第32話
中に入ると、ひんやりとした空気が肌を刺すように冷たく、足元に敷かれた枯葉がカサカサと不気味な音を立てた。
あかりは少年を抱えたままキスした。
唇が兎の口先に触れ、光のヴェールがゆっくりと消えた。
「……ほら、着替えなさいよ!」
少年は元の姿に戻り、服を受け取って急いで着替えた。
燕尾服が暗闇に溶け込んだ。
赤い瞳が周囲を警戒し、冷静になったあかりは辺りを見渡して息を呑んだ。
圧倒的資金力で作られた、文化祭とは名ばかりの超本格的アトラクションだった。
天井から垂れ下がる蜘蛛の巣が糸のように絡みつき、壁の剥がれた塗装の下に血文字の呪文が浮かび上がった。
床は湿った土のような感触で、足を踏み出すたびぬちゃ……と粘つく音が響いた。
遠くから低く唸る風の音が幽霊の息遣いのようで、空気は湿気とカビの匂いが混じり、視界の端で影がチラチラと動いた。
日本のお化け屋敷の王道が徹底的に再現されていた。
廃校のセットは埃っぽい机が倒れ、黒板に血で書かれた「帰れ」の文字が蛍光塗料で不気味に光った。
心臓の鼓動のような低周波の音が流れ、徐々に速くなった。
心理的な圧迫感が徐々に積み重なり、暗闇の奥で突然のフラッシュが光り、患者の絶叫テープがループした。
視覚、聴覚、触覚のすべてを恐怖で支配した。
少年が先頭に立ち、赤い瞳が薄暗い所で鋭く光った。
「僕は薄暗い所で目が利くので……皆さん、僕の後ろにいてください!」
執事服の裾を払い、みんなをリードした。
あかりが少年の袖を握った。
「よし、いくわよ!」
みおがあかりの背中にしがみついた。
「おう! 背中は任せろ!」
ゆいがみおの肩を押した。
「ゆうくん……ごめんねぇ」
りんが最後尾で立った。
「大丈夫だ……大丈夫だ」
五人は震える足取りで進んだ。
足音だけが響く中、後ろから唸り声がした。
「ううう……」
低く喉を鳴らす怨霊のような影が這い寄った。
黒いローブを纏った幽霊が壁から這い出し、長い爪を伸ばして追いかけてきた。
カサカサと床を擦る音が背後で増幅し、息が首筋にかかるような錯覚がした。
みおが後ずさった。
ゆいが腰を抜かし体を固くした。
りんの脚ががくがく震えた。
「きゃあああああああ!」
みんなの悲鳴が廊下にこだました。
少年は振り返り叫んだ。
「ゆいさん!」
瞬発力で近づいたが、ゆいを守ろうとした時すでに遅しだった。
ゆいは恐怖の頂点に達し、意識を失った。
「ゆいさん……大丈夫ですか!」
少年の瞳が揺れ、ゆいの体を支えた。
だがスタッフの幽霊が素早く近づき、呼吸の確認をし脈を測り全体を目視した。
「ここは私たちに任せて頂いて、大丈夫です。エスコートを続けてください」
スタッフが告げると、少年は一瞬考え、頷いた。
ゆいの体をスタッフに預け、三人の元に戻った。
「ゆいさん、リタイアです……スタッフの方に連れられて脱出する運びとなりました」
あかりは息を荒げた。
「なんでこんなに本格的なのよ……!?」
みおが震えた。
「マジかよ……先輩……」
りんは銀髪を押さえた。
「……プロの仕事ね……」
四人は震える足で先に進んだ。
怪しい部屋が現れた。
アクリル越しの手術室で、手術台で蠢く患者の影があり、メスを握った医師が臓器を抉るような音を響かせた。
血しぶきのスプレーがガラスを汚した。
「近寄らなきゃ大丈夫……近寄らなきゃ大丈夫……」
あかりは呟いてみんなを引っ張った。
だが医師がこっちに顔を向け、マスクを外してニヤリと笑い、指を上に向けた。
四人は自然と上を向き、天井は何もなくただの暗闇だった。
ゆっくり下を向くと、手術台の患者がバーン! とアクリルにぶつかり、腐った顔がガラスに張りついた。
血走った目がみんなを睨み、口から血泡を吹いた。
あかりは叫びあがり後退した。
「ぎゃあああっ!」
みおとりんが立ったまま気絶した。
みおの体がぐらりと傾き、りんの銀髪が乱れ、二人は少年の腕に寄りかかった。
スタッフのお化けが素早く支えた。
「……先に行ってください」
スタッフが告げ、少年は頷いた。
そしてあかりの手を握った。
「あかりさん……行きましょう」
あかりは息を荒げた。
「ふたりは……!?」
少年は瞳を細めた。
「大丈夫です……落ち着いたら後で合流するそうです」
二人は手を繋ぎ先に進んだ。
洞窟のようなスペース。
薄暗く、岩壁が湿った息を吐くようで、足音がただ響き渡り、滴る水音が天井からぽたりぽたりと落ちた。
足元を滑らせ、壁の苔が指先に冷たく絡みつき、遠くで地響きのような唸りがし、視界の端で影が蠢いた。
息を潜めた獣の気配が背筋を凍らせた。
空気は重く淀み、肺に湿気を溜め込み、一歩ごとに暗闇が深まった。
奥に大量の骨があり、人間の骨が山積みになっていた。
白く輝く頭蓋骨が転がり、肋骨が指のように絡みついた。
その先に巨大な蛇が口を開け待ち構え、鱗が夕闇に光った。
出口が遠くに見えたが、蛇の巨体が道を塞いでいた。
「やった、出口……!」
あかりは進もうとしたが、少年が一歩も動けなくなった。
瞳が蛇に釘付けになった。
「あかりさん……僕、蛇だけはどうしても苦手で……」
体が凍りつくように固まった。
蛇の瞳が少年を嘲笑うように輝いた。
しかしその時だった。
後ろから大量の化け物が走って来た。
ゾンビの群れの腐った肉が剥がれ、目玉が飛び出し、うめき声の合唱が洞窟を震わせた。
「ううう……!」
爪が空を切り、足音が地響きのように迫った。
「ギャー!」
あかりは叫び少年の袖を引っ張った。
「ゆう、行くわよ!」
少年は蛇の恐怖に震えながら叫んだ。
「今日は、良いところを見せるんだ!」
目をつむってあかりを抱きしめた。
月兎人の瞬発力が爆発し、一瞬で蛇の巨体を飛び越えた。
出口まで走り抜け、化け物の爪が背中をかすめ、息が首筋にかかり、風を切り裂いて出口の光へ。
外でラビが待っていた。
「お疲れ様でしたわ……楽しんでいただけましたか?」
あかりに温かいお茶を手渡した。
あかりは天を仰いた。
「もう二度とごめんよ……! 心臓止まるかと思ったわ……」
汗で濡れた制服が体に張りついた。
すると遠くから聞き慣れた声がした。
「ゆうくん……! あかりさん……!」
ひよりが駆け足でやってきた──いつも控えめなひよりが、こんなに必死で走ってくるなんて、珍しい光景だった。
「そろそろ、イベント始まっちゃいますよ……!」
少年は立ち上がり瞳を輝かせた。
「ありがとう、ひよりさん!」
少年はあかりを支え、ラビが手を貸した。
少年、あかり、ラビ、ひよりの四人は新体育館のイベントステージへ向かった。
旧体育館の暗闇が背後で静かに息を潜め、文化祭の喧騒が再びみんなを包んだ。




