第3話
あかりの言葉が響いた。
「キス……って!? ちょっと、待ちなさいよ、そんな簡単に言われても……」
彼女の頰がさらに火照り、委員長らしい冷静さが崩れた。
ポニーテールが揺れ、ベッドの上で膝を立てた。
ゆうから少し距離を取ろうとする仕草が、なんだか可愛らしかった。
彼は思わず伏せてしまった。
「そうだよね……嫌だよね。大丈夫、僕のメイドを呼んでくれれば解決するから。放課後まで放っておいてくれれば……その間に連絡取るよ」
声が小さく、どこか申し訳なさげだった。
保健室の時計の針がゆっくりと進む音がし、二人の間に気まずい沈黙が流れた。
カーテン越しの陽光が少年を照らす中、あかりの視線がちらちらと彼の顔を盗み見た。
「……ふん、何でこの学校に来たのよ。そんな体質なのに。月兎人の王子様が地球の女子高で兎化だなんて、笑い話にもならないわ」
言葉に棘があったが、瞳の奥には本気の心配がにじみ、委員長の責任感が彼女を突き動かした。
少年は深呼吸をして目線を挙げた。
「本当は僕じゃなくて……五つ子の兄が来る予定だったんだけど、月で結婚相手が決まっちゃって、代わりに僕が来ることになったんだ。本当は怖かったよ。地球なんて知らない世界で、みんな通る道だって思って頑張んなきゃって……でも初日からこれじゃ、もう誰もお嫁さんになんてなってくれないよね」
あかりの表情がわずかに曇った。
「だからって、キスって……そんな、簡単に……」
口を尖らせ頰を膨らませたが、視線は少年から逸らさなかった。
気まずい時間が再び流れ、保健室の外から遠くに生徒たちの笑い声が聞こえた。
彼は慌てて前足を振った。
「大丈夫だよ。放課後までここにいるよ。メイドが迎えに来てくれるから、その時に元に戻してもらう。僕、待てるから……」
笑顔を浮かべたが、寂しさが滲んだ。
あかりは眉を寄せて少年を見つめた。
「そのままの姿でみんなといるのじゃダメなの? 兎のままで授業受けて友達作って……それでいいんじゃないの?」
言葉に少年を気遣う優しさが混じった。
彼はくすっと笑いながら首を振った。
「この姿だとちょっとした拍子で死んじゃうから……」
諦めと悟ったような表情を浮かべ、瞳を窓の外に向けた。
カーテンの隙間から差し込む光が二人の影を長く伸ばした。
あかりは突然自分の頰をパチンと叩き、決意の視線を少年に戻した。
「……分かったわ。……これは仕方がない……仕方がないことだから。あなたを守ると言った女に二言はないわ」
そう言いながら彼の腕をぐっと掴んだ。
指先が少し震えていた。
指の腹から伝わる少年の体温が、彼女の掌を熱く染め、小さな炎のように決意を灯した。
少年の瞳が見開かれた。
「えっ……?」
胸の奥で小さな嵐が巻き起こる。
彼の視界があかりの顔で埋まり、彼女の黒い瞳に映る。
あかりの息遣いが近づき、保健室の静かな空気に花の香りが混じり、少年の鼻腔をくすぐった。
それは、月兎人の繊細な感覚を溶かすような、春の蜜のような甘美さで、彼の体を微かに震わせた。
あかりは意を決したように少年のほっぺに唇を寄せた。
柔らかな感触が彼の肌に触れ、二人の息が静かに重なった。
彼女の唇は少年の頰を包み込む。
綿菓子のような柔らかさが、ゆっくりと広がり、彼の神経を優しく痺れさせ、一瞬、時間が止まったように感じられた。
唇の端から伝わるあかりの鼓動が、少年の耳に囁く──「怖くないよ、守ってあげる」──という無言の約束のように、胸の奥まで染み渡った。
唇を離した瞬間、彼女の頰は夕陽のように染まり、視線を逸らして息を吐く仕草が、心の揺らぎを露わにした。
「これでいいんでしょ? 早く戻りなさいよ……」
声が上ずり、ツンとした言葉の裏に照れが隠せなかった。
少年の頰に残る余韻が、風に舞う花びらのように残り、二人の間に新しい絆の糸を紡ぎ出す。
だが。
何も起きず、彼の体は兎の姿のままだった。
あかりの瞳がわずかに不安げに揺れ、少年は申し訳なさそうに唇を噛んだ。
「あの……口じゃないとダメなんです……」
声が蚊の鳴くように小さく、顔が真っ赤に染まった。
あかりは頭を抱えて、深く息を吐いた。
「もう……っ!」
眉を吊り上げ、意を決したように、もう一度少年を膝の上に引き寄せた。
指先が震え、息が熱く絡み合い、彼女の唇がゆっくりと近づく。
兎の口元に、そっと触れた。
少年の小さな鼻息が、あかりの唇に絡みついた。
その瞬間、彼女の指が無意識に彼の尻尾に触れた──毛並みの下、敏感な付け根を、軽く撫でるように。
電流のような快感が少年の体を駆け巡り、体がびくんと弓なりに反った。
──この感触、柔らかくて……熱い……。
「ひゃ……っ!」
あかりの指が、思わずもう一度、なぞる──それは、無意識の誘惑のように、少年の本能を刺激した。
キスをしたまま、白い光がふわりと広がった。
輝きが保健室を包み込み、まるで月光が降り注ぐような光。
霧のように彼の体を覆い、兎のシルエットがゆっくりと溶け、少年の姿が現れる。
あかりの膝の上で、少年の体が人間の輪郭を蘇らせた。
あかりはゆっくりと目を開け、唇を離した。
互いの吐息が熱く絡みつく──蜜のように甘く、果実を噛み締めた後の余韻のように唇の端に残った。
彼女の胸がざわついた。
ツンとした仮面の下で、少女の純粋な照れが、熱い波のように広がった。
目と目が合い、赤い瞳と黒い瞳が互いを映し込んだ──少年の瞳には、あかりの不安と優しさが、赤い宝石のように輝き、彼女の瞳には、彼の純粋な喜びが、黒い夜空に星のように散らばった。
その瞬間、あかりの顔が爆発的に熱くなり、慌てて顔を背けた。
照れ隠しに少年の肩をぐっと押してしまい、彼の体がベッドの上にどさっと転がった──シーツが体を受け止め、息が漏れる。
「うわあっ!?」
少年の小さな悲鳴が上がり、あかりは慌てて振り向いた。
「ご、ごめん……!」と叫び、視線を戻した。
「今、こっち見ちゃダメっ!」
彼が慌てて手を伸ばすが、時すでに遅しだった。
そこには、キスと尻尾を触られた余韻で、少年らしい無防備な反応が、ありありと晒されていた。
月兎人の敏感な本能が、少年の体を無垢で、しかし切なく魅力的に晒していた。
あかりの喉から声にならない声が上がった。
「……あ、あ、あ……!」
委員長の仮面が完全に崩れ落ち、彼女の瞳が大きく見開かれ、顔が爆発的に熱くなり、息が熱く乱れた。
保健室の空気が一気に熱く染まった。
消毒液の匂いが混じり、陽光の粒子が舞い、シーツの皺が二人の影を包む。
まるで、運命の糸が絡みつくように、静かな部屋が心地よい渦に変わった。
この瞬間が二人の運命をどんな風に絡め取っていくのか──保健室の扉の外から、遠くのチャイムが静かに響き、物語の次のページを促す心地よい余韻を残した。




