第20話
放課後の手芸部室は、いつもより重い空気が漂っていた。
あかりがため息をつき、テーブルを叩いた。
「このままじゃ、まずいわよ……」
みおは肩をすくめ、明るく返した。
「そんなことないだろ!」
ゆいは頰に指を当て、ふわふわのヘアを揺らした。
「確かに、そうね……」
りんは銀髪を耳にかけ、視線を上げた。
「言われてみれば……ね」
ラビが口を開いた。
「気にし過ぎでは?」
部屋に一瞬の間が訪れた。
あかりの目がぱっとラビに向いた。
「ラビ……なんで、あんたがここにいるのよ!?」
ラビは一礼した。
「ゆう様が、皆さまを探しておられましたので……。お邪魔でしたら、失礼いたします」
あかりははあっとため息をつき頭を抱えた。
「まぁ、ちょうどいいわ……座ってなさいよ」
そう言い、部屋の隅のホワイトボードにマーカーを走らせ、デカデカと文字を書いてバン! と叩いた。
そこには、「私たちゆうにほだされ過ぎでは!? 対策会議」と、赤い大文字で刻まれていた。
ゆいだけがパチパチパチと手を叩いた。
あかりは腕を組み、みんなを睨んだ。
「出会ってから早数週間……すでに、私は自分の銀行口座を見るのが怖いわ。初めは恐る恐る使ってたけど、ついにわかったのよ。明らかに、私たちの置かれている状況は異常よ! 一億がポンポン入ってくるなんて……このままだと、経済感覚がバカになるわ! てか、すでになってるわよ! 最近ネットショッピング見ながらこれも買えちゃうなーとか平気で思うようになっちゃってるんだもの! まだ怖くて買えないけど、どこかでタガが外れたら終わりよこれ!」
みおはにやりと笑い、頭を掻いた。
「そうかなー? 俺はあんまり生活が変わった感じしないから、全然いいけどなー。ゆうの奴、喜んでくれてるし」
あかりの視線が鋭くみおを射抜いた。
「あんた、この間クソ高い競技用シューズ買ったの、知ってるんだからね!」
みおはぴゅーっと口笛を吹き、目を逸らした。
「お、おう……まあ、ちょっとだけ……」
ゆいは頰を撫でた。
「確かに、ゆうくんから頂いていると思うと、少し申し訳なく感じるわね」
りんは呟いた。
「私は画材が買えているから、助かっている……高級の油絵の具、久しぶりだった」
あかりは頭を抱え、テーブルに突っ伏した。
「まともなのは、私とゆい先輩だけなのかしら……」
ラビが静かに口を開いた。
「私共はこの学校に籍を置くものすべてを、事前に調査しております。皆さまがゆう様のことを、悪意を持って利用する方ではない、ということは当然分かっております。本日は、このようにゆう様のことを考え行動して頂けていることに感謝しております。そして一つだけ、お伝えしたいことがあります」
あかりが身構え、睨んだ。
「一体、何よ……」
ラビの唇がニヤリと弧を描いていた。
「ゆう様の個人資産は現時点で、日本円換算で……百七十五兆三千八百四十六億円ですので。結婚いたしますと、一億円程度でガタガタ言っている場合じゃありません」
部屋が凍りつき、全員の目が見開かれ息を呑んだ。
そして声が揃った。
「兆……!?」
あかりは椅子にどさっと座り込んだ。
「もう、この議題辞め辞め……あほらしーわ! 兆って、何よそれ……」
みおは天井を仰ぎ、口をぽかんと開けた。
「兆って……何億なんだ……?」
ラビは声を少し張り上げた。
「ですので、皆様には安心してゆう様をお慕いして頂ければ嬉しく存じます。月兎人はその特性から伴侶を多く望みます……皆さまをご不快にさせるやもしれませんが、もし可能であれば……」
そこでラビの声がぴたりと途絶え、メイド服の肩がわずかに震えた。
あかりが身を乗り出した。
「なっ……何よ!?」
部屋の空気が張りつめ、ラビは声を絞り出した。
「もし可能であれば……少しでも良いので、ゆう様を……愛して頂けると幸いです……」
その言葉に複雑な感情が溢れ出した──愛のような願いのような、焦がれのような悲しみのような、絶望のような。
ラビの瞳が皆の心を打ちつけ、メイドの仮面の下で少年への忠誠と孤独な想いが静かに爆発した。
あかりは照れ臭そうに視線を逸らし、軽く咳払いをした。
「……愛とか結婚とかはまだ分かんないけど……好きでもない奴と何度もキス……なんて、しないわよ!」
みおは目線を泳がせ、短髪を掻きむしった。
「靴は買ったんだが、これは自分のお小遣いで買ったんだ……実は怖くて、まだ口座には手付かずで……。俺も愛はまだ分からないけど……ゆうのことは嫌いじゃないぞ。キスはまだ恥ずかしいけどな!」
ゆいはラビに近づき、抱きしめた。
「ラビちゃんのおかげでゆうくんはきっとあんなに優しい子に育ったのね。カッコいいし、かわいいし……私はゆうくんのこと、大好きよ。だから落ち着いて。ね?」
りんは銀髪の外はねを指で直した。
「ゆうはとてもいい子だ。前に絵を描かせてもらったが、あんなに穏やかで汚れのない人間は初めて見た。きっと育った環境がとても良かったのだと思う。お金は大事だが……私も愛のない結婚はしたくない。きっと彼を愛すると誓おう」
ラビはゆいの体をゆっくり離した。
「……ありがとうございます」
折れ耳がぴくりと立ち上がった。
「調査通り、いい人達みたいで……良かったです。これからもゆう様をよろしくお願いいたします」
深く頭を下げ、メイド服の裾が優雅に揺れた。
その時、コンコンとドアがノックされ、扉が開いてゆうが顔を覗かせた。
「みんな、ここにいたんですね! あれ……ラビも? 探してたんですよ……」
笑みを浮かべ、瞳が自然と部屋の中をなでるように巡る。
テーブルを囲むみんなの姿を捉え、次第に奥の壁──そこに立てかけられたホワイトボード──へ視線が移ろうとした。
黒板のようなその表面に、赤いマーカーで書かれた文字が、夕陽の角度でかすかに光を反射して、ぼんやりと浮かび上がる。
あかりの心臓が、ぴたりと止まるような感覚に襲われた──まずい! あれを見られたら……!
咄嗟に立ち上がり、勢いよく飛び出るように少年に駆け寄った。
指先が少年の肩を掴み、引き寄せるように抱きしめる。
少年の体があかりの体に寄り添うように収まり、ホワイトボードを背後にかばうように、二人の影が重なる。
あかりの心拍が速く鳴り、息が少し乱れ、少年の髪が彼女の頰をくすぐるように触れた。
部屋の空気が一瞬で甘く張り詰め、みんなの視線が二人に集中する。
「ゆ、ゆう! ちょうどいいところよ。何か用?」
あかりの声はいつもより少し上ずり、慌てふためく響きが混じっていた。
少年の体温が布地越しに伝わり、彼女の腕の中で彼の肩がわずかに固くなるのを感じる。
少年の頰があかりの体にそっと寄りかかり、柔らかく温かな感触が、少年の肌を包み込むように広がった。
シャンプーのほのかな残り香が鼻をくすぐり、少年の心臓が、突然の接近に激しく鳴り始めた。
「あ、あかりさん……?」
少年の声が小さく震え、瞳が大きく見開かれる。
胸の奥で熱い波が一気に広がり、息が詰まるようなドキドキが体を駆け巡った。
耳が熱くなり、視界が少しぼやけ、背中から白銀の毛がふわりと広がる感覚がした──だめ、今、ここで……! でも、止まらない……。
ぱふんっ、という可愛らしい音が響き、少年の体が瞬時に小さく変わった。
手のひらサイズの真っ白な兎が、あかりの腕の中でぴょんと跳ね、長い耳をぴくりと立てて周囲を見回す。
兎姿の少年の瞳が、慌ててあかりの顔を見上げ、耳がぺたんと伏せてしまう。
その隙に、ラビが素早く動いた。
音もなくホワイトボードに近づく。
ハンカチを手に取り、赤いマーカーの文字を一瞬で拭き取った──跡形もなく消え、ただの白い板だけが残った。
彼女の青い瞳が満足げに細まり、静かに元の位置に戻る。
誰も気づかないほどの速さと優雅さで、部屋の空気を守った。
「あの……その……どうしたんですか?」
少年の声が部屋に響いた。
みんなの笑いが爆発した。
この「対策会議」が意外なハプニングで幕を閉じ、少年の兎姿がみんなの輪の中でぴょんぴょんと跳ねた。




