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第60話 崩れないための形

 雨は降っていなかった。


 けれど空は重く、夕方の光が鈍く滲んでいた。


 図書館の自動ドアが開く。


 裕翔はいつものように中へ入る。


 視線は自然に、あの席へ向かった。


 ――いる。


 一ノ瀬さつき。


 けれど。


(……え)


 少し違った。


 姿勢が浅い。

 背中が机にもたれている。


 彼女がこんな座り方をしているのを、初めて見た。



「……おはよ」


「ん」


 短い返事。


 声が少しだけ掠れていた。


 机の上には参考書。

 ノート。

 問題集。


 いつも通り。


 なのに。


 ページがほとんど進んでいない。



 五分。


 十分。


 ペンが止まる時間の方が長い。


 問題を読む。

 止まる。

 書く。

 消す。


 同じ動きを繰り返していた。



(集中できてない)


 明らかだった。


 それでも彼女は席を立たない。


 やめない。


 続けようとしている。



 突然。


 シャーペンの芯が折れた。


 小さな音。


 それだけ。


 なのに、さつきの手が止まった。


 動かない。


 新しい芯を出さない。


 ただ、折れた先を見ている。



「……一ノ瀬?」


 呼ぶ。


 反応が遅れた。


「あ、うん」


 慌てて芯を出す。


 けれど指先がうまく動かない。


 カチ、カチ、と空回りする。



「今日、帰る?」


 気づけば言っていた。


「……まだやる」


 即答。


 でも、その声は弱かった。



 数秒後。


 さつきが小さく呟く。


「……分かんなくなった」


「え?」


「さっき解けてた問題、解き方……思い出せない」


 初めてだった。


 彼女が“できない”を口にしたのは。



 ノートを見る。


 途中まで完璧な式。


 最後だけ止まっている。


 単純な計算。


 本来なら迷う場所じゃない。



「……ちょっと休めば?」


「大丈夫」


 反射みたいな返答。


 でも。


 その直後。


 ペンが机に落ちた。


 拾おうとして――止まる。


 手が動かない。



 沈黙。


 図書館の空気だけが流れる。


 さつきは俯いたまま、小さく息を吐いた。


「……止まると」


 声が低い。


「なんか、全部ダメになる気がして」



 裕翔は何も言えなかった。


 励ます言葉が浮かばない。


 正解が分からない。


 ただ。


 胸の奥がざわつく。



「……別に」


 さつきが続ける。


「困ってるわけじゃないし」


 笑おうとする。


 でも、うまくいかない。


「ちゃんとやれば、できるから」


 その言葉が、一番苦しそうだった。



 ポケットの中でスマホが震える。


 REALITÉ。


 画面を開く。



 紹介可能率


 58% → 79%



 裕翔は息を止めた。


 一気に上がった。


 今までで最大。



 表示はそれだけ。


 理由も説明もない。


 ただ、数値だけが変わっている。



 顔を上げる。


 向かい。


 さつきは再びペンを握ろうとしていた。


 震える手で。


 崩れないために。


 同じ形を保とうとしているみたいに。



(……これ)


 初めて思った。


 リアリテのためじゃない。


 数値のためでもない。



(放っておきたくない)



 その感情だけが、はっきりしていた。


 そして裕翔はまだ知らない。


 その気持ちが、もう選択の直前まで来ていることを。

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