第11話
昼休みのチャイムが穏やかに校舎に響き渡った。
始業式から数日が経った昼休み。
林先生がゆうを呼び止め、穏やかな笑みを浮かべた。
「ゆうくん……悪いけど、この本を図書室に戻してくれない? 私、職員会議で手が離せなくて……ふう、助かるわ……」
彼の手に渡されたのは古い歴史書で、表紙の革がしっとりと指に馴染んだ。
「わかりました、先生」
少年は軽く頭を下げ、教室を出た。
廊下は昼休みの喧騒に満ち、生徒たちが三々五々弁当の余韻を語らいながら行き交っていた。
彼が歩き出すと、次々と声がかかった。
「ゆうくん、お昼一緒に食べよー!」
「さっきの数学の答え、教えてよ!」
「王子様、今日もかわいいね!」
少年は一つ一つに返した。
「ありがとうございます、でも今は用事で……また後で!」
「ええ、わかりましたよ。ノート、貸しますね」
「ふふ、ありがとうございます」
挨拶の合間に頰が少し熱くなった。
特訓の成果か、視線にドキドキしつつも兎化はせず、彼は穏やかな笑みを保ちながら廊下を進んだ。
階段を下り、校舎の奥へ進むと、図書室の扉が見えてきた。
図書室への道は校舎の喧騒から少しずつ離れていた。
扉は木製で、取っ手の真鍮が冷たく掌に触れた。
ゆっくりと回す感触がまるで書物のページをめくるようで、軋む音が小さく響き、扉が開いた。
ひんやりとした空気が彼の頰を撫で、本の匂いがした。
古紙とインクの混じった懐かしい香りが鼻をくすぐり、静寂が耳に染み込んだ。
室内は木製の棚が壁を埋め尽くし、背の高い本棚の隙間から陽光が筋のように差し込み、床の絨毯に淡い影を落としていた。
中央の閲覧テーブルには数冊の開かれた本が静かに佇んでいた。
遠くの窓辺では埃が舞う光の粒子がまるで物語の精霊のように揺らめいていた──なんだか心地いい……。
受付カウンターの隅に一人の女の子が座り、本を膝に広げ静かにページをめくっていた。
高橋ゆい(たかはし ゆい)先輩、図書委員の三年生だった。
栗毛のふわふわとしたロングヘアが肩を覆い、ゆったりとしたサマーセーターが柔らかな輪郭を包み込むように広がっていた。
座った姿勢で膝の上に本を広げたその姿は、まるで小さな子守唄を紡ぐような穏やかな安定感を湛え、周囲の静寂をより深く、温かく守っているようだった。
セーターの布地が体に寄り添うように沈み込み、腰から下にかけての豊かな曲線が、椅子を優しい抱擁のように受け止める──誰もが寄りかかりたくなる、静かな港のような存在感を放っていた。
少年はカウンターに本を静かに置いた。
「あの……本を返しに来ました」
声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
大きな瞳が、彼を捉えた。
「あら、ありがとう。でも担当の先生、今出て行っちゃって……もう少し待ったらきっと帰ってくると思うわ。ごめんね、座っててね」
「わかりました」
少年は頷き、カウンターの端に腰を下ろした。
木の椅子がわずかに軋んだ。
静寂が再び訪れた。
ゆいは、再び本に視線を落とした。
ゆったりと時間が流れた。
彼女はふと手を止め、しおりを挟んで本を閉じた。
ゆっくりと少年に視線を流し……じっと見つめた。
その眼差しは、深く温かく、彼の全身を包み込むようだった──無防備な少年の心の隙間を、静かな波のように染み渡り、母のような包容力で満ちていた。
視線が絡みつき、少年の瞳を捕らえ──その奥に宿る穏やかな好奇心が、彼の息遣いを優しくくすぐり、体の芯まで熱く震わせた。
──あ……この目、優しすぎて……逃げられない……。
少年の心臓がドキッと跳ねた──収まれ、収まれ……。
彼女は依然として見続け、その眼差しに穏やかな好奇心が宿った。
「あのっ……何かご用でしょうか?」
彼の声が少し上ずった。
ゆいはハッと我に返ってぱっと花のような笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、どこかで会ったような気がして……つい考えこんじゃったわ」
「えっ、どこかでですか? ……えと、すみません……思い出せません」
彼女は指を上げ、くすっと笑った。
「あー、あのうさぎちゃんね。始業式の時の留学生だったかしら? 壇上でぴょんって……かわいかったわ」
少年の頰が夕焼けのように染まった。
「はい……あの時はすみません。お騒がせして」
ゆいは再びニコッと笑い、立ち上がった。
「いいのよ。でもなんだか疲れているみたいね。お茶、入れてあげるわ」
その拍子にセーターの下で布地を押し上げる、柔和で魅力的な輪郭の優美な波打ちが柔らかく揺らめき、少年の視線を自然と引きつけた──まるで穏やかな湖面のさざ波のように、自然で温かな存在感を放っていた。
彼はそれを目にして一瞬ぎょっとし、慌てて目を反らして顔を赤らめた──あ、だめ……見ちゃだめ。落ち着け……。
再度深呼吸をし、心臓の鼓動を抑え込み、横目でゆいが棚からティーポットを取り出す姿を盗み見た。
ゆったりとした動作が、安心を運んでいた。
ポットに熱湯を注ぎルイボスティーを淹れると、香りが部屋にふわりと広がった。
本の匂いと混じり合って、穏やかな霧のように少年を包んだ。
ゆいはカップを彼の前に置いた。
「みんなには秘密ね」
ポケットから小さなクッキーを取り出し、少年の手に忍ばせた。
バターの香りが彼の指先に染みた。
彼女は再び椅子に座り、その瞬間セーターが優しい重みを帯びて軽く揺らめいた。
──この人、一緒にいると落ち着くなぁ……。
ゆいはカップを手に微笑んだ。
「私は高橋ゆい、三年生よ。図書委員をやってるの。あなたは……ゆうくん、よね?」
声が部屋を満たした。
少年は頷いた。
「はい、宇崎ゆうです。月から来ました……よろしくお願いします」
彼が軽く頭を下げた。
ゆいの瞳が細まった。
「うさぎさんになっちゃうなんて、本で読んだことはあったけど……初めて見てびっくりしちゃったわ。かわいかったけど、ちょっと心配になっちゃうわね」
彼女はくすっと笑い、ルイボスティーを一口飲むと香りが再び部屋に広がった。
少年は頰を緩めた。
「そうなんです。ドキドキすると、つい……」
そう言いかけ、カップに手を伸ばしたが、指先が熱い縁に当たり、びくっと体が跳ねた。
少しお茶がこぼれ、ズボンの太ももの内側──敏感な付け根あたりに温かな雫が染み込んだ。
「あちちっ……!」
ゆいはハッと息を飲み、「大変!」と小さな声を上げ、素早くポケットからハンカチを取り出した。
白い布地が少年の膝に手を伸ばした。
ハンカチの感触が、彼のズボンの生地をなぞるように滑り、温かな雫を丁寧に拭い取っていく。
少年の肌に間接的に伝わるその摩擦が、まるで風が肌を撫でるような、静かで親密なリズムを刻んだ。
ゆいの指先は決して乱暴ではなく、どこか繊細な気遣いが混じり合い、拭う動作一つ一つが彼の緊張した神経を優しく解きほぐすようだった。
温かな息吹が布越しに少年の体に染み込み、安心感と同時にざわめきを呼び起こした。
彼は慌てて手を伸ばし、ゆいの腕を軽く押さえようとした。
「自分で出来ますからっ……!」
声が少し上ずり、少年はそう言いながら見下ろした。
視界に彼女のセーターが柔らかく広がり、その下に潜む影が彼の膝に寄りかかるような感覚がした。
ゆいの穏やかな曲線が少年の膝に軽く触れ、布地越しに伝わるその重みが、彼の肌に温かく、しかし控えめな圧力を加えた。
彼女の息づかい一つ一つが少年の体に微かな振動として響いた。
拭かれる感触と、膝に伝わるゆいの温かな重みの交錯が、彼の心臓を激しく鳴らした──あ、だめ……この温もり……!
ぽわんっと小さな音とともに少年は兎に変わってしまい、耳がぴくぴくと立ち、慌ててゆいの手元で縮こまった。
白銀の毛並みが彼女のハンカチに軽く触れ、小さな体が本能的に温もりに寄り添うように丸まった。
「あらあら、どうしましょう……!」
ゆいは目を丸くした。
少し慌てて少年を抱き上げ、手のひらで包んだ。
彼女の視線に心配の色が浮かんだ。
「ゆうくん、大丈夫?」
彼は耳をぺたんと倒した。
「先生を呼んできていただければ大丈夫です……メイドが来てくれます」
ゆいは首を振った。
「ダメよ心配だわ! ……どうにか元に戻る方法は無いの?」
声に穏やかな焦りが混じった。
少年の眼差しが恥ずかしげに揺れた。
「あるには……あるのですが」
言葉を濁し、兎の前足を小さく動かした。
ゆいは少年を膝に抱き、見つめた。
「どうすればいいの? 教えて、ゆうくん」
彼は深呼吸をした。
「キスをすると……元に戻ります」
ゆいはきょとんと目を瞬いた。
「そう……?」
彼女は少年を引き寄せた。
胸元が白銀の毛並みにそっと触れ、セーターの布地が、温かな重みとして彼を支えた。
ゆいの手が、少年の背中を撫でるように支え、体を安定させながら、ゆっくりと顔を近づけた。
唇が彼の口先に、重く、深く、重ねられた。
ゆいの唇は、想像以上に厚く、温かく、少年の口を包み込むように広がった。
息が静かに溶け合い、彼女の吐息が彼の耳をくすぐり、甘い花のような香りが鼻腔を満たした。
それは、ただのキスではなく、深い包容の感触──ゆいの唇が小さな口を覆うように密着し、体全体を優しく溶かすような温もりを注ぎ込んだ。
「大丈夫よ、ゆうくん……」と、唇の端から無言の囁きが伝わり、少年の心に染み渡った。
ゆいの舌先が、わずかに唇をなぞるように動き、兎の敏感な感覚を刺激し、彼の体がびくんと震えた。
キスの温もりが、体を痺れさせ、時間そのものが止まったかのように感じられた。
少年の体が人間の姿に戻った。
ゆいの膝の上で息を弾ませ、二人はゆっくりと唇を離した。
彼女のまなざしが少年を映し、少し目を丸くした。
「ほんとうに戻るのね……びっくりしちゃったわ」
だが視線を少し下げた。
「あら、こここんなに腫れちゃってる……大変っ」
慌ててハンカチを押し当てた。
少年は頰を真っ赤に染め、ゆいの膝から体を起こし、息を荒げた。
「これは大丈夫です……本当に、大丈夫なんです!」
慌てて服を整え立ち上がり、髪を直した。
「失礼しました……ありがとうございました、高橋先輩」
そう言って図書室の扉を開け、出て行った。
「また来てね、ゆうくん」
背後でゆいの声が余韻を残した。
廊下の喧騒に溶け込みながら少年の心臓はまだ鳴り止まなかった。
図書室の扉が静かに閉まる音がし、彼の新しい出会いを封じ込めた。




