別れ
家に戻ると、家の中は出ていったときのままだった。
朝から温度を下げたままのエアコンが、冷たい風を吐き出している。玄関で靴を脱ぐと、彩葉は大きな恐竜のぬいぐるみを抱えたまま、まっすぐ律の部屋へ向かった。
「ただいま、律」
返事はない。
けれど彩葉は、いつものように律の部屋の扉を開けた。
ベッドの上には、出掛けた時と変わらず、律が横たわっている。布団は朝に整えたままで、頭の下にはぬるくなった冷却枕が置かれている。智也が布団をめくると、腹部に当てていた氷嚢の氷が全て溶けていた。キッチンで溶けた氷嚢の水を捨て、新しく氷を入れる。
冷凍庫から取り出した、新しい冷却枕と氷嚢を持って、律の部屋に戻ると、彩葉はベッドの脇に座り、ぬいぐるみを律の隣に置いていた。
「律の代わりに、連れて行ってきたよ。律が気になってた場所、見てきてもらったからね」
そう言って、ぬいぐるみの頭を撫でる。
智也は部屋の入口に立ったまま、固く口を結び、二人を見ていた。
律は、生前と同じ顔で、静かに横たわっている。彩葉が、律の頬に触れて言う。
「冷たいね」
「ああ」
「朝より、もっと冷たい」
智也は答えられず、彩葉の肩に手を置いた。
葬儀社が来るまで、二人は律のそばに座っていた。何を話すわけでもなく、時折り、ぬいぐるみの位置を直したり、律の髪を撫でたりした。
やがて、玄関の呼び鈴が鳴った。
彩葉の身体が小さく跳ねる。そんな彩葉の肩に手を置いてから智也は立ち上がると、玄関へ向かい、扉を開けた。黒いスーツを着た男が二人。彼らの背後には、黒く大きなワゴン車が家の前に停まっている。
「橘様でしょうか」
「はい」
「葬儀社の『ひだまり堂』です。お迎えに上がりました」
丁寧な声だった。けれど、その言葉を聞いた瞬間、智也は胸が締め付けられる感覚に襲われた。
律を迎えに来た。
分かっていたはずのその言葉の意味を、今になって初めて実感した気がした。
「……少しだけ、時間をいただいてもいいですか」
「もちろんです。ご準備が整いましたら、お声がけください」
葬儀社の二人を玄関の外に待たせ、智也は律の部屋へ戻り、彩葉にそのことを伝えた。
「もう、来たの?」
「ああ。でも、急がなくていいって」
彩葉は頷き、律の隣へ身体を寄せた。ぬいぐるみを抱え直し、その顔を律へ向ける。
彩葉はぬいぐるみをベッドから下ろした。代わりに、律の額へ口づける。
「律」
何度も呼んだ名前が、今はひどく虚しく響く。
「少しだけ、先に行って待っててね。お母さんたちも、必ずあとから行くから」
彩葉の手が、律の頬から離れる。智也は、彩葉の背中に腕を回して律に言う。
「……行ってらっしゃい」
二人で最後に律を見つめたあと、智也は葬儀社の二人を呼んだ。
彼らは部屋に入り、律の身体を丁寧に整えた。白い布が広げられ、見慣れたベッドの上から、少しずつ律の姿が隠れていく。
やがて、担架が部屋から運び出される。玄関の扉が開き、冷たい外気が入り込んだ。
智也と彩葉は、律を乗せた担架が車へ運ばれていくのを、並んで見送った。
エンジンの音が響き、黒いワゴン車がゆっくりと遠ざかっていく。車が見えなくなっても、彩葉はその場から動かない。
智也が隣を見ると、彼女は腕の中のぬいぐるみを強く抱き締めていた。律の部屋には、冷却枕の跡と、乱れた布団だけが残されていた。
三日目の朝、智也は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。隣では、彩葉が眠ったままぬいぐるみを抱えている。
重い身体を起こして律の部屋を少しだけ開けて中を見た。律の好きな玩具や絵本がそのまま残されている。けれど、そこに律の姿だけがない。
午前八時を過ぎた頃、葬儀社から電話がかかってきた。
「おはようございます。『ひだまり堂』の佐藤でございます。橘様、昨夜は大変お疲れさまでございました」
「……おはようございます」
「律様は、昨夜からこちらの安置室でお預かりしております。本日は午後から納棺を行い、夕方から通夜式となります。明日の葬儀・告別式は、午前十時からを予定しております」
「分かりました」
「通夜と葬儀の形式について、改めて確認させていただきたいことがあります。ご都合がよろしければ、式場で打ち合わせを」
「分かりました。準備して向かいます」
電話を切ると、彩葉が目を覚ました。
「葬儀社?」
「ああ。今日、納棺とお通夜。明日が葬式だ」
彩葉は、抱き締めていた胸元のぬいぐるみを見つめた。
「その前に、決めないといけないね」
「彩葉は、どうしたい」
「分からない」
彩葉はすぐに答えた。
「律は、火で焼かれるのが怖いって言っただけ。だから、私達が勝手に木葬を選んでいいのか分からない」
「そうか」
「でも、火葬にしたら、律が怖いって言ったことを無視することになる気がする」
彩葉の声は、段々と震え始める。
「実はさ」
智也がぼそりと呟く。
「律がさ、病室でテレビを見てたとき、言ってたんだ。『木になったら、もっとママといれるのかな』って」
彩葉が、身体を起こし、驚いた表情で智也を見つめた。震える声で、彩葉は言葉を絞り出す。
「そんなの……もっと早く言ってよ……」
「ごめん、落ち着いてからの方が良いかなって」
そのまま、無言で彩葉の目から涙がこぼれる。
「ごめん、ごめんよ」
智也は優しく彩葉を抱き締め、頭を撫で続けた。
彩葉はしばらく黙っていたが、ふと顔を上げた。
「……大丈夫」
その声を聞き、智也はゆっくりと彩葉から離れる。
「律の最後のお願い、叶えないとね」
それから、テーブルの上に置かれた深代木葬舎の資料へ手を伸ばした。
「朝霧さんに、電話して」
智也は頷き、スマホを取り出した。
二人が葬儀社の式場へ向かうと、式場入口の受付脇には、本日の葬儀案内が置かれていた。いくつかの家名が並ぶ中に、『橘家 通夜・告別式』と記された案内がある。その文字だけが、智也の目にはっきりと見えた。
担当者の佐藤は、式場の奥にある安置室へ二人を案内した。
律は棺の中にいた。白い布を掛けられ、顔だけが見えている。自宅にいたときよりも、ずっと遠い存在に思えた。
「納棺は済んでおります。お入れしたいものがあれば、お聞かせください」
彩葉は、抱えていた恐竜のぬいぐるみを見つめた。
「これは、棺の中に入れられますか」
「大きさや素材によっては、還元施設へお預けする際に取り出す必要があるかもしれません。木葬の際に一緒に収めて良いものについては、明日、深代木葬舎でも確認してください」
「……そうですか」
彩葉はぬいぐるみを棺の横に置いた。
「じゃあ、今日はここに置いてください」
その言葉に、佐藤が頷く。
夕方、通夜式が始まった。
参列者は智也と彩葉の二人だけだった。遠方に住んでいる祖父母は来ていないが、今はかえって助かったのかもしれない。そう智也は思った。
祭壇には白い花が飾られ、中央に律の写真が置かれている。元気な頃の写真の中の律は、こちらを見て笑っていた。
司会の声が静かに響き、二人は祭壇の前へ進んだ。花を手向け、深く頭を下げる。
式が終わると、佐藤が控室へ案内した。
「今夜はこちらでお休みいただけます。何かございましたら、いつでもお声がけください」
「律のそばにいてもいいですか」
「もちろんです」
二人は安置室へ戻り、棺の横に並んで座った。葬儀社が用意した食事には、ほとんど手をつけなかった。
夜が深くなるにつれ、式場の照明が落とされていく。棺のそばには、小さな灯りだけが残る。
彩葉は椅子に座り、ぬいぐるみを抱えている。
「家にいたときは、まだ帰ってくる気がしてた。朝になったら起きるんじゃないかって。病院から帰ってきて、少し眠っているだけなんじゃないかって」
智也は何も言わず、隣に座った。
「でも、もう起きないんだね」
「ああ」
彩葉は棺に手を置いた。
「明日、ここから出るんだね」
「……ああ」
「律が怖がらないように、ちゃんと見送らないと」
その言葉を最後に、二人は朝までほとんど話さなかった。
四日目の朝、式場には薄い朝の光が差し込む。佐藤が入ってきて、葬儀と告別式の流れを説明した。
式は通夜と同じく、智也と彩葉の二人だけで行われた。最後に花を棺へ納め、喪主である智也が挨拶をする。
開式の時刻になると、司会が静かに式の始まりを告げた。
智也は祭壇の前に立ち、用意していた紙を開いた。そこには、たった一文の短い言葉しか書かれていない。
「律は、優しい子でした」
たった一文。それだけで、智也は声が震えた。
「律自身が一番苦しいはずなのに、見舞いに行くたびに私達を気遣いました。そんな優しい律に、もっと何かしてやれなかったのか、と、後悔の念は今でも尽きません」
紙には書いていない言葉が溢れる。
「次第に動かなくなっていく身体に、恐怖がなかったはずがありません。それでも、私達には笑顔を見せ続けていました。そんな律は、私達の自慢の息子です。どれだけ親バカと言われようと、これからもずっと自慢したかった」
言葉と共に、涙がこぼれ落ちる。一文しか書いていない紙は、今ではただ智也の涙を受け止めているだけだった。
「けれど、律は最後まで、私達の子供でした。そしてこれからも、律は私達の子供です。私達は、律のことを一生忘れません。どうか、律が穏やかで逝けたことを、そして、これからも私達と共にあることを願います」
それ以上は、言葉にならなかった。彩葉は隣で俯いていた。彼女の肩もまた、智也と同じように震えていた。
式が終わり、二人は棺の中に花を置いた。白い花、黄色い花、淡い紫色の花。律が花で埋まっていく。花を納め終えると、佐藤が棺の蓋を閉じた。
葬儀社のスタッフと共に、智也も棺を担いで式場の外へと運び出す。そして、スタッフが棺を霊柩車へと収める。
深代木葬舎までの、短く、長い旅路が始まった。




