第2話
出口の扉に近づいたその時──ふと視界の端に黒髪のポニーテールがちらりと揺れ、少年の体が柔らかな影に包まれた。
一人の少女が息を荒げて彼の前にしゃがみ込み、両手を広げて待っていた。
まなざしが少年を捕らえた。
その姿は物語から飛び出してきたような、穏やかで強い輝きを放っていた。
「……怖がらないで。私が守ってあげるから」
少女の声は喧騒を遮断するように、そっと響き、彼の兎耳がピクッと跳ね上がった。
逃げかけた前足が止まり、心臓が再び高鳴り始めた──誰……この子は?
彼女の名は後に少年が知ることになるが、クラス委員長の佐藤あかり(さとう あかり)だった。
少女の両手が彼の体をすくい上げ、温かな掌の感触が白銀の毛並みを覆った。
指先の微かな震えが、守るべきものを大切に扱う決意を物語り、彼の体を優しく支えるように寄り添う。
──え……この手、優しい……。
少年が少女の顔を見上げて見つめる。
視界には心配と決意が混じり、頰がほんのりピンクに色づいていた。
ツンと張った唇がわずかに緩み、彼を安心させるための笑みを浮かべた。
でもその奥に照れ隠しの棘のようなものがわずかに見えた。
「まったく、こんなところで兎化しちゃって……。みんなに捕まったら大変でしょ? ほら、じっとしてなさいよ」
少女の声はそっと響くように低く、優しさがにじんだ。
守ってあげる、と言った直後の言葉がすでに少し照れくさそうだった。
でもその手は決して離さず、少年の体を胸元に押し当て、心臓の鼓動が布地越しに感じられた。
生徒たちの叫び声が背後から迫ってきた。
「どこ行った!?」
「あっちの出口かも!」
あかりは廊下の角を曲がり、階段を急ぎ下りた。
その最中、彼女の腕が少年の小さな体をしっかり固定しようと自然にずり上がった。
──あっ、待って……!
彼の体がピクンと跳ねた。
彼女の指先が尻尾の付け根──月兎人の最も弱い部分──に軽く触れてしまったのだ。
毛並みの下で電流のような感覚が走り、少年の体が熱く震わした。
「ひゃうんっ……!」
小さな声が廊下に切なく響き、彼の瞳が涙で潤んだ。
あかりの足が急に止まった。
彼女は抱えたままの少年を見下ろした。
「な、何よその声! 変な声出さないでよっ、バカ兎! 逃げてる最中なんだから、静かにしなさいよね……っ!」
ツッコミの言葉が恥ずかしさを隠すように鋭く飛び、指先は尻尾から離れて代わりに彼の背中を撫でた。
少年は恥ずかしさで体を小さくした。
階段を再び急ぎ下りながら、二人の息遣いが重なり、廊下の風が甘く混じり合った。
あかりの腕の中で彼の小さな尻尾がまだ震えていた。
この出会いがただの逃避行じゃ終わらない直感が少年の心をくすぐった。
ようやく校舎の端にある保健室の扉に辿り着き、あかりは息を荒げ、彼を片手で抱えながらもう片方の手でノブを回した。
中は静かで、白いカーテンが陽光を濾過し、消毒液の匂いが少年を迎えた。
扉を閉め、あかりはベッドの端に腰を下ろし、彼を膝の上に置いた。
「はあ……なんとか逃げ切ったわ。あなた。こんな姿で逃げ回ったら、みんな夢中になるに決まってるじゃない」
眉を顰め頰を膨らませたが、すぐにその表情が溶け、指先で少年の耳を撫でた。
保健室の静かな空気に二人の息遣いが溶け合い、新しい物語のページがめくられるのを感じた。
あかりは指を引き、膝の上で体を起こそうとする少年をじっと見た。
まなざしがわずかに細められ、委員長らしい責任感が滲み出た。
「それで、あんたそれどう戻るの? 兎化の解除とか、月兎人のマニュアルみたいなの、持ってるんでしょ? 早く説明しなさいよ」
──どうやって……。
しばらくの沈黙が保健室の白いカーテンを揺らし、消毒液の匂いが少年の鼻をくすぐった。
心臓のドキドキが耳にまで伝わった。
「怒らない……?」
彼の声は小さく震えて、風に舞う兎の毛のように儚かった。
あかりの眉がビクッと動いた。
「は? 何よそれ。怒るわけないでしょ。こんなドタバタ起こして、私まで巻き込まれてるんだから。早く元に戻ってもらわないと、その方が厄介じゃない。みんなまだ講堂で探してるかもよ? 委員長として収拾つけないと」
少年は唇を噛み、悩んだ挙句息を整えて瞳をあかりに上げた。
「……異性からのキスで……戻るんだ」
空気が一瞬止まったように感じ、彼女の顔が再びピンクに染まった。
吊り上げた眉がわずかに揺れ、保健室の扉の外から遠くに生徒たちのざわめきが聞こえてきた。
この秘密が二人の距離をどんな風に縮めていくのか──少年の心臓はまだ高鳴りを止めなかった。




