り返る。

「朝霧さん」

「はい」

「母は、ここでよかったと思います」

「……ありがとうございます」

 朝霧は少しだけ目を伏せて、静かに頭を下げた。恒一も頭を下げる。

「ありがとうございました。妻を、丁寧に預かっていただいて」

「こちらこそ、玲子様の、そして皆様の大切な時間をお預けいただき、ありがとうございました」

 深くお辞儀する深代木葬舎の三人を背に、車を発進させる。

 帰り道、二人はあまり話さなかった。沈黙は重くは感じない。後部座席いっぱいに置かれた木箱が、車が揺れるたび静かに軋んだ。それが不思議で、少しおかしくて、少し寂しかった。


 家に着くと、恒一は車の後部ハッチを開けた。朝霧に言われた通り、木箱はそのまま荷室へ残す。蓋を開けると、中には麻の内袋が整然と並んでいた。

 一つ目の麻袋を抱え、庭へ向かう。庭の土は雨を待つように柔らかく湿っていた。庭の端には、玲子が大切にしていた木が立っている。背は高くない。幹も太くない。けれど、枝先には新しい葉がいくつも出ていた。

「この木、結局なんの木なんだろうね」

 美咲がしゃがみ込みながら言った。

「知らん」

「お母さんも、ちゃんとは知らなかったと思う」

「そんなものを育てていたのか」

「お母さんらしいじゃん。名前より、ちゃんと生きてるかの方が大事って言いそう」

 恒一は少し笑った。

「そうだな、言いそうだ」

 二人で根元の土を掘った。深く掘りすぎず、木を傷つけないように。

 美咲が園芸用の小さなスコップで根元の土を寄せる。恒一は木箱の中から麻袋の一つを両手で抱え、庭へ運ぶ。麻袋の口をほどくと、中には黒く、きめ細かな土が納められていた。指先で触れれば、ほろりと崩れそうな柔らかさだった。見た目は、森の中で見かける黒土のようだ。

「お母さん。帰ってきたよ」

 恒一は袋を静かに傾けた。

 土が静かに根元へ落ちる。音はほとんどしない。風が葉を揺らす。玲子が笑っているようだ、とは言わなかった。そんな都合のいいことを言えば、逆に嘘になる気がした。ただ、玲子が好きだったもののそばに、玲子を還している。その事実だけで十分だった。

「玲子」

 恒一は低い声で言った。

「これからも、よろしく頼む」

 美咲が隣で笑った。

「それ、お母さんに頼むこと?」

「あいつは世話焼きだったからな」

「確かに」

 二人は土をならし、水をかけた。水が土に染み込んでいく。

 その後、何度か車と庭を往復し、一袋ずつ、玲子を木の根元へ還していく。二人は土を広げながら、浅く混ぜ合わせていく。木箱の中の麻袋が、一つ、また一つと減っていく。

 それを見ても、恒一は以前ほど怖くなかった。空になったから終わりなのではない。別の場所へ移しただけだと思えた。

「庭、まだ少し空いているよね。ここに新しい木を植えない?」

「そうだな、暖かくなったら新しい苗も植えよう。母さんなら、きっと増やしそうだ」

 恒一の言葉に、美咲は小さく笑ってうなずいた。

 二人は並んで木を見上げる。風に揺れる若い葉は、雨を待つように静かに揺れていた。玲子が残したものは、思い出だけではない。この庭にも、これから育っていく時間にも、きっと息づいていくのだろう。

「今度、ここでお茶でも飲むか」

 恒一が言った。

「庭で?」

「母さんが、元気な時に来いと言っていただろう」

「来いっていうか、家だけどね」

 美咲は涙を拭きながら笑った。

「でも、いいね。お弁当も作ろう」

「卵焼きはお前が作れ」

「お父さんも練習してよ」

「……考えておく」

 曇り空の下で、二人はしばらく木を見ていた。特別な奇跡は起きなかった。花が咲くことも、鳥が舞い降りることもない。ただ、若い葉が風に揺れていた。それだけで、今はよかった。


 数日後、朝霧は深代木葬舎の玄関前を掃いていた。返却を終えた記録を確認し、深代村の植樹予定表に目を通し、いつものように次の相談の準備をする。藤崎が受付から顔を出した。

「朝霧さん、十時から相談予約です」

「分かりました」

「初回相談です。木葬を希望しているかは、まだ不明です」

「はい」

 朝霧は箒を壁に立てかけた。

「相談室の準備をします」

 藤崎は一度頷き、淡々と付け加える。

「お茶は温かいものにします。ご高齢の方がいらっしゃるようなので」

「お願いします」

 朝霧は相談室へ向かった。窓辺の小さな観葉植物の葉に、朝の光が触れていた。

 ここへ来る人たちは、皆、何かを失っている。けれど、何を選ぶかは人それぞれだった。墓へ入る人もいる。海へ散る人もいる。納骨堂で眠る人もいる。木となって残る人もいる。朝霧の仕事は、そのどれかを正解にすることではない。残された人が、自分たちの言葉で別れを選べるようにすることだった。

 玄関のチャイムが鳴る。藤崎の声が受付から聞こえた。

「おはようございます。ご予約の方ですね」

 朝霧はゆっくり息を整え、相談室の扉を開けた。新しい物語が、また静かに始まろうとしていた。

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