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うさぎ君は口寂しい  作者: 川合 佑樹


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第6話

 その日の授業は平穏に過ぎていった。

 始業式の初々しい緊張感がクラスを包み、ゆうの存在も次第に日常の彩りとして溶け込み始めた。

 生徒たちの視線はまだ熱を帯びていたが、林先生の穏やかな采配で誰も大胆な接近は試みなかった。

 数学の時間だった。

 林先生が黒板に三角関数の基本公式を書き連ね、クラスに問いかけた。

「……じゃあ、この恒等式、証明してみましょうか。サインの二乗プラスコサインの二乗が一になるのを、合同変換を使って……誰か、やってみてくれると助かるんだけど……?」

 教室がざわつくと、少年の手が挙がった。

 彼が穏やかに先生を見据えた。

「はい、先生。サインの二乗を半角の公式で表すと、一からコサインの二倍角を引いたものを二で割った形になります。一方、コサインの二乗は一に二倍角を足したものを二で割った形……それを足すと、余分な部分が相殺されて、きれいに一に収まります!」

 声は静かだったが、的確だった。

 先生が目を細めて、ゆっくりと頷いた。

「……正解よ、ゆうくん。素晴らしいわ……始業式早々、こんな証明をサラリと……さすがね……」

 クラス中から小さな拍手が起き、生徒たちのささやきが広がった。

「王子様、頭いい……」

「勉強も出来るとか、かっこいい……」

 国語の授業でも、藤原しおり(ふじわら しおり)先生が黒板に現代文の抜粋を丁寧に書き連ね、クラスに問いかけた。

 黒髪を後ろできっちりとまとめ、瞳が静かな情熱を湛えた彼女は、授業のたびに言葉の重みを運ぶようにゆったりと歩き、教室の空気を文学の余韻で満たした。

「では、この文章の論理構造について考えてみましょう。作者は表層の描写を通じて、どのような深層のテーマを浮かび上がらせているでしょうか?」

 教室が少しざわつくと、少年の手がすっと挙がった。

 彼が穏やかに先生を見据えた。

「この文章の主眼は、作者の『逆説』にあり、表層の記述が深層の矛盾を強調しています。月兎人の話でも、似たような『影の真理』を……」

 地球の論理に月兎の視点を織り交ぜた答えは、的確で独自の深みがあった。

 藤原先生は静かに息を吐いて頷いた。

「興味深い解釈ね、ゆうくん。逆説の層を月兎人の文化で読み解くとは……皆も、そんな独自の視点を大切に。文学とは、そうした多角的な光で輝くものよ」

 あかりは隣の席にいて、時折少年の横顔をチラリと覗き見た。

 ノートを取る手に力を入れ、この王子、意外と真面目だった──ペンを握りしめ、胸が少しざわついた。


 チャイムが鳴ると、お昼の時間になった。

 教室は一気に賑やかになり、弁当箱の蓋が開く音や友達の笑い声が響き、窓辺でおにぎりの香りが広がった──始業式らしい穏やかな喧騒だった。

 みおが後ろの席から飛び出し、あかりの机に近づいてニヤリと笑った。

「よし、あかり! 飯食お―ぜ!」

 スポーツバッグから弁当を取り出した。

 だがゆうはそんな二人をよそに窓際の席にいて、じっと教室の様子を観察していた。

 好奇心に瞳が輝いた。

 誰かがお菓子を分け合い、誰かがスマホで写真を撮り、誰かが友達と肩をぶつけ合って笑った。

 賑やかな光景に、少年の心は吸い寄せられた──地球の皆さん、楽しそうだな……。僕も、早く馴染みたい。

 あかりはそんな少年の横顔に気づき、眉を寄せた。

「あんた、お昼ご飯食べないの? ずっとぼーっとしてるけど、月兎人だって空腹になるでしょ?」

 ツンと肘で突ついた。

「そうだぜ、王子! 俺の弁当、シェアするぞ?」

 みおは弁当の蓋をぱちんと開け、笑いかけた。

 その瞬間、教室のドアが静かに開き、ラビが入ってきた。

 彼女は銀のトレイを両手に持ち、足音も立てずに少年の机に近づいた。

「ゆう様、お食事のご準備が整いました」

 ラビは素早く白いテーブルクロスを少年の机に広げた。

 その上に皿を並べ始めた。

 皿の上に運ばれてきたのは、ボリューム満点のヘルシー料理──新鮮な葉物野菜とキノアのサラダ、グリルした豆腐とブロッコリーの炒め物、全粒粉のパンとアボカドのスプレッド、ベリーとヨーグルトのデザート、ナッツとドライフルーツのミックス──で、色とりどりの野菜が山盛りだった。

 栄養満点のランチセットだった。

 香ばしいハーブの匂いが教室にふわりと広がった。

 あかりはぽかんと口を開け、目を丸くした。

「あんた、そんなに食べるの……? それ、一家族分みたいじゃない」

 みおも弁当を止め、口笛を吹いた。

「すげー量! 俺の倍以上じゃん!」

 少年ははにかんだ笑みを浮かべて頷いた。

「ええ、月兎人は一日に六千キロカロリー以上は取らないといけないんです。……これでも僕は小食なんですよ」

 フォークを手に取る仕草がなんだか可愛らしかった。

 クラスメイトたちの視線が集まり、ささやきが広がった。

「王子、食欲旺盛!」

「羨ましい体質……ダイエットしなくていいんだ」

 みおはそんな光景を見て目を輝かせ、唐揚げを頰張りながら提案した。

「せっかくだし、机くっつけてみんなで食おーぜ!」

 笑顔で机をずらし、あかりの視線をチラリと見た。

 あかりはため息をつき頷いた。

「まあ、いいわよ……でも、はしゃぎすぎないでよね」

 こうして三人は机をくっつけ、即席のランチテーブルを囲んだ。

 少年は早速フォークを手に、サラダの新鮮なレタスを一口頰張り、目を細めた。

「このキヌアの食感、面白いですね……地球の穀物って、こんなにプチプチしてて美味しいんですか?」

 あかりは自分の弁当からおかずのハンバーグを一つ取り、少年の皿にそっと置いた。

「ゆう、野菜だけじゃ味気ないでしょ?」

 少年は少し慌てて手を振った。

「えっ、ありがとうございます! けど……僕、肉類は食べられないんです。月兎人は草食で、動物性タンパク質は体に合わなくて……豆腐とかで代用してます」

 みおは唐揚げをもう一つ頰張りながら、目を輝かせた。

「マジかよ! 俺だったら耐えられないなー」

 三人で大笑いし、少年はナッツをポリポリかじりながら、みおのスポーツ話に耳を傾けた。

「俺がマラソン大会でさ、雨の中走って……その時あかりがさ……」

「もー……その話はやめてよー」

 教室の話題やあかりのハプニング話が飛び出し、ベリーのデザートをシェアしながら、時間はあっという間に過ぎた。

 ラビはそんな三人を少し離れたところから見守った。

「ゆう様、はしたないですよ……お上品に召し上がれませ」

 多少のたしなめを入れつつ、唇に笑みを浮かべた。

 少年の楽しげな笑顔に、ラビの胸も温かくなった──ご学友がお出来になった。本当に良かった……。

 窓から差し込む陽光が四人のテーブルを照らし、ランチタイムの賑わいが穏やかに続いた。


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